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四章 スーパーバイザーとして
60話 砕けた夢のかけらを追って。
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「昔、私は料理人を目指してたんです。……もっとちゃんと言うと、実家を継げるようになりたくて。それしか見えてなかった。今考えたら、視野が狭いって話なのかもしれませんけど、小さな私にはそれが全部で。お店自体が、広い海みたいだって思ってたんです。
料理屋って、いろんな人がいろんなものを抱えてやって来るじゃないですか。昼間は全然違うところにいる誰かが、その日だけかもしれないけど、ご飯を食べるだけの目的のために一ヶ所へ集まる。それってスペースの大小関係なく、広いなって思って。同じ場所にいるだけで、外の世界と繋がってるんですもん」
その空間は今も、希美にしてみればとても広いものだと思っている。
少し逸れた話を、希美は自分で引き戻す。
「とにかくそんなわけで、私は絶対、木原食堂の店主になりたかったんです」
お花屋さんにも、ケーキ屋さんにもならなくていい。ただ家を継げればいい。幼稚園の頃から、『なりたい夢の職業』さえ、ぶれたことはなかった。
それは中学生へと上がり、アンケートが『進路調査票』へと形を変えても、同じことだった。
高校の進路調査表は、一年生の頃から全て『就職』の欄に丸をつけた。普通は進学を勧める先生も、希美にはなにも言ってこなかった。
それは傍目に見ても、決して無謀ではなく、手の届く範囲にある夢だったからだろう。
でもそれはある日、突然届かないものへと変わった。伸ばした指の手前、手首にすとんと刃が落ちたからだ。比喩ではなく、実際の話だ。
「私の調子が悪かったわけでもなんでもなかったんです。自分で買った安い包丁だったから、ガタがきてたんだと思います」
包丁がカランカランと床へ落ちて、ドクンドクンと床へ赤色が垂れる。
思い出してしまったら、痒くなってきた。
希美は、ぎゅうっと右手首を握る。
それから決心して、数年ぶりに、Gショックを外した。目立って白い手首が覗く。
封じ込めてきた、夢のカケラと対峙する気分だった。
「大きくて頑丈で耐水性もあって、お風呂でも外さなくていい。傷を隠すにはちょうどよかったんです、これ」
「袖握る癖もそこからきてるんだな」
「……はい。傷を思い出すと弱気になっちゃうので。だから、追い出すようにって」
久しぶりに見た傷の跡は、かなり薄れてきていた。
けれど、トラウマは未だ残っている。
目が覚めると、希美は病院のベッドの上にいた。幸い致命傷になる傷ではなく、診断は、多量出血のショックによる失神。
日帰りで退院をしたのだが、その日から、包丁が握れなくなった。
生活の根幹を揺るがす一大事だった。
その頃の希美は、料理と一緒に生きていたといっても過言ない。自室には、希美専用の冷蔵庫があり調味料棚や盛り付け用の皿まで、自分が使うためだけに所持していた。
「鴨志田さんの言い方を借りるなら、それが私にとっての宝物だったんです」
今日はなにを作ろうか。
冷蔵庫を開けて、材料と相談する時間が楽しくてしかたなかった。
だが、それもこれも包丁を握れないのでは話にならない。
しばらくして両親は、希美から調理器具全てを取り上げた。「触れさせないように」と医者に忠告されたらしいから、きっと粗大ゴミにでも出したのだろう。
親ならば当たり前の対応だ。
だがその当たり前が、希美の目の前を真っ暗にした。
「そんな時に手をのべてくれたのが陸上だったんです。走ってる間は色んなこと忘れられて。やるからには全力で、って。これでも百メートルは県大会まで行ったんですよ」
ただ、逆に言えばそこまでだった。
「陸上をするために、大学進学に進路変更したんです。ボロボロだった偏差値、必死であげて、なんとかそこそこの学校に入学しました。……でも四年になっても、全国の壁は破れませんでした」
そうなれば、どこかへ就職するしかない。
就業場所だけは、東京と決めていた。心機一転! なんて周りには語っていたが、有り体に言えば逃げたかった。
実家は、妹が継ぐことに決まっていた。
悔しくて、彼女が調理場に立つのを、直視できないくらいだったのだ。
会社は正直どこでもよかった。
無名の大学とはいえ一応は経済学部だったから、金融系へと考えていたが、
「求人サイトを見てて、『ダッグダイニング』の方針に感動したんです。店舗じゃなくて、本部。そっか、そんな風なご飯への関わり方もあるんだ! って」
結局、希美は諦めきれていなかったのだ。
傷を負って、封じたはずの夢が、まだそこにはあった。
「面接で言ったんですよ、これ。包丁は使えないんだって話」
「なんで自分から傷掘り返すようなこと」
「それくらい本気だったんです。自分にはトラウマでも人に美談に聞こえて、もし願いが叶うなら、って」
そして無事、希美は入社に至った。
事務職での採用だった。学部を考慮されてだろう。配属されたのは、財務部だった。
普通、スーパーバイザーは店舗を詳しく知る、現場上がりの人間がなるものだ。
規模も小さく、初の試みだったと言う会社の事情がなければ、今の仕事には就けていなかったろう。
料理屋って、いろんな人がいろんなものを抱えてやって来るじゃないですか。昼間は全然違うところにいる誰かが、その日だけかもしれないけど、ご飯を食べるだけの目的のために一ヶ所へ集まる。それってスペースの大小関係なく、広いなって思って。同じ場所にいるだけで、外の世界と繋がってるんですもん」
その空間は今も、希美にしてみればとても広いものだと思っている。
少し逸れた話を、希美は自分で引き戻す。
「とにかくそんなわけで、私は絶対、木原食堂の店主になりたかったんです」
お花屋さんにも、ケーキ屋さんにもならなくていい。ただ家を継げればいい。幼稚園の頃から、『なりたい夢の職業』さえ、ぶれたことはなかった。
それは中学生へと上がり、アンケートが『進路調査票』へと形を変えても、同じことだった。
高校の進路調査表は、一年生の頃から全て『就職』の欄に丸をつけた。普通は進学を勧める先生も、希美にはなにも言ってこなかった。
それは傍目に見ても、決して無謀ではなく、手の届く範囲にある夢だったからだろう。
でもそれはある日、突然届かないものへと変わった。伸ばした指の手前、手首にすとんと刃が落ちたからだ。比喩ではなく、実際の話だ。
「私の調子が悪かったわけでもなんでもなかったんです。自分で買った安い包丁だったから、ガタがきてたんだと思います」
包丁がカランカランと床へ落ちて、ドクンドクンと床へ赤色が垂れる。
思い出してしまったら、痒くなってきた。
希美は、ぎゅうっと右手首を握る。
それから決心して、数年ぶりに、Gショックを外した。目立って白い手首が覗く。
封じ込めてきた、夢のカケラと対峙する気分だった。
「大きくて頑丈で耐水性もあって、お風呂でも外さなくていい。傷を隠すにはちょうどよかったんです、これ」
「袖握る癖もそこからきてるんだな」
「……はい。傷を思い出すと弱気になっちゃうので。だから、追い出すようにって」
久しぶりに見た傷の跡は、かなり薄れてきていた。
けれど、トラウマは未だ残っている。
目が覚めると、希美は病院のベッドの上にいた。幸い致命傷になる傷ではなく、診断は、多量出血のショックによる失神。
日帰りで退院をしたのだが、その日から、包丁が握れなくなった。
生活の根幹を揺るがす一大事だった。
その頃の希美は、料理と一緒に生きていたといっても過言ない。自室には、希美専用の冷蔵庫があり調味料棚や盛り付け用の皿まで、自分が使うためだけに所持していた。
「鴨志田さんの言い方を借りるなら、それが私にとっての宝物だったんです」
今日はなにを作ろうか。
冷蔵庫を開けて、材料と相談する時間が楽しくてしかたなかった。
だが、それもこれも包丁を握れないのでは話にならない。
しばらくして両親は、希美から調理器具全てを取り上げた。「触れさせないように」と医者に忠告されたらしいから、きっと粗大ゴミにでも出したのだろう。
親ならば当たり前の対応だ。
だがその当たり前が、希美の目の前を真っ暗にした。
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ただ、逆に言えばそこまでだった。
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そうなれば、どこかへ就職するしかない。
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実家は、妹が継ぐことに決まっていた。
悔しくて、彼女が調理場に立つのを、直視できないくらいだったのだ。
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「面接で言ったんですよ、これ。包丁は使えないんだって話」
「なんで自分から傷掘り返すようなこと」
「それくらい本気だったんです。自分にはトラウマでも人に美談に聞こえて、もし願いが叶うなら、って」
そして無事、希美は入社に至った。
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