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四章 スーパーバイザーとして
65話 いつかの冷蔵庫
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「一人暮らしは大丈夫やで。あとこの人は、会社の上司やから!」
「上司? どうして上司と一緒に家へ帰ってくる必要があるんだ」
考えてみれば不自然な話だが、複雑な事情まで全て説明すると長くなる。
答えあぐねていたら、
「出張ついでですよ。なにもありませんから、ご心配なく」
鴨志田が仮面の笑顔で微笑む。
とっさにそれらしい理由が浮かぶあたり、鴨志田らしい。
美菜は、その美貌に分かりやすく顔を火照らせていた。あとで現実を教えてやる必要があるかもしれない。
「うちのこともそうやけど、お店はどうなん?」
希美は、話題を変える。
すると、木原家三人が口々に喋りだした。店は、美菜が仕切って回すようになったのが一番大きな変化らしい。家については、風呂場が壊れたついでに、一部をリフォームをしたのが一番のニュースだとか。どちらも、そう大きなものでもない。
「うちの部屋は? 荷物おきにしちゃった?」
「そのままにしてあるわよ。整理しないで出ていったでしょ、希美」
「……あー、そうやっけ」
いらないものまで掘り起こしたくなかったから、一人暮らしの部屋にあるものは、ほとんど東京で買い揃えたのだった。
「ちょっと片付けてきなさい。……あ、でももしかして次の予定がありますか?」
一言目は希美に向けて、残りは鴨志田に、母が遠慮がちに問う。
「いいえ、そう急ぎではありませんよ。その間ここで待たせてもらいますね」
「はい。ぜひ、なんでも食べていってください。娘がお世話になってますから無料で出しますよ」
「いえ、そこまで世話になれませんよ」
三人に愛嬌を振りまいてから、鴨志田の表情は真剣みを帯びる。
「行ってこいよ。後輩が一人で行くべき場所だろ」
「はい。じゃあすぐ戻りますから」
一言断って、希美は軋む通用口のドア奥へと足を向けた。
従業員待機室を抜けると、玄関で靴を脱ぐ。足が震えていることに気がついたのは、その時だった。過去へ置き去りにしてきた自分と対面するのは、かなり勇気がいる。
でも、鴨志田がここまでお膳立ててくれたのだ。一人じゃないと思えば、部屋へはすんなりと入室できた。
埃っぽい空気を浴びて、数年前と変わらないレイアウトを見る。ただ一つ、けれど大きな違いがあった。
「…………これ、うちの冷蔵庫……!」
越谷の家とは大違い、使い古されたものだった。
パン屋のポイントシールがじかに貼ってあり、猫のマグネットが付いている。間違いなく、それは希美が高校生の頃に愛用していたものだ。
とっくに捨てられたと思っていた。
希美はタイムスリップでもした気分で、扉へ触れる。そこで色々と記憶が蘇って、学習机の本棚に手を伸ばした。その一角は、料理関係のもので固められていた。レシピ本や教則本の間、そこに、あるノートを埋めていたのだ。
自作のレシピ本である。
いつか自分の料理を店で出すために、こそこそ書き綴ったものだった。
「なにこれ、丸パクリやん。こっちなんか、絶対まずいし」
捲ってみると、ひどい出来だ。
商品企画部に提出したら、仲川にまず跳ね除けられる。
けれど、希美の夢が全部、一つのレシピごとに詰められていた。
たっぷり時間をかけて、最後のページにたどり着く。そこには、将来の夢を描いていたのだった。
『料理でみんなを笑顔に! 誰かの幸せを作れるように』と。
裏表紙に、ぽとりと涙が落ちた。それをきっかけに嗚咽を漏らして泣いてしまう。
今の現状は、十七の希美が思い描いていた未来ではたぶんない。
だから、夢破れたものだと思っていた。
でも、本当はまだ同じ夢を追っていた。
希美は今も、まさにその目標のために働いている。涙が止まりそうになかった。文字が読めなくなったらいけない。ノートを閉じて、顔を袖で拭う。
じぃ、と冷蔵庫が音を立てたのに気づいた。
根元を見れば、コンセントに接続されている。
不思議に思って、戸を開ける。中には、卵や野菜、肉などたくさんの具材が詰まっていたではないか。
驚きつつレンコンに貼られたメモ紙を手に取ると、『ひき肉のはさみ揚げ 美菜』こう書かれていた。
「上司? どうして上司と一緒に家へ帰ってくる必要があるんだ」
考えてみれば不自然な話だが、複雑な事情まで全て説明すると長くなる。
答えあぐねていたら、
「出張ついでですよ。なにもありませんから、ご心配なく」
鴨志田が仮面の笑顔で微笑む。
とっさにそれらしい理由が浮かぶあたり、鴨志田らしい。
美菜は、その美貌に分かりやすく顔を火照らせていた。あとで現実を教えてやる必要があるかもしれない。
「うちのこともそうやけど、お店はどうなん?」
希美は、話題を変える。
すると、木原家三人が口々に喋りだした。店は、美菜が仕切って回すようになったのが一番大きな変化らしい。家については、風呂場が壊れたついでに、一部をリフォームをしたのが一番のニュースだとか。どちらも、そう大きなものでもない。
「うちの部屋は? 荷物おきにしちゃった?」
「そのままにしてあるわよ。整理しないで出ていったでしょ、希美」
「……あー、そうやっけ」
いらないものまで掘り起こしたくなかったから、一人暮らしの部屋にあるものは、ほとんど東京で買い揃えたのだった。
「ちょっと片付けてきなさい。……あ、でももしかして次の予定がありますか?」
一言目は希美に向けて、残りは鴨志田に、母が遠慮がちに問う。
「いいえ、そう急ぎではありませんよ。その間ここで待たせてもらいますね」
「はい。ぜひ、なんでも食べていってください。娘がお世話になってますから無料で出しますよ」
「いえ、そこまで世話になれませんよ」
三人に愛嬌を振りまいてから、鴨志田の表情は真剣みを帯びる。
「行ってこいよ。後輩が一人で行くべき場所だろ」
「はい。じゃあすぐ戻りますから」
一言断って、希美は軋む通用口のドア奥へと足を向けた。
従業員待機室を抜けると、玄関で靴を脱ぐ。足が震えていることに気がついたのは、その時だった。過去へ置き去りにしてきた自分と対面するのは、かなり勇気がいる。
でも、鴨志田がここまでお膳立ててくれたのだ。一人じゃないと思えば、部屋へはすんなりと入室できた。
埃っぽい空気を浴びて、数年前と変わらないレイアウトを見る。ただ一つ、けれど大きな違いがあった。
「…………これ、うちの冷蔵庫……!」
越谷の家とは大違い、使い古されたものだった。
パン屋のポイントシールがじかに貼ってあり、猫のマグネットが付いている。間違いなく、それは希美が高校生の頃に愛用していたものだ。
とっくに捨てられたと思っていた。
希美はタイムスリップでもした気分で、扉へ触れる。そこで色々と記憶が蘇って、学習机の本棚に手を伸ばした。その一角は、料理関係のもので固められていた。レシピ本や教則本の間、そこに、あるノートを埋めていたのだ。
自作のレシピ本である。
いつか自分の料理を店で出すために、こそこそ書き綴ったものだった。
「なにこれ、丸パクリやん。こっちなんか、絶対まずいし」
捲ってみると、ひどい出来だ。
商品企画部に提出したら、仲川にまず跳ね除けられる。
けれど、希美の夢が全部、一つのレシピごとに詰められていた。
たっぷり時間をかけて、最後のページにたどり着く。そこには、将来の夢を描いていたのだった。
『料理でみんなを笑顔に! 誰かの幸せを作れるように』と。
裏表紙に、ぽとりと涙が落ちた。それをきっかけに嗚咽を漏らして泣いてしまう。
今の現状は、十七の希美が思い描いていた未来ではたぶんない。
だから、夢破れたものだと思っていた。
でも、本当はまだ同じ夢を追っていた。
希美は今も、まさにその目標のために働いている。涙が止まりそうになかった。文字が読めなくなったらいけない。ノートを閉じて、顔を袖で拭う。
じぃ、と冷蔵庫が音を立てたのに気づいた。
根元を見れば、コンセントに接続されている。
不思議に思って、戸を開ける。中には、卵や野菜、肉などたくさんの具材が詰まっていたではないか。
驚きつつレンコンに貼られたメモ紙を手に取ると、『ひき肉のはさみ揚げ 美菜』こう書かれていた。
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