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四章 スーパーバイザーとして
68話 今日までありがとうございました!
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五
その日も、鴨志田は希美の家に泊まった。
越谷に帰り着いたのは深夜だった。
鴨志田は理由もなくは泊まれない、と自宅へ帰ろうとしていた。けれど、さすがに吉祥寺は遠かろうと希美が引き留めたのだ。
「いいんだよ、休み明けくらい少し遅刻したって」
ただ、翌朝の希美はその判断を悔やんでいた。
「なんであんなに時間かかるんですか、ボサボサ頭なのに!」
「無造作ヘアって言うんだ。本当の自然まんまじゃなくて、お洒落なんだよ」
「仕事に過度なお洒落はいりません!」
朝から時間が押しに押していた。さらに運の悪いことには、車が渋滞にもつかまる。
「すいません! 遅れました!」
店に到着したのは始業から三十分後だった。
希美は余裕の鴨志田を放り出して入り口まで駆けて、潔く頭を下げて謝る。
急に休んだうえで遅刻では合わせる顔がない。
そろーっと様子を見るため目線を上げると、意外な人たちの姿があった。
希美が目を剥いていると、鼓膜によく響く理知的な声が言う。
「木原さん。いらっしゃったのですね。お休みになるかと思っていましたよ」
「希美ちゃん、汗すごいよ?」
仲川部長と恵子が店舗の制服姿で、キッチンに立っていたのだ。
「ど、どうして、二人とも……? というか、その格好は」
「昨日の朝、鴨志田から、あなた方の代わりを頼まれましてね。パフェ騒動の恩返しをさせていただこうと思ったのです」
「えぇ、代役って部長だったんですか! なんで、そんな偉い人が」
「この間、役職だけに固執してはダメだと私に説いたのはあなたでしょう?」
その言葉に、希美の背中を震えが駆け上がった。
水を差すと思ってだろう、店員がその斜めから控えめに物を尋ねる。彼は眼鏡の奥の目を眇めると、業務手順を手ほどきしていた。
「そんなに急ぐことないだろ、後輩。これ忘れていってるし」
遅れてきた鴨志田が、バンダナをひらひら舞わせながら言う。謀られた、とそこで気付いた。彼は、この光景を見せるためにわざと遅刻したのだ。
始業に間に合ってしまえば、希美の性格からして、「自分もやる」と引かなかっただろう。
実際に動いているところはただでは見られない。
「……もう、そんなキザなことやめてくださいよ」
「なんのことか分からないな。俺は単に遅刻寝坊したんだよ」
希美はぐっと手首を握り返して、嗚咽を堪える。
希美のためにここまでしてくれた人たちの姿を、目に焼き付けることにした。
従業員への説明を終えたあと、仲川が包丁を握る。彼は、たまねぎを薄くスライスしはじめた。よく砥がれているのであろう、その切っ先が鋭利に光る。
──怖くない。
目をそらしかけたときにふと、そう思った。
カランカラン、耳鳴りはしない。手首の脈を押さえてみても、ドクンドクンとはうねらない。ゆったりと一定の拍を保っている。
「おい、後輩?」
気づけば、引き込まれていくかのように足が動き出していた。包丁から目を離せないまま、手元に集中している仲川にずいずいにじり寄る。
「ど、どうされました。やってみますか?」
まな板の上に、包丁が置かれた。刃先が振動するのをみても、やはり恐怖は鳴りを潜めていた。
それでも、まるで初めて包丁を持つ少女のように、そおっと角々しい黒の柄に触れる。
まず、持ち上げることができた。左手ですぐ近くに置いてあった、半玉分のたまねぎを掴む。Gショックを巻いた右の手首にちょっと力を入れると、しゃく、気味のいい音をまな板が立てた。
とんとん、徐々に速度を上げる。
夢か現かのうちに、薄切りの山が包丁の右側に積み上がっていた。
包丁の背を自分側へ向けて、ゆっくり手を離す。そして希美は、顔を上げた。
「切れました……。私、包丁使えましたっ! 鴨志田さんっ!!!!」
キッチンを飛び出ると、食材をダメにしまいと耐えていた涙が飛沫になって溢れる。
危うく抱きつきかけるが、そこは乙女の意地で、踏みとどまった。
鴨志田は頬を緩ませながら、言葉に詰まる。
まるで泣いてしまうのを我慢しているかのようだった。
「……あぶねー、涙もろくてだめだ。よかったよ、ほんと。格好いいな、後輩。その時計も、なおさら格好良く見える」
雑な手つきで希美の髪を撫でると、くしゃり丸める。
希美は、腕時計を外して少し撫でてみた。
長い間背負わせ続けいていた、傷を、過去を隠す役目はついに終わりになった。
やっと、ただのアクセサリーになったのだ。
「鴨志田さん、ありがとうございます」
嗚咽を堪えつつ、三度、連呼する。
「俺にはいいから、仲川たちに言ってやれよ。それから感謝してる暇があったら、着替えてこい。まだオープンもできてないんだ」
仲川は、なんだか複雑そうな表情でこちらを見ていた。
恵子は、希美と変わらぬくらい頬を涙で濡らしている。佐野課長も袖の方で、小さくではあるが、拍手をくれた。
「みなさん、今日まで、ありがとうございました!」
希美は、三人だけではなく他の従業員にも伝わるよう、はっきりと言う。
「退職すんのかよ、後輩は」
「……あ」
鴨志田の指摘で、過ちに気づいた。
肝心なところで締まらない。
その日も、鴨志田は希美の家に泊まった。
越谷に帰り着いたのは深夜だった。
鴨志田は理由もなくは泊まれない、と自宅へ帰ろうとしていた。けれど、さすがに吉祥寺は遠かろうと希美が引き留めたのだ。
「いいんだよ、休み明けくらい少し遅刻したって」
ただ、翌朝の希美はその判断を悔やんでいた。
「なんであんなに時間かかるんですか、ボサボサ頭なのに!」
「無造作ヘアって言うんだ。本当の自然まんまじゃなくて、お洒落なんだよ」
「仕事に過度なお洒落はいりません!」
朝から時間が押しに押していた。さらに運の悪いことには、車が渋滞にもつかまる。
「すいません! 遅れました!」
店に到着したのは始業から三十分後だった。
希美は余裕の鴨志田を放り出して入り口まで駆けて、潔く頭を下げて謝る。
急に休んだうえで遅刻では合わせる顔がない。
そろーっと様子を見るため目線を上げると、意外な人たちの姿があった。
希美が目を剥いていると、鼓膜によく響く理知的な声が言う。
「木原さん。いらっしゃったのですね。お休みになるかと思っていましたよ」
「希美ちゃん、汗すごいよ?」
仲川部長と恵子が店舗の制服姿で、キッチンに立っていたのだ。
「ど、どうして、二人とも……? というか、その格好は」
「昨日の朝、鴨志田から、あなた方の代わりを頼まれましてね。パフェ騒動の恩返しをさせていただこうと思ったのです」
「えぇ、代役って部長だったんですか! なんで、そんな偉い人が」
「この間、役職だけに固執してはダメだと私に説いたのはあなたでしょう?」
その言葉に、希美の背中を震えが駆け上がった。
水を差すと思ってだろう、店員がその斜めから控えめに物を尋ねる。彼は眼鏡の奥の目を眇めると、業務手順を手ほどきしていた。
「そんなに急ぐことないだろ、後輩。これ忘れていってるし」
遅れてきた鴨志田が、バンダナをひらひら舞わせながら言う。謀られた、とそこで気付いた。彼は、この光景を見せるためにわざと遅刻したのだ。
始業に間に合ってしまえば、希美の性格からして、「自分もやる」と引かなかっただろう。
実際に動いているところはただでは見られない。
「……もう、そんなキザなことやめてくださいよ」
「なんのことか分からないな。俺は単に遅刻寝坊したんだよ」
希美はぐっと手首を握り返して、嗚咽を堪える。
希美のためにここまでしてくれた人たちの姿を、目に焼き付けることにした。
従業員への説明を終えたあと、仲川が包丁を握る。彼は、たまねぎを薄くスライスしはじめた。よく砥がれているのであろう、その切っ先が鋭利に光る。
──怖くない。
目をそらしかけたときにふと、そう思った。
カランカラン、耳鳴りはしない。手首の脈を押さえてみても、ドクンドクンとはうねらない。ゆったりと一定の拍を保っている。
「おい、後輩?」
気づけば、引き込まれていくかのように足が動き出していた。包丁から目を離せないまま、手元に集中している仲川にずいずいにじり寄る。
「ど、どうされました。やってみますか?」
まな板の上に、包丁が置かれた。刃先が振動するのをみても、やはり恐怖は鳴りを潜めていた。
それでも、まるで初めて包丁を持つ少女のように、そおっと角々しい黒の柄に触れる。
まず、持ち上げることができた。左手ですぐ近くに置いてあった、半玉分のたまねぎを掴む。Gショックを巻いた右の手首にちょっと力を入れると、しゃく、気味のいい音をまな板が立てた。
とんとん、徐々に速度を上げる。
夢か現かのうちに、薄切りの山が包丁の右側に積み上がっていた。
包丁の背を自分側へ向けて、ゆっくり手を離す。そして希美は、顔を上げた。
「切れました……。私、包丁使えましたっ! 鴨志田さんっ!!!!」
キッチンを飛び出ると、食材をダメにしまいと耐えていた涙が飛沫になって溢れる。
危うく抱きつきかけるが、そこは乙女の意地で、踏みとどまった。
鴨志田は頬を緩ませながら、言葉に詰まる。
まるで泣いてしまうのを我慢しているかのようだった。
「……あぶねー、涙もろくてだめだ。よかったよ、ほんと。格好いいな、後輩。その時計も、なおさら格好良く見える」
雑な手つきで希美の髪を撫でると、くしゃり丸める。
希美は、腕時計を外して少し撫でてみた。
長い間背負わせ続けいていた、傷を、過去を隠す役目はついに終わりになった。
やっと、ただのアクセサリーになったのだ。
「鴨志田さん、ありがとうございます」
嗚咽を堪えつつ、三度、連呼する。
「俺にはいいから、仲川たちに言ってやれよ。それから感謝してる暇があったら、着替えてこい。まだオープンもできてないんだ」
仲川は、なんだか複雑そうな表情でこちらを見ていた。
恵子は、希美と変わらぬくらい頬を涙で濡らしている。佐野課長も袖の方で、小さくではあるが、拍手をくれた。
「みなさん、今日まで、ありがとうございました!」
希美は、三人だけではなく他の従業員にも伝わるよう、はっきりと言う。
「退職すんのかよ、後輩は」
「……あ」
鴨志田の指摘で、過ちに気づいた。
肝心なところで締まらない。
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