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一章 山梨・ほうとう、群馬・おっきりこみ

一章 山梨・ほうとう、群馬・おっきりこみ(9)

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私が前の会社に入ったのは、三年前だった。

不動産会社の営業企画、初任給は二十四万円でボーナスは年三回。それだけを決め手に、なにも知らずに飛び込んだ。就職先の希望は、本当は別にあった。飲食店業界だ。調理の才能がないのは分かっていたから、関われればなにでもよかった。

一番現実的だったのは、働いていたファミレスでそのまま社員にしてもらうことだった。就活もしないで済むし、気心の知れた仲間ともやれる。

だが、そんな私の青写真を脆くも崩れた。壊したのは、母の強硬な姿勢だった。不安定だ、重労働だ、四大まで出てどうして、と四回生の頃はほとんど顔を合わせるたびに真っ向から反対した。

うちの家は、父親がいない。だから母の意見は、家のそれに等しかった。ろくに言うことを聞かない子だった私だけれど、最後には母の意思をむげにはできなかった。私は、二十二歳にしてついに「いい子」になったのだ。

そうして就職が決まって、待っていたのはファミレスをも凌ぐ重労働だった。引きが悪かった、いわゆるブラック企業だったのだ。毎日のように残業を繰り返し、時計が一周するギリギリに帰りつくのがやっと。

私は、そもそもポカが多い性格だ。この一直線な性格のせい、これと決めると突っ走ってしまうのだ。それに寝不足まで加わって、私はいくつも失敗を重ねた。上司が金切り声で怒鳴るのは、いまだに脳裏に蘇ってくる。

そんな悪環境の中だったけれど、私はこの悪癖を直そうと努力をした。そうして二年以上勤め上げるうち、徐々にではあるが、私のミス癖は減っていっていた。

しかし、三年目に差し掛かる直前、事件は起きた。社内の誰もが関わるような大きな企画案件に、重大な欠陥があることが判明したのだ。

真っ先に目くじらを立てられたのは、私だった。

それは私のやったものではなかった。けれど、誰もが私だと疑わない。いわば、今日の男と同じで、ラベルをつけられていたのだ。「ミスと言えば、佐田」と。いるのだろう真犯人は、私が叱責されているのを見ても名乗り出てはこなかった。

関係していた取引先への謝罪に出向かされる。どこへ行っても、上司からはいわれのないことで責められた。

「本当どうしようもない奴だ」「目つきも悪い、頭も悪い」

謝れば済む。それが会社のため、自分のためだ。そんなことは分かっていた。分かっていたのに、やってしまった。これまで散々失言はしてきたけれど、人生最大のものだったと思う。

「私じゃない」

無実を訴えてみたら、すっぱりと首がとんだ。「業務上の過失につき」、とのことだった。いともあっさり、私はこの春、無職になった。

結局二十五になっても私は、「いい子」にはなりきれなかったのだ。
普段は切り替えの早い私だが、さすがにクビの宣告はかなり堪えた。次の日から私は家にしばらく籠りきりになった。そんな娘に、母はなにも言わなかった。私が憔悴しきっていたからか、自分の勧めたせいだと責任を感じたのかは知らない。日がな家にいても、愚痴の一つもなかった。

だが、だからこそ甘えてはいられないと就職活動を始めたのは失職してから、一か月経った先週。今日が一社めの面接だった。そして、

「たかが三年でやめた奴になにができるんだって。大学でなにを学んできたんだって」

圧迫面接を引き当ててしまった。またしても、運の悪いことに。
記念すべき一社めだから、と勝手に運命を求めようとしていた私の思いは、なで切りにされた。
やけを起こして酒だと彷徨っているうちに、この店へたどり着いたわけだ。バイトのチラシが気になったのは、クビになったせい、減る一方だった預金残高のことを思い出してのことだった。

「でもそうなんですよ、面接官はなにも間違ってなんかない。本当に私はどうしようもないんです。だってなにも持ってない、悪いものばっかり」

顔は怖いわ、衝動的で失敗を重ねるわ、自分の特徴を挙げていくごとに無力感が増してきて、私を襲う。
ペンが指をすり抜け、机に転げ落ちた。落ちたといえば、もう一つ。
涙も。紙の上にしずくがぽとぽとと滴る。

なにをやってるんだろう。それも今日会ったばかりの人の前だ。江本さんは迷惑に違いない。けれど、湧き上がってきてしょうがなかった。拭っても拭っても間に合わない。せっかく就活用に新調したスーツだのに。でも、止められるかというと、だめだった。

履歴書の空欄が、大粒の涙で埋まっていく。かわりに私は、空っぽになっていった。ううん、とっくのとうに私にはなんにも――

「そんなことは全くございません」
「……えっと?」
「佐田さんはむしろ才能の塊です」

私はわけのわからぬまま、顔をあげる。ぐしゃぐしゃ揺れる視界の中の彼は、少し微笑んでいるように見えた。

「お世辞はやめてください」

喉がひっついて、声が掠れてしまう。ひどいだみ声だ。

「私は気の利いたことを言える方ではありません」
「……でも、だって、どこが!」
「今日は佐田さんの真っ直ぐさに救われました。事態が丸く収まったのは、佐田さんがあの男に果敢に立ち向かってくれたおかげかと」
「…………そんなの、たまたまで」

「また、あなたはよく知らないはずの郷土料理のよさを、今日の短い時間だけで分かってもくれました。それだけでも、そうないことでございます。加えて味覚の鋭さまで持っているのですから、これを才能と呼ばずしてどう言いましょう」
「でも、そんなの持ってたって使えないんだって!!」
「いいえ。一つだけ、活かす方法がありますよ」
「…………なに」

たぶん、ひどいツラをしていた。化粧はぐしゃぐしゃに崩れているだろうし、細く鋭い目は赤く充血しているに違いない。さっき会ったお水の勧誘だったなら、腰を抜かしているだろう。それなのに、江本さんは私から顔を逸らさない。むしろ真剣な表情で、私を真正面から捉える。

「よろしければ、一緒に働いてはくれませんか」

そして、こう言った。つっけんどんに、されどはっきりと。

「僕は、あなたを雇いたい。アルバイトとして、に今の売り上げ状況ではなってしまいますが。あとは佐田さんがどうするかでございます」
「……私だってここで働けるものなら働きたいです。でも、私はもう二十五なんです。社会的に見たら、バイトをしてる場合じゃない。それにお母さんもたぶん怒ります」

「僕も二十五です。両親は店を開くことには反対しましたが、それでもこうしてやっている。それは僕がしたいことだからです。郷土料理を広く知ってほしい。そして、この素晴らしさを教えてくれた太陽みたいな人に、いつか僕の料理を届けたいから。だから、僕はあえてこの場所で、店を開きたかった」

 江本さんは一瞬遠い目をする。

その目の先には、たぶん大望の叶う未来が描かれているのだろう。それは、私がこの数年のうち、いつの間にか、どこぞへ置いてきてしまったもの。この手のひらをすり抜けていったもの。

 江本さんには誰か恩人がいるのだろう、料理の師匠のような。もしくは好きな人だったりするのだろうか。

「社会や親のことを聞いたわけではありません。あなたはどうなんですか? あなたはどうしたいんですか」
「私は、ですか」
「えぇ、佐田さんが。二十五ならむしろ、もういい子を演じなければいけない年齢じゃないかと」

私は。純粋に、損得も世間体もなにも捨ててしまって、イエスかノーか、そう問われたなら。

「うちの店は、ちょうど人手が足りていません。それに、お気づきだとは思いますが、会話が得意ではなくて。僕には、あなたのように快活な方がいてくれるのは心強いのです。その舌は郷土料理をよりよくすることにも活かせるかもしれない」

なにより、と一度間が置かれる。

「僕は佐田さんがそばで働いていてくれたら、嬉しく存じます」

それから、江本さんはこう言い切った。
彼の顔の窪みに、照明が影を作る。暗かった、表情がはっきりと見えないくらいには。ただそのはずだのに、私には彼が煌々と光っているかのように見えた。


また私は見てしまったらしかった、そこに。運命が放つ光を。


もう信じない、もう諦めた。

そう数時間前に決めたばかりなのに、また私は手を伸ばしてしまいたくなる。手にとってみたくなってしまう。近くにあるようなのに、どうしても届かなかったその光に、触れてみたくなる。

結局私に、その輝きから目を逸らすことは、できないらしかった。

「三ヶ月だけ、とか……それでもいいですか」
「はい」
「それで、私を正社員にするか判断してもらうのは? その頃にまだ雇えない状況だったり、私が使えないようならやめる、とか」

「望むところです」
「でももしそうじゃなかったら、その時は」
「正社員でしょうか。はい、僕も安定的な人手は確保したいと思っておりました」

かなり不躾なことを言っている自覚はあった。雇え、判断しろ、となんて押しつけがましいバイトだ。だけれど、江本さんは一度も首を横には振らなかった。

三か月。自分から言い出したのは、ずるずると追い続けるのはいけないと考えたからだ。もしそれでダメなら、運命がどうだなんて戯言は、今度こそきっぱりとやめる。

でも、もう一度、最後にもう一度。運命を信じてみたかった。最後に訪れた一筋の光に、私は賭けてみたくなっていた。そう、思わせられていた。この目の前の彼に。

「あの、履歴書って持参のものでもいいでしょうか。企業に出す予定だった出来合いが余ってるんです」
「もちろんでございます。あぁでも」

 江本さんはここで言いやめると、レジ台の下へ行き、屈む。その手が握ってきたのは

「正式にバイトとなると、給与振込口座の登録書に、誓約書、それから交通費申請の書類と……」

 思わず、うっと声が出てしまうような、厚みある用紙の束だった。
二十枚とはいかずとも、それに迫るくらいはあるのではなかろうか。冗談だったはずが、まさか本当に書くことになるなんて。

 でも、私は一文字ずつ、丁寧に項目を埋めていった。一画ごとに、決意を込めて。
もう運命にただ縋るのは、やめだ。願うだけでは届かないのは、これまででよく分かった。ならば、逆にするしかない。


私が捕まえるのだ、運命を。

最後の最後になっての形勢逆転だ。でも、それで最後に勝てればいい。

勝って、そしてこれまでの私に報いてやる。
私の、この手で。
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