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二章 とり天

二章 とり天(1)

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    一


どんなにその地が繁盛していても、閑古鳥の鳴く場所はあるものだと改めて思う。

毎日が満員御礼のディズニーランドにも、都の玄関口たる東京駅にだって、人気のない場所は存在する。喧騒から忘れ去られたそこは、周りとのコントラストのせい、いっそその辺の住宅地よりも寂しさを感じる。
それと同じだった、この店は。

上野御徒町という超のつく繁華街の裏道にひっそりと佇む、『郷土料理屋・いち』。

その店内に、一人として客はいなかった。常連のおばさまたちが「家事が終わってないのよ」と三十分ほど前に出ていてしまったきり、入り口ののれんは揺れない。平日とはいえ、書き入れ時たる八時なのにだ。
だから、揚げ物の音はパチパチとはっきりキッチン内に響く。

フライヤーの中、小さな気泡を上げてキツネ色になっていくのは、大分名物だという鶏の天ぷらだ。菜箸を鳴らしながら、私は油と掛け時計を交互に見る。

揚げあがりまで、まだあと三分あった。その間、ずっと針と睨めっこというのも神経がすり減る。
それでつい、私は少し離れにいた店主に目を移した。

和装でブロンド美男子という奇妙な組み合わせもバイトを始めて二週間、それも週五日もシフトを詰めていれば見慣れだす。

店主・江本はじめさんは、ちょうど仕込みに勤しんでいるところだった。調味料を配合しては、スプーンに乗せて味を確かめている。

絵になるなぁなんて。「お料理探偵」というより「お料理王子」。

店と同じく空っぽの頭をそんなことでふわふわ埋めていて、

「佐田さん!」
「…………え?」

黒煙。

江本さんが、焦った様子で私の方まで駆けてくる。え、え、と突っ立っているしかなかった私の手から菜箸を抜くと、彼は油の中から鶏を皿へ掬い上げた。

鶏というより、もはや炭だった。

「す、すいません…………」

これで済むのかは分からずも、私は縮こまるしかない。
また不注意をやった。普通なら激怒されておかしくないのだけど、

「僕こそ申し訳ありません。お任せしてしまっておりましたので」

なぜか、江本さんがぺこぺこと頭を下げる。私も腰を折って、炭を前にして詫び合戦。どうしても私は、自分の非を譲れなかった。

「本当ごめんなさい。そもそも私がお願いしてやらせてもらったのに」

どうせ料理屋に勤めるなら、時間がある時には料理の指導をしてほしい。そう私から言い出して、たまにやらせてもらっていたのだ。

担当は、比較的簡単な賄いごはん。あっさりさっくり仕上がるはずが、このざまである。

「やっぱり私向いてないかなぁ」
「いえ、失敗は挑戦につきものでございます」
「でも、今回は私の完全な不注意なので」
「むしろ原因が分かっているなら話は早いですよ」

江本さんは淡々と言って、油のカス取りをする。同い年と分かったのにも関わらず、変わらないこの過度な敬語。一見無味に思えるその言葉に、ややつっかかりを感じたのは、彼と二週間過ごした賜物かもしれない。

「もしかしてさっきの引きずってますか」
「……それは言わないでください」
「それこそ気にしないでいいのに。看板づくりなんて私がやりますよ」
「でも店主の私がなにもできないのは、不甲斐ない限りです」

『不甲斐ない』などというお固い言葉を耳にするのは、生まれてこの方だった。自分の犯した過ちが頭から遠ざかって、私は少しからかいたくなる。

「芸術的でしたよ。新進気鋭でした。ふふっ」

笑ってしまったのは、江本さんが作った抽象画みたいな宣伝看板を思い出してのことだった。よく言うならピカソだが、広告には使えたものじゃない。といって、私が作っているのも平凡だったけれど。
看板製作も、元はといえば提案したのは私だった。

地の底にあるこの店のネットでの評価が戻るのには、時間がかかる。ならば他でどうにか客を呼べないかと、前職の企画の知識を活かして捻り出した策だった。

「看板ができれば、少しはお客様が増えるでしょうか」
「……そうですね。やらないよりは」

三ヶ月で正社員として雇えないような経営状況なら、私はここを辞める。自分を追い込むために宣言したのだが、中々どうして簡単にはいかない。
このままの経営状態が続けば、私を雇うどころか江本さんも露頭に迷ってしまうだろう。

「あっ外で呼び込みでもしてきましょうか、私!」

けれど、諦めるわけにはいかない。なにせこれは私にとって運命との最後の戦いなのだ。報われなければ、反対するお母さんを押し切ってまでバイトをしている意味がない。
私は新調してもらった和服のネーム部分を覚悟を込めて握る。髪をまとめた赤い手拭いをきゅっと絞めた。

「そこまでは。キャッチのような真似はよくありません」
「でも、そんなこと言ってる場合じゃないんじゃ」

押し問答をしかけていたら、ちょうど扉のベルが鳴った。

江本さんと顔を見合わせる。その頬に、ほんの浅いえくぼができた。

「来てくれる方は来てくれます」

待望のお客様だ。私は入り口まで、いらっしゃいませと元気よく迎えにいく。

「開いてるか? もしかしてもう閉まった後かな?」

白髭に白髪の老人と、若い女の子の二人組だった。どちらも、ぱっちりスーツで身を固めている。

「は、はい! まだあと二時間はございます」

つられて、私も畏ってしまった。ぴたりと脇をしめる。

「はは、そうかよかった。にしては空いてるなぁ」

衣装を抜きにしても、雰囲気のある老人だった。白い毛に、淵の厚いスクエアの眼鏡が似合う人はそういるまい。
なにか特殊な職の人なのだろうか、そして二人はどんな関係なのだろう。女の子が後ろに控えるようにしているあたり、孫という風には見えない。

思いつつカウンター席に通して、最初の注文を尋ねると

「そうやな。ほなひとまず、店長を頼む」

ご所望は、よもや江本さんだった。
私が厨房まで客人の特徴を伝えると、店主はやれやれといった風にゆったりと出ていく。老人の方が握手を求め、江本さんが渋々というように、それに応えていた。
白髪の老人が金髪青年に自ら挨拶するなんて、なにごと。あべこべな光景に、私は目をぱちくりするしかない。

「久しぶりやな江本。外の風鈴、あれはいいな。平安時代の魔除けか?」
「あれは昔自作したものでございます。そんな意図はありませんよ、坂倉先生」


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