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二章 とり天
二章 とり天(4)
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三
一口大にそぎ切りにされた鶏むね肉は、火を通す前から既に香ばしさを振りまいていた。
鼻をすんと鳴らすと、香るはしょうゆ、にんにく、しょうが。黄金のつけダレが、大分地鶏の桜色の身をきらきらと覆う。
江本さんに確認してから、私はその身を卵と小麦を混ぜたバッター液へくぐらせた。
「えーっと、それで油に入れる時はどうすれば?」
焦がした分のリベンジマッチだ。慎重になって、私は尋ねる。
「先の方だけを油につけて、寝かせるイメージです」
江本さんは、さらりと実践して見せてくれた。じゅっと小気味いい音ともに、身が油に沈んでいく。
見ているだけだと、いとも簡単なことのように思えるのが不思議だった。
私は沸き立つ油に怯えつつも、彼の動きを真似てみる。すると、たしかに油は全く跳ねない。いくつやっても、うまくいく。なになら、手から滑るように放す感覚はやみつきだった。
「すごい! これなら私でもできます!」
私は彼を振り返ろうとする。そこで、少し足がもたついた。よろっと倒れていきかけて、ぽすっと収まる。
「油の前は危険ですよ」
「は、はい」
江本さんの腕の中に。
上目で彼の端正な面をまじっと見る。状況を把握し切るまで時間を要してから、気づいた。抱きかかえられている。
顔に血が昇るのを感じた私は、重心を取り戻して、ぱっと横へ逃れた。
「す、すいません! 気をつけます」
「はい。火傷はしていませんか」
「してません! ぴんぴんしてます!」
まだ止まない心臓の音は、まさにその証拠だろう。
男の人とあの距離まで近づくことなんて、ここ最近は幼馴染・秋山達輝ぐらいの話だったから、収め方も分からない。
「……では続きもお願いいたします」
「は、はい」
江本さんはなぜか、顔を振り背けていた。おかげで私は呼吸を落ち着ける時間を得て、調理を再開する。
今度こそ目を離さなかった。衣がこんがりと色づき、ふくよかな匂いが漂い出したところで掬う。江本さんが片手間で作って見せた千切りキャベツの上へ添えて、私のリベンジは成功した。
ごはん、味噌汁をよそい、それに副菜としてほうれん草の和物までつけてもらえば、賄いなんて名ばかりの立派すぎる御膳の完成だ。
さっきまで坂倉教授と国見さんがいた場所に、二人並ぶ。夜の十時なのに、むしろだからこそ、キラキラと滴る油から目を逸らせなかった。
「待ちきれない様子ですね。ご自身で作られたからでしょうか」
「私は揚げただけですよ」
と言いつつ、少し誇らしい。
私は記念に写真を撮って、まずは主役から攻める。箸先に確かな存在感を感じつつ、蓄えた唾液で潤った口で、鶏を迎えた。
感想を言うつもりが、出てこなくなった。
ほどけるような柔らかさだった。これが百グラム五十円を切ることさえある胸肉だなんてまるで思えない。柔らかな衣はもちろん身まで簡単に歯が入って、さっぱりした肉汁が露わになる。
そして、これは味付けもただの醤油ではない。
「九州のお醤油……?」
「さすがの舌ですね。よくお分かりで。少し試してみたのですが、いかがでしょう」
あんまり美味しいので、回答は二口め三口めで代えてしまった。甘さと塩気がうまいバランスで立って、飽きがこない。
お米もよく進んだ。すぐに茶碗が軽くなってきて、さすがにペースを調整する。
「ポン酢を垂らしてみるのもいいですよ」
「なるほど!」
バリエーションまで広がって、完食まではあっという間だった。おかわり! とはさすがに言わないつもりだったのに、
「実は塩麹で漬けてみたものもあるのですが」
こう言われると、まだ腹四分な気がしてくる。それに、江本さんはもうすっかりやる気になっていた。郷土料理が会話の疲れを飛ばしたらしい。
胸肉はヘルシーだし、麹はお肌にいいし。そんな言い訳で自分に紋所を与えて、私は仕方なくといった風を装い、おかわりを宣言する。
待つ間、私はホールの雑巾掛けを敢行した。食べるならその分動かねばなるまい。それなりの仕事もするべきだろう。私は、無駄に大ぶりな動作をしながら、床を磨いていく。汚れを落とすと共に、落とし物も見つけた。
「なんだろ、これ」
よく分からない物ではあるが。
長さ五センチほどの薄い木片だった。表面が少し汚れていて、年季が入って見える。ゴミとして簡単に捨ててしまうには、憚られる雰囲気があった。
「お守りですかね?」
塩麹味のとり天と引き換えに、私は江本さんにそれを預ける。
「ありがとうございます。先生と国見さん、お二人どちらかのものかもしれません」
「あ、たしかに。明日呼んでてよかったですね!」
「えぇ、そうですね」
江本さんは少しその木片を観察してから、鍵付きであるレジの中へしまっていた。私と同じく、なにかを感じたのかもしれない。長い間持っているというのは、それだけで信念がいる行為だ。ましてや作るとなれば、もっと。
「そういえば、一週間かけて仕込んでる料理ってなんなんです?」
「それは明日お二人がいらっしゃった時に。まだ仕込み中でございますから」
一口大にそぎ切りにされた鶏むね肉は、火を通す前から既に香ばしさを振りまいていた。
鼻をすんと鳴らすと、香るはしょうゆ、にんにく、しょうが。黄金のつけダレが、大分地鶏の桜色の身をきらきらと覆う。
江本さんに確認してから、私はその身を卵と小麦を混ぜたバッター液へくぐらせた。
「えーっと、それで油に入れる時はどうすれば?」
焦がした分のリベンジマッチだ。慎重になって、私は尋ねる。
「先の方だけを油につけて、寝かせるイメージです」
江本さんは、さらりと実践して見せてくれた。じゅっと小気味いい音ともに、身が油に沈んでいく。
見ているだけだと、いとも簡単なことのように思えるのが不思議だった。
私は沸き立つ油に怯えつつも、彼の動きを真似てみる。すると、たしかに油は全く跳ねない。いくつやっても、うまくいく。なになら、手から滑るように放す感覚はやみつきだった。
「すごい! これなら私でもできます!」
私は彼を振り返ろうとする。そこで、少し足がもたついた。よろっと倒れていきかけて、ぽすっと収まる。
「油の前は危険ですよ」
「は、はい」
江本さんの腕の中に。
上目で彼の端正な面をまじっと見る。状況を把握し切るまで時間を要してから、気づいた。抱きかかえられている。
顔に血が昇るのを感じた私は、重心を取り戻して、ぱっと横へ逃れた。
「す、すいません! 気をつけます」
「はい。火傷はしていませんか」
「してません! ぴんぴんしてます!」
まだ止まない心臓の音は、まさにその証拠だろう。
男の人とあの距離まで近づくことなんて、ここ最近は幼馴染・秋山達輝ぐらいの話だったから、収め方も分からない。
「……では続きもお願いいたします」
「は、はい」
江本さんはなぜか、顔を振り背けていた。おかげで私は呼吸を落ち着ける時間を得て、調理を再開する。
今度こそ目を離さなかった。衣がこんがりと色づき、ふくよかな匂いが漂い出したところで掬う。江本さんが片手間で作って見せた千切りキャベツの上へ添えて、私のリベンジは成功した。
ごはん、味噌汁をよそい、それに副菜としてほうれん草の和物までつけてもらえば、賄いなんて名ばかりの立派すぎる御膳の完成だ。
さっきまで坂倉教授と国見さんがいた場所に、二人並ぶ。夜の十時なのに、むしろだからこそ、キラキラと滴る油から目を逸らせなかった。
「待ちきれない様子ですね。ご自身で作られたからでしょうか」
「私は揚げただけですよ」
と言いつつ、少し誇らしい。
私は記念に写真を撮って、まずは主役から攻める。箸先に確かな存在感を感じつつ、蓄えた唾液で潤った口で、鶏を迎えた。
感想を言うつもりが、出てこなくなった。
ほどけるような柔らかさだった。これが百グラム五十円を切ることさえある胸肉だなんてまるで思えない。柔らかな衣はもちろん身まで簡単に歯が入って、さっぱりした肉汁が露わになる。
そして、これは味付けもただの醤油ではない。
「九州のお醤油……?」
「さすがの舌ですね。よくお分かりで。少し試してみたのですが、いかがでしょう」
あんまり美味しいので、回答は二口め三口めで代えてしまった。甘さと塩気がうまいバランスで立って、飽きがこない。
お米もよく進んだ。すぐに茶碗が軽くなってきて、さすがにペースを調整する。
「ポン酢を垂らしてみるのもいいですよ」
「なるほど!」
バリエーションまで広がって、完食まではあっという間だった。おかわり! とはさすがに言わないつもりだったのに、
「実は塩麹で漬けてみたものもあるのですが」
こう言われると、まだ腹四分な気がしてくる。それに、江本さんはもうすっかりやる気になっていた。郷土料理が会話の疲れを飛ばしたらしい。
胸肉はヘルシーだし、麹はお肌にいいし。そんな言い訳で自分に紋所を与えて、私は仕方なくといった風を装い、おかわりを宣言する。
待つ間、私はホールの雑巾掛けを敢行した。食べるならその分動かねばなるまい。それなりの仕事もするべきだろう。私は、無駄に大ぶりな動作をしながら、床を磨いていく。汚れを落とすと共に、落とし物も見つけた。
「なんだろ、これ」
よく分からない物ではあるが。
長さ五センチほどの薄い木片だった。表面が少し汚れていて、年季が入って見える。ゴミとして簡単に捨ててしまうには、憚られる雰囲気があった。
「お守りですかね?」
塩麹味のとり天と引き換えに、私は江本さんにそれを預ける。
「ありがとうございます。先生と国見さん、お二人どちらかのものかもしれません」
「あ、たしかに。明日呼んでてよかったですね!」
「えぇ、そうですね」
江本さんは少しその木片を観察してから、鍵付きであるレジの中へしまっていた。私と同じく、なにかを感じたのかもしれない。長い間持っているというのは、それだけで信念がいる行為だ。ましてや作るとなれば、もっと。
「そういえば、一週間かけて仕込んでる料理ってなんなんです?」
「それは明日お二人がいらっしゃった時に。まだ仕込み中でございますから」
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