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二章 とり天
二章 とり天(6)
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♢
教授が言うに、開店待ちをしていたのは、
「明日の学会は朝早いから、酔うのも早めがえぇやろ」
という酒好きならではの発想からだった。その言葉通り彼はすぐさま早速ビール瓶を注文して、
「江本が一週間かけて作ったっちゅう料理も気になるしなぁ。それに説得の時間は長い方がえぇ」
国見さんがグラスに注いだものを、ぐいぐいと流していく。今日とて他に人のいない店内に気持ち良さげな声が響いた。
「ではすぐに料理をお持ちいたします」
江本さんはと言えば、どうにか準備は間に合ったらしい。
少し斜めになっていた頭の手ぬぐいだけを結び直して、それから厨房へと立ち入った。私はその後頭部に垂れる紐の先に、猫のごとく釣られた。後ろから、ひょこひょことついていく。
一週間かけた料理とはどんなものだろう。昨日は結局教えてもらえず、気になっていたのだった。昨晩は、そのせいで寝付きが悪かった。
江本さんが冷蔵庫から取り出したのは、鶏胸肉だった。身に賽の目状に刃を入れてから、すり下ろした生姜とにんにくが溶かし込まれた醤油を回しかける。
あれ? これって……もやりと違和感が生まれた。
私の戸惑いとは裏腹に、江本さんは止まることなく作業を進める。卵と小麦を攪拌してバッター液ができたところで、私は自分の中に留めておけなくなった。
「これってとり天じゃ?」
「はい、そうでございます」
こともなげに彼は言う。
「えっと一週間かけたのは、これ?」
「いえ、せいぜい十分でしょうか。そもそもそんな料理はありませんよ」
はい? すっぱり期待を裏切られて、私は硬直してしまった。
まさか経営が苦しいから、嘘をついてまで客を呼びたかったのだろうか。気持ちは分かるけれど、そういう時こそ誠実であるべきなんじゃ。なにより心が痛む。
けれど、江本さんは悪びれる様子もない。
「揚げる工程ですが、お任せしてしまってもよいでしょうか。昨日と同じ要領でお願いいたします」
「…………えっ私が!?」
驚きの連続で、反応が遅れてしまった。そんな私に、江本さんは「焦がすことはもうないでしょう? 大丈夫ですよ」と太鼓判を押す。
もう、なんだかよく分からない。唯一はっきりしているのは、仕事を任されたということだった。
私は丁寧に一切れずつ油に沈めていく。程よく衣が色づいた頃に、タイミングよく引き揚げた。用意されたキャベツの千切りと一緒に盛って、江本さんに了解をとってからカウンターへ運ぶ。
とてもよい出来ではあるが、一週間かけた料理でないことなど、一目瞭然だった。
「なんや、とり天かいな」
「……たしか大分の郷土料理ですよね?」
「ほんまに一週間かけたんか、これに」
坂倉教授と国見さんが、私に見解を求める。
だが、私こそ説明してほしかった。一応店の評判のためだ。嘘を見抜かれまいと、とりあえずの愛想笑いを繕ってごまかしていたら、
「いえ、今ここで十分で作らせていただきました」
種明かしは、本人からあった。話が違う、といった風の目線が一斉に送られる中、江本さんはもみあげを小指の背で耳にかけて、
「まずはお召し上がりください」
どうぞと手のひらを返す。
疑いの目の中でこうも平静を貫かれると、なんだか凄みを感じる。
教授も国見さんも困惑しているのは明らかだったが、ゆっくりながら手をつけ始めた。そして、
「こら旨いなぁ、絶品や。なぁ?」「はい。とても美味しいです」
口々に褒め言葉が出る。料理としての出来がいいのは、昨日確かめているから間違いない。
「ほんで一週間かけたっちゅうんは嘘かいな」
問題は、なぜそんな虚偽の申告をしたか。
「十分と言う短時間で作ったものでもここまで美味しいのだ、と分かって欲しかったのです。それで引き合いとして、一週間かけた料理があると、作り話をさせていただきました」
江本さんはすらすらと言う。
どうやら、モードが切り替わったようだ。まるで論文発表の壇上にいるみたく映る。
「とり天は元々、ある大分の中華レストランで、昭和初期にまかないご飯として出されていた料理でございます。
まかないだけあって、手早く作ることができる。けれど、その味は絶品だと瞬く間に広がり、今や大分といえばとり天、というほど全国で有名になっております。歴史が浅いにも関わらず、いわばソウルフード扱いです」
「なにが言いたい?」
関西人気質か、坂倉教授がせっつく。まぁもう少しとひらりかわして、
「短い時間で簡単に作れようが、誰かが美味しいと食べてくれる。逆に言うならば、どれだけ時間をかけて作った料理だろうと、最後に誰の口にも入らなければ、料理としては意味がないということでございます」
江本さんはふーっとため息をつく。長い間合いを取ってから、
「同じじゃないでしょうか、これと。研究発表も、発表してこそ意味がある。そう思いませんか国見さん」
名前を呼び掛けられた彼女は、いつのまにか小さく抱え込んでいた。返事はない。
「でも、データをなくしたなら仕方ないんじゃ」
私は弁護してみるけれど、江本さんは胸の前で指をゆるゆると揺らす。
「国見さん、本当はデータをなくしたわけじゃないでしょう。なくしたようなふりをしたのでは? もっともこう問いかけておりますが、僕は既に確信しておりますが。昨日、佐田さんがこれを拾ったのです。帰りがけ、慌てていた時に落としていったのでしょう」
ポケットから出てきたのは、昨日私が見つけた木片だった。てっきりお守りだろうかと思っていたが……。
教授が言うに、開店待ちをしていたのは、
「明日の学会は朝早いから、酔うのも早めがえぇやろ」
という酒好きならではの発想からだった。その言葉通り彼はすぐさま早速ビール瓶を注文して、
「江本が一週間かけて作ったっちゅう料理も気になるしなぁ。それに説得の時間は長い方がえぇ」
国見さんがグラスに注いだものを、ぐいぐいと流していく。今日とて他に人のいない店内に気持ち良さげな声が響いた。
「ではすぐに料理をお持ちいたします」
江本さんはと言えば、どうにか準備は間に合ったらしい。
少し斜めになっていた頭の手ぬぐいだけを結び直して、それから厨房へと立ち入った。私はその後頭部に垂れる紐の先に、猫のごとく釣られた。後ろから、ひょこひょことついていく。
一週間かけた料理とはどんなものだろう。昨日は結局教えてもらえず、気になっていたのだった。昨晩は、そのせいで寝付きが悪かった。
江本さんが冷蔵庫から取り出したのは、鶏胸肉だった。身に賽の目状に刃を入れてから、すり下ろした生姜とにんにくが溶かし込まれた醤油を回しかける。
あれ? これって……もやりと違和感が生まれた。
私の戸惑いとは裏腹に、江本さんは止まることなく作業を進める。卵と小麦を攪拌してバッター液ができたところで、私は自分の中に留めておけなくなった。
「これってとり天じゃ?」
「はい、そうでございます」
こともなげに彼は言う。
「えっと一週間かけたのは、これ?」
「いえ、せいぜい十分でしょうか。そもそもそんな料理はありませんよ」
はい? すっぱり期待を裏切られて、私は硬直してしまった。
まさか経営が苦しいから、嘘をついてまで客を呼びたかったのだろうか。気持ちは分かるけれど、そういう時こそ誠実であるべきなんじゃ。なにより心が痛む。
けれど、江本さんは悪びれる様子もない。
「揚げる工程ですが、お任せしてしまってもよいでしょうか。昨日と同じ要領でお願いいたします」
「…………えっ私が!?」
驚きの連続で、反応が遅れてしまった。そんな私に、江本さんは「焦がすことはもうないでしょう? 大丈夫ですよ」と太鼓判を押す。
もう、なんだかよく分からない。唯一はっきりしているのは、仕事を任されたということだった。
私は丁寧に一切れずつ油に沈めていく。程よく衣が色づいた頃に、タイミングよく引き揚げた。用意されたキャベツの千切りと一緒に盛って、江本さんに了解をとってからカウンターへ運ぶ。
とてもよい出来ではあるが、一週間かけた料理でないことなど、一目瞭然だった。
「なんや、とり天かいな」
「……たしか大分の郷土料理ですよね?」
「ほんまに一週間かけたんか、これに」
坂倉教授と国見さんが、私に見解を求める。
だが、私こそ説明してほしかった。一応店の評判のためだ。嘘を見抜かれまいと、とりあえずの愛想笑いを繕ってごまかしていたら、
「いえ、今ここで十分で作らせていただきました」
種明かしは、本人からあった。話が違う、といった風の目線が一斉に送られる中、江本さんはもみあげを小指の背で耳にかけて、
「まずはお召し上がりください」
どうぞと手のひらを返す。
疑いの目の中でこうも平静を貫かれると、なんだか凄みを感じる。
教授も国見さんも困惑しているのは明らかだったが、ゆっくりながら手をつけ始めた。そして、
「こら旨いなぁ、絶品や。なぁ?」「はい。とても美味しいです」
口々に褒め言葉が出る。料理としての出来がいいのは、昨日確かめているから間違いない。
「ほんで一週間かけたっちゅうんは嘘かいな」
問題は、なぜそんな虚偽の申告をしたか。
「十分と言う短時間で作ったものでもここまで美味しいのだ、と分かって欲しかったのです。それで引き合いとして、一週間かけた料理があると、作り話をさせていただきました」
江本さんはすらすらと言う。
どうやら、モードが切り替わったようだ。まるで論文発表の壇上にいるみたく映る。
「とり天は元々、ある大分の中華レストランで、昭和初期にまかないご飯として出されていた料理でございます。
まかないだけあって、手早く作ることができる。けれど、その味は絶品だと瞬く間に広がり、今や大分といえばとり天、というほど全国で有名になっております。歴史が浅いにも関わらず、いわばソウルフード扱いです」
「なにが言いたい?」
関西人気質か、坂倉教授がせっつく。まぁもう少しとひらりかわして、
「短い時間で簡単に作れようが、誰かが美味しいと食べてくれる。逆に言うならば、どれだけ時間をかけて作った料理だろうと、最後に誰の口にも入らなければ、料理としては意味がないということでございます」
江本さんはふーっとため息をつく。長い間合いを取ってから、
「同じじゃないでしょうか、これと。研究発表も、発表してこそ意味がある。そう思いませんか国見さん」
名前を呼び掛けられた彼女は、いつのまにか小さく抱え込んでいた。返事はない。
「でも、データをなくしたなら仕方ないんじゃ」
私は弁護してみるけれど、江本さんは胸の前で指をゆるゆると揺らす。
「国見さん、本当はデータをなくしたわけじゃないでしょう。なくしたようなふりをしたのでは? もっともこう問いかけておりますが、僕は既に確信しておりますが。昨日、佐田さんがこれを拾ったのです。帰りがけ、慌てていた時に落としていったのでしょう」
ポケットから出てきたのは、昨日私が見つけた木片だった。てっきりお守りだろうかと思っていたが……。
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