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五章 深川めし
五章 深川めし(1)
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一
今もまだ、初恋を忘れられないでいる。
苦くて甘くて酸っぱくて。焦がれるようで、落ち着くようで、ほんの少し浮遊感もある特別なあの感覚。
それを得るまでは、恋がなにとは知ってはいても、他人の話でしかなかった。
小学校六年生、もう周りはすっかり色づいていた。特に女子は早くて、休み時間の教室で繰り広げられるは恋話ばかり。私はと言えば、それにどうにかついていくのが精一杯だった。
男と女の差さえ、まだよくは理解していなかった。誰が誰を好き、とか付き合ったとかで、盛り上がったりいがみあったりするものなんだ。ただ、それだけの認識だった。
だから、自分がまさか恋に落ちていようなどとはつゆも思わなかった。恋と知ったのは、その相手がもう私の前からいなくなったあとだ。
自分の気持ちを知って、同時にそれがもう遅いと気付いて、私は傷心のあまり上野公園で一人静かに泣いた。
その時も、幼馴染・秋山達輝は、私の前に現れた。しょうもない冗談を言って、私を励ましてくれた。
一度目の告白はその時にされた。たぶんその時には、今回のような計算高さはなくて、純粋な思いが彼にはあったんだと思う。
♢
雨は、翌日、金曜日になっても降り続いていた。
気が重いながらも、出勤しないわけにはいかない。
いつもはかなり余裕を持って家を出ていたけれど、今日はぎりぎりまでベッドにしがみついていた。だから『郷土料理屋・いち』に着いたのは、シフトの始まる三分前だった。
「おはようございます、佐田さん」
江本さんは、なにごともない挨拶で迎えてくれる。同じように挨拶をして、もうやり取りが終わった。
そして迎えた開店時間。
「へぇいいところで働いてるんだな。制服似合ってるじゃん」
はじめに入ってきた客は、なんと秋山達輝だった。
退勤後すぐに来たという彼は、雨に濡れてしまったらしいジャケットを大事そうに椅子の背へかける。
それからメニュー表を手にして、これは多いなと唇を撫でた。
まさか店にまでやってくるとは思わなかった。もしこの場で答えを求められようものならどうしようか。
思っていたら、達輝はメニュー表をぱたりと伏せた。
「結衣、注文いいか? とりあえず生と、なんかおすすめある?」
「……ビールなら、愛知の鳥手羽とか福岡の八幡餃子とか……?」
「じゃ、それで」
達輝は馴れ馴れしく、ぽんと私の和服の袖をはたく。
どうせなににもならないけど、江本さんに見られたくないなと思った。できるなら、私たちの関係も知られたくない。
とはいえ、これだけ客と会話を交わしていて、店主に全く誰との説明もしないのは不自然だ。ビールと料理を出すタイミングで一言紹介くらいと口を開きかけて、
「へぇあんたか。うちの幼馴染をたらし込んだ、噂のイケメン店主さんは」
「……たらし込んでなどおりません。それに、そのような噂は初めて耳にしましたが。そもそも僕は噂されるような人間ではございません」
「なんだ、スター気取りか? しかし面白い話し方だな。格好といい女に受けるわけだ」
もう店主は捕まっていた。
達輝の言葉には、明らかにトゲがあった。応じる江本さんも、平静さを保ってはいるが、やや口調が鋭いかもしれない。
そもそも今日はやり辛かったのに、これではムードがなおさら悪い。そんなよくない空気が、まさか外まで漂っているわけではなかろうが、他の客は今日に限って全くやってこなかった。いわゆる花金なのにだ。
なんとかお客さんがいてくれないものかと私は、ちらり店の戸を開ける。誰もいないのを確認して落胆したところ、極めて音に欠けていた店内に轟音が鳴り響いた。
なにか大きなものが崩れるような音だ。キッチンの奥、店の裏口からだろうか。
「……大変失礼いたしました」
江本さんは、達輝に深々と頭を下げる。言い合いになりかけていたとはいえ、客相手には礼儀を尽くすあたりが彼らしい。
確認するためだろう、カウンターから裏へ引っ込んでいった。
「なんだったんだろうな」
「さぁ? ……えっと」
今、達輝と二人きりにされるのは、あまりにいたたまれない。私も裏口へ行きたいくらいだったが、店を客に任せて放置はよくない。
「なぁビールのおかわりもらってもいいか」
「う、うん。すぐやるよ」
だから、この注文はありがたかった。身体や手を動かしていれば少しは気が紛れる。私はキッチンの中、わざと少し時間をかけて冷蔵庫からビール瓶を取ると栓を抜く。
「久しぶりだな、こうしてお酒ついで貰うのも」
「……仕事だし」
「怖い怖い。目が尖ってるぞ」
注いでやっていると、江本さんが帰ってきた。なにやら大きな木箱を抱えている。
「で、なんだったんだ」
達輝は頬杖をつきビールに口をつけながら、それを覗こうとする。
江本さんは、左膝を上げると、ももの上に箱を乗せて傾けた。ガラッと音を立てたのは大量の貝殻だ。砕けているものもあるが全て二枚貝だった。
「あぁバカガイか、これ」
馬鹿? 私が首を捻っていると、
「深川めしに使う貝だったろ、たしか」
こう達輝が続ける。
「えぇ、よくご存知でいらっしゃいますね」
江本さんが褒めると、彼は少し得意そうに鼻頭をこすった。分からないのは私だけみたいだ。
「深川めしってアサリじゃないんですか」
「深川めしといえば、アサリを使うものとして、今や全国的にも名を馳せていますが、元はこのバカガイを使った東京付近の郷土料理なのです。近郊での漁獲量が多かったために生まれた、いわゆる漁師飯ですから。
同じ二枚貝ですが、バカガイはサイズが少し大きく、縞模様が薄いのが特徴でございます」
江本さんが流れるように丁寧な言葉を紡ぐ。
その声に聞き惚れかけて、少し苦しくなる。持ってはいけない感情だ。苦い唾液が舌に広がる。達輝がグラスを置く音で、はっとした。
今もまだ、初恋を忘れられないでいる。
苦くて甘くて酸っぱくて。焦がれるようで、落ち着くようで、ほんの少し浮遊感もある特別なあの感覚。
それを得るまでは、恋がなにとは知ってはいても、他人の話でしかなかった。
小学校六年生、もう周りはすっかり色づいていた。特に女子は早くて、休み時間の教室で繰り広げられるは恋話ばかり。私はと言えば、それにどうにかついていくのが精一杯だった。
男と女の差さえ、まだよくは理解していなかった。誰が誰を好き、とか付き合ったとかで、盛り上がったりいがみあったりするものなんだ。ただ、それだけの認識だった。
だから、自分がまさか恋に落ちていようなどとはつゆも思わなかった。恋と知ったのは、その相手がもう私の前からいなくなったあとだ。
自分の気持ちを知って、同時にそれがもう遅いと気付いて、私は傷心のあまり上野公園で一人静かに泣いた。
その時も、幼馴染・秋山達輝は、私の前に現れた。しょうもない冗談を言って、私を励ましてくれた。
一度目の告白はその時にされた。たぶんその時には、今回のような計算高さはなくて、純粋な思いが彼にはあったんだと思う。
♢
雨は、翌日、金曜日になっても降り続いていた。
気が重いながらも、出勤しないわけにはいかない。
いつもはかなり余裕を持って家を出ていたけれど、今日はぎりぎりまでベッドにしがみついていた。だから『郷土料理屋・いち』に着いたのは、シフトの始まる三分前だった。
「おはようございます、佐田さん」
江本さんは、なにごともない挨拶で迎えてくれる。同じように挨拶をして、もうやり取りが終わった。
そして迎えた開店時間。
「へぇいいところで働いてるんだな。制服似合ってるじゃん」
はじめに入ってきた客は、なんと秋山達輝だった。
退勤後すぐに来たという彼は、雨に濡れてしまったらしいジャケットを大事そうに椅子の背へかける。
それからメニュー表を手にして、これは多いなと唇を撫でた。
まさか店にまでやってくるとは思わなかった。もしこの場で答えを求められようものならどうしようか。
思っていたら、達輝はメニュー表をぱたりと伏せた。
「結衣、注文いいか? とりあえず生と、なんかおすすめある?」
「……ビールなら、愛知の鳥手羽とか福岡の八幡餃子とか……?」
「じゃ、それで」
達輝は馴れ馴れしく、ぽんと私の和服の袖をはたく。
どうせなににもならないけど、江本さんに見られたくないなと思った。できるなら、私たちの関係も知られたくない。
とはいえ、これだけ客と会話を交わしていて、店主に全く誰との説明もしないのは不自然だ。ビールと料理を出すタイミングで一言紹介くらいと口を開きかけて、
「へぇあんたか。うちの幼馴染をたらし込んだ、噂のイケメン店主さんは」
「……たらし込んでなどおりません。それに、そのような噂は初めて耳にしましたが。そもそも僕は噂されるような人間ではございません」
「なんだ、スター気取りか? しかし面白い話し方だな。格好といい女に受けるわけだ」
もう店主は捕まっていた。
達輝の言葉には、明らかにトゲがあった。応じる江本さんも、平静さを保ってはいるが、やや口調が鋭いかもしれない。
そもそも今日はやり辛かったのに、これではムードがなおさら悪い。そんなよくない空気が、まさか外まで漂っているわけではなかろうが、他の客は今日に限って全くやってこなかった。いわゆる花金なのにだ。
なんとかお客さんがいてくれないものかと私は、ちらり店の戸を開ける。誰もいないのを確認して落胆したところ、極めて音に欠けていた店内に轟音が鳴り響いた。
なにか大きなものが崩れるような音だ。キッチンの奥、店の裏口からだろうか。
「……大変失礼いたしました」
江本さんは、達輝に深々と頭を下げる。言い合いになりかけていたとはいえ、客相手には礼儀を尽くすあたりが彼らしい。
確認するためだろう、カウンターから裏へ引っ込んでいった。
「なんだったんだろうな」
「さぁ? ……えっと」
今、達輝と二人きりにされるのは、あまりにいたたまれない。私も裏口へ行きたいくらいだったが、店を客に任せて放置はよくない。
「なぁビールのおかわりもらってもいいか」
「う、うん。すぐやるよ」
だから、この注文はありがたかった。身体や手を動かしていれば少しは気が紛れる。私はキッチンの中、わざと少し時間をかけて冷蔵庫からビール瓶を取ると栓を抜く。
「久しぶりだな、こうしてお酒ついで貰うのも」
「……仕事だし」
「怖い怖い。目が尖ってるぞ」
注いでやっていると、江本さんが帰ってきた。なにやら大きな木箱を抱えている。
「で、なんだったんだ」
達輝は頬杖をつきビールに口をつけながら、それを覗こうとする。
江本さんは、左膝を上げると、ももの上に箱を乗せて傾けた。ガラッと音を立てたのは大量の貝殻だ。砕けているものもあるが全て二枚貝だった。
「あぁバカガイか、これ」
馬鹿? 私が首を捻っていると、
「深川めしに使う貝だったろ、たしか」
こう達輝が続ける。
「えぇ、よくご存知でいらっしゃいますね」
江本さんが褒めると、彼は少し得意そうに鼻頭をこすった。分からないのは私だけみたいだ。
「深川めしってアサリじゃないんですか」
「深川めしといえば、アサリを使うものとして、今や全国的にも名を馳せていますが、元はこのバカガイを使った東京付近の郷土料理なのです。近郊での漁獲量が多かったために生まれた、いわゆる漁師飯ですから。
同じ二枚貝ですが、バカガイはサイズが少し大きく、縞模様が薄いのが特徴でございます」
江本さんが流れるように丁寧な言葉を紡ぐ。
その声に聞き惚れかけて、少し苦しくなる。持ってはいけない感情だ。苦い唾液が舌に広がる。達輝がグラスを置く音で、はっとした。
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