上 下
32 / 41
四章 アレンジ料理

四章 アレンジ料理(8)

しおりを挟む



 とにかく会う回数を増やすこと。基本に忠実に、江本さんの好物を作ってもらうこと。この二つが、ひふみさんと考えた末に捻り出した江本さん攻略作戦だった。

私は仕事中、江本さんにさりげになにを食べたい気分か、と尋ねて、それをこっそりひふみさんに伝える。

そして、ひふみさんはその料理を持って閉店時間ごろにやってきて、江本さんの好みを満たす、とこういう寸法だ。
普通の男の人相手に胃袋を掴むだけなら、容易い話かもしれなかった。アレンジを封印したひふみさんの料理は、ほとんど全て十分な味を保っていた。

けれど、自分が一流料理人の江本さんには簡単には通じない。美味しいですね、とは言うものの、ただそれだけだった。

余計なことを考えないため、徹底的にやるつもりだった。なにか他の方法はないかなと、開店前、私はキッチン内の清掃に勤しみつつ、もつ煮鍋の前に立つ江本さんを観察する。すると、

「今日の気分はたこめしです」
「えっ」

おたまとスプーンで味見をしながら、先回りされた。
ということは、作戦がバレていたということにはならないか。そして、もしそうならば、江本さんはなんのためにこんなことをしているのかも──

「……このような偶然がないことくらいなら、分かります」
「もしかして、どういう目的かも分かってますか」
「……なんとなくならば。けれど、人の気持ちを決めつけるほど傲慢にはなれません」

こう言われて、私は、それ以上踏み込めなかった。ラインの後ろにそっと身を引く。

ここで真相を聞いても、誰のためにもならないだろう。そうですかとだけで濁して、掃除に戻る。
二日目だけれど、手詰まりになっていた。

本当は気乗りしないのを、どうにか知らない振りを決めて懸命に考える。どうすれば、二人をうまくいかせられるだろうか。

そうやって思い詰めていたら、

「佐田さん!」

積み上がっていた調理器具の山を崩してしまっていた。高いところからボウルやらが降ってくるのを見て、とっさに手を頭にやる。

最近はこんなことばかりだ。自分のドジ加減を恨みながら、目を瞑るのだけれど、

「申し訳ありません。ここの片付けまで手が回っておらず」

なにも当たらなかった。江本さんが、私に被さるようにして、守ってくれていた。

そんなことをされれば、振り切ったはずなのに、胸がどくどくと鳴った。目が合うと、息が苦しくなる。優しくしないでほしかった。勝手だけど、そう思ってしまう。

またいらないことを、と突き放してくれればそれで済んだのに。ごまかそうしていたのに、これではその努力が無駄になってしまう。

ダメだ、もう胸がたまらなく熱い。
少しうるっときた目に、江本さんの腕にできたあざが滲んで見えた。

「これくらいはなんてことありません」
「でも、湿布くらいは」

私は手当てをしなくちゃと、少し大げさに振る舞って、一度カウンター側へ避難する。救急箱を手にしてから、彼に見えていないことを確認した。壁に背をつけ、ふーっと深呼吸。
落ち着かなくてはいけない。私はただ従業員として江本さんと過ごせればそれでいいのだから。それが基本なのだ、それが戻るべき形なのだ。頭ではよく理解していた。なのに、心がままならない。

そうこう一人で葛藤していて、気づいた。

私だけが彼と二人きりになるからいけないんだ。

「今日はちょっと用があるので」

その日の終業後、私は適当な理由をつけて、ひふみさんが来るより前、早々にタイムカードを切って、店を出た。

早く帰って、なにも考えないためにも、すぐに寝るつもりだった。けれど、足が鉛をくくりつけられたように重い。
店を出てすぐは降っていなかった小雨がちらつきだして、気分をさらに沈ませる。傘は店へ置いてきてしまっていた。

でも、もしもうひふみさんが来ていたら、そう思えば取りにはいけない。

徒歩にして十分やそこら、近いはずの家がかなり遠くに思えた。
かと言って、飲み屋でお酒をひっかけるような気にもなれず、私はネオンの照らす道をよたよたと歩く。

上野御徒町は、今日も活気に溢れていた。いつもは楽しげに映るその光が、今日はお前は場違いだと、突きつけてくるようだった。

街から逃げたかった。それだけ考えているうち私が辿り着いていたのは、上野公園の噴水前だった。
もう十時過ぎ、それもあいにくの雨だ。夜の公園には、私以外の姿がなかった。数日前の昼とは大違い。それは私も。

大きなベンチの端、縮こまって、噴水と雨粒の音を聞く。雨に打たれて髪が頬に張り付いていたけれど、もう気にならないくらいには濡れていた。いっそ雨に溶けてしまえればいいのに、私は溶け残る。
馬鹿だなぁと思う。余計なことを望むからこうなるんだ。ただ料理屋で働ければそれだけでよかったのに、欲を出すから痛い目を見る。

昔と同じだ、昔も恋に破れて一人でここに来た。全く変われていないなと思う。

ふと、足音がした。俯いてやり過ごそうとしていたら、目の前でそれは止まる。顔をあげると、傘がこちらへ傾けられた。

「こんなところでなにしてんだ」

その透明なビニールの奥、ほとんど見えない暗がりからしたのは、耳に染みついた声だった。いたのは江本さんではなくて、

「どうしてここにいるの」

幼馴染・秋山達輝だった。
映像が昔の光景とだぶる。けれど、彼は大きく変わった。それは見た目に限ったことではない。

「たまたまだぞ。上野を歩いてたら結衣を見かけたんだ。それで、様子が変だからついてきた。なんだ、また失恋でもしたか」
「……達輝に関係ない」
「どうせバイト先の店長にでも絆されたんだろ」

なにも話していないのに、どうして知っているんだろう。そう思ったら、

「この間、紗栄子さんに聞いたんだ」

叔母に会っていたらしい。世間話の中で悪気なく漏れてしまったのだろう。

「まだバイトしてたなんて、まずそこに驚いたよ。就活してたんじゃなかったのか」
「……うるさい。ご飯やで働くのは私の夢で」
「また夢……か」

達輝の声が呆れを含んでいるようで、これ以上話したくなくなった。そもそも話したいことなんてない。
私はベンチを勢い立ち上がって、彼の前から立ち去ろうとする。背中から、

「なぁ好きだ。付き合ってくれ」

こう四度目の告白をされた。

こんな時に現れて、卑怯だ。計算ずくで、狙ってやってるようにしか思えない。その好きは、なんの好きなんだ。その優しさは、江本さんのものとは全然違う。つけ込むようなずるさでできている。

「何回も嫌だって言ってるでしょ!」
「いい加減受けてくれよ。もしかして本当に店長に恋でもしたか? そろそろ、現実見ろよ。お前にとっても俺を選ぶ方が楽だろ」

 とても告白の台詞とは思えなかった。私はなおも首を振る。それから、踵を返して、背を向けた。

「もう一回考え直せよ」

 かかった声には無視を決めた。また、振り切れなかったとも言えるかもしれない。

しおりを挟む

処理中です...