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五章 深川めし

五章 深川めし(3)

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     二


 初恋の彼に最初に会ったのは、小学六年生の時、放課後の美術室でだった。

その頃の私は、とにかく不真面目だった。遊びまわるばかりで勉強はろくにしないおてんば娘で、放課後の補習には常連客。

その日も、私は居残りを命じられていた。美術の授業で製作していたガラス細工の進捗具合が、授業中にお喋りに興じすぎたせい、クラスで一人だけ遅れていたのだ。

友達がみんな先に帰っていく中、私は一人美術室へ向かう。

てっきり私だけだと思って、憂鬱な気分でいたら、もう一人、男の子が先にきていた。男子にしては長い黒髪を垂らして、広い教室の真ん中、作業に取り掛かっている。

見慣れない顔だった。当時、六年生のクラスは三つしかなかったから、知らない子なんていないはずだ。てっきり違う学年の子かと思えば、私のと同じガラス細工が手元にある。それで、誰だか分かった。

「君もしかして一組の転校生? たしか、いっくん!」

正確には、隣のクラスに来た転校生であるということと、あだ名だけ知っていた。

転入時の挨拶で「いっくん」と自分で名乗ったことが、男子の中で変に話題になっていたのを小耳に挟んでいたからだ。

それは、子どもっぽい、と小馬鹿にするようなニュアンスを含んでいたと思う。
彼は、控えめに頷く。静かな子なのは、その反応だけで分かった。少し戸惑っていたのかもしれない。
だが当時の私には、男女も、暗いも明るいも、なにも関係なかった。今思えば、ちゃんと名前も聞いていない。それは別れる最後までだ。今も、あだ名しか知らない。

本当に誰だろうがよかったのだ。ともかく、味方ができたようで嬉しかった。

「ねっ、一緒にやろうよ。一人だと退屈なんだ。いっくんもサボってたの?」
「ううん、転校してきたばっかりで課題がこなせてなくて」
「そっか大変だ~」

彼に了解も取らず、隣の席に座る。特に拒まれなかったから、そのまま並んで作業をした。

先生はたまたま、職員会議で席を外していた。二人きりに特別な意味も感じずに過ごしたのが、最初だった。
それからは何日も連続で、居残りの日々が続いた。なかなか厄介な課題だったのだ。ガラスに絵付けをすると言うのは、紙に描くよりずっと苦労がいる。

その間、私といっくんは、ずっと二人きりだった。先生にも見放され、他に誰もいない美術室は、まるでどこからも独立した場所のようだった。ガラスを指ではじいた音さえ残る静かな空間。そこで二人過ごす時間は、とても肌心地がよかった。

うるさく外で遊んでばかりだった私には、なんだか新鮮な気分だった。それが心が温かくなる、あの感覚だ。

「結衣、また居残りか? バカだなぁ」

帰り際、達輝にこう煽られても、眉がぴくりとさえしない。むしろ、

「そうだよ~」

と迷いなく笑顔を返した。

「なんだ、そんなに転校生くんといるのが楽しいか? いっくんだっけ」

ふん、と腕組みをして彼は不満そうな顔を見せる。
その意味が、当時は分からなかった。だから、うんと一つ返事で、私は美術室の方へ身体を向け、早く会いたいなと徐々に歩幅が広くなった。

最初に居残りを告げられた時の憂鬱は、もうすっかりなくなっていた。

「でね、達輝が言うんだよ! お前はバカだ~って。酷くない?」

いっくんは、あまり喋る方ではなかった。

けれど、私がめげずに話をけしかけているうち、だんだんと口を開いてくれるようになった。そして作品ができあがる頃、私たちはすっかり仲良くなっていた。

けれどそれだけ進展しても、私たちが話をしたのは、放課後の美術室でだけだった。

別のクラスでは、中々喋る機会がなかったのだ。それに、普段の彼はみんなから少し浮いていた。近づこうものなら、奇妙なものを見る目が周囲から注がれて、なかなか寄るのも難しかった。
小学六年生になっての転校生というのは、小さい子にすれば、ある意味で異端者だったのだろう。でもそんな理屈は、当時の私に通じるものじゃない。

「あいつ、今度は調理実習でも居残りらしいよ」

誰かがこんな陰口を叩いているのを聞いたときには、かなりむかっときた。
でも同時に、いい情報を知ったなとも思った。彼が残るなら、私も残ってしまえばいい。そうすれば、自然に話せる機会ができる。

強制的に残されてばかりだった私が、はじめて、わざと居残りを決意した瞬間だった。

数日後、いっくんにマンツーマンで行われるはずだった調理実習に、私は飛び込みで参加した。そのくせ用意よく、バンダナもエプロンも持参してだ。むしろ彼がバンダナを忘れていたから、私が貸したくらいだった。
先生も、突然の参加を歓迎してくれた。その理由は、

「あなた成績悪いみたいだから」

というネガティブなものだったが。

その時の献立が、まさに深川めしだった。少し筆記の授業があってから、実習に入る。私は、一度すでに習っていた。それに当時は料理人が夢でもあった。
いっくんをリードしてやろうと意気込んでいたのだが、いかんせん下手の横好きだった。二人で悪戦苦闘しながらも、調理をこなしていく。

できたものは、不格好だったし、七味の入れすぎで小学生には結構辛かった。先生なしにはたぶん、形にもならなかったと思う。

でも私が覚えているのは、ほとんどいっくんと二人でやったという記憶だ。懸命に思い返しても、彼とのやり取りしか出てこない。

二人で料理をして、笑い合う。この瞬間を、写真に撮れたらいいなと思った。一コマずつ切り取って、置いておけたらいい。

この時の私は気づかなかったけれど、もうとっくにいっくんを好きになっていたんだと思う。とくに大したイベントもなかったけれど、淡い恋が日常に芽吹いていた。

けれど、その芽は地面から覗き出てすぐ後に摘まれることとなる。
調理実習があった日の帰り道、私は彼を秘密基地つまり、今は『郷土料理屋・いち』のある空きテナントに誘った。
日が暮れるまではまだ少しあったから、もう少しだけ二人でいたいと思ったのだ。そして、そこで聞かされた。

「また転校するんだ。今週末」と。

心を全てひっくり返されるくらい、衝撃的だった。幼い、小さな受け皿では到底受け止めきれないほど。
じゃあもう会えないの、そうかもね、なんて、半ばうつつを失った状態で、会話を交わす。

泣く寸前までは、簡単にいった。でも、彼の目にも涙が光るのを見て、私は必死で堪えた。せめて笑って送り出したいと思ったのだ。

「明るく過ごしてれば奇跡って起きるんだよ! だから、だからさ」

きっと彼が一番辛いだろうから、私が悲しんでいる場合じゃない。励ましたい一心で、震える手でもって壁に落書きをした。書いたのは、──また会えるよ、だったと思う。少なくとも、脅迫文などではない。

別れ際、

「日曜日は何時に出るの?」
「五時に上野駅からだよ」
「絶対見送りに行くね」

私たちは、どちらも懸命な笑顔を作りながら、こう約束を交わした。小指を握り合って、指切りもした。子どもにとってみれば、最上級の誓いだった。

だが結局、その約束が果たされることはなかった。

私は、彼を見送りにいけなかったのだ。

週末、私は、両親に無理矢理に連れられて、浅草にあった父方の祖父母の家にいた。後から聞いた話だが、この時にはもう離婚の話が進められていたらしい。だからか、どれだけ抗議しても、解放してくれたのは、やっと夕方になってからだった。

私が駅に辿り着いたのは、五時ちょうど、もう発車の定刻だった。駅には当然、彼の姿はなかった。電車が頭上を走っていく音が、息を切らす私の耳に空しく届いた。

最後の最後に、私は約束を反故にしてしまったわけだ。

 こんな終わり方なんて嫌だ。もう会えないなんて変だ。私は堪えきれなくなって、人込みの中でぼろぼろと涙を流した。大方の人は構うことなく通り過ぎていったが、私の様子がおかしいことに気づいて、声を掛けてくれる人もいた。

ありがたいけれど、その時ははっきりと迷惑だった。

だから、一人きりになれる場所を目指して、私は上野公園の噴水広場に至った。
そしてそこで、達輝に会った。 

     ♢

私を脅迫した犯人が初恋の人かもしれないうえ、バイトには来ないよう言われた。二つのショックに心をやられかけて、辛々家にたどり着いた私に、
『次はいつ会える?』
達輝からのメッセージは、追い打ちをかけてくるかのようだった。
今は、告白の返事なんて考えていられない。ううん、なにもかも考える気分じゃなかった。できるなら一切合切を誰かに放り投げてしまいたかった。
携帯を床へ投げ出し、自分はソファに仰向けになって転がる。明かりが眩しくて、近くにあったリモコンで豆球にかえた。
どうしてこうもうまくいかないのだろう、思いを天井へはせる。
少し前までは順調にきていたはずだ。これまで逃し続けてきた運命だって、すぐそこにあると思っていた。けれど、今はまた遠い。この週末で、三ヶ月を迎えるというのに、あの豆球みたい、手を伸ばしても届かないところに行ってしまった気がする。、
「……私がお店を辞めたら早いのかな」
考えないようにしようと思っていたけれど、弱音が出てしまった。
でも、その通りだ。とにかく店をやめてしまえば、話は全て終わる。脅迫は目的が達せられて、なくなるだろうし、江本さんがひふみさんと話すのを見て、変に心を痛めることもない。ふっと身体から力が抜けていく。そのまま寝られそうだなと思ったら、きゅるっとお腹が鳴った。
こんな時でもお腹は空くみたいだ。そういえば、今日もまかないを食べそこねていた。私は仕方なく立ち上がって、冷蔵庫の戸を開ける。
「……なんにもないじゃん」
なにもこんな時に限って、と思う。
ただ、キャベツや玉ねぎなら、野菜室にあった。冷凍庫には、鶏肉も眠っている。
自然、私はまな板の前に立っていた。昔と違って、まるで作れないわけじゃない。それに、料理をすることで、多少は気晴らしになるかもしれないと考えた。
が、それは見当はずれだった。
作ろうとしたのが、とり天だったのが悪かったのかもしれない。どうしても江本さんの顔が浮かんでくる。こけかけた私を抱きとめてくれたことから始まって、この三ヶ月の思い出がぶわっと蘇ってきた。
手順も調味料も間違えなかった。少ない油でも、カラっと揚げられたのは大成長の証だろう。それなのに、一人でリビングで食べるご飯は、どうしてか味気なかった。


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