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五章 深川めし

五章 深川めし(6)

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  四


 六時少し前、私は上野公園の噴水前に一人で立っていた。

今日も人はまばらだった。雨はもう上がっていたけれど、ベンチが濡れていては人は寄り付かない。
開けた場所に誰もいないのは、なんだか寂しい光景だ。でも、今の私にはそれが好都合だった。
傘を吊るした手首を返して、腕時計を見る。約束の時間まで、あと一分を切っていた。時間には厳密な彼のことだ。

仕事で遅れているのかもしれない。

そう時計盤を見つめていたら、噴水が大きな音を立てて噴き上がる。

「よう、待たせたな」

時間ちょうど、顔を上げるとすぐそこに、幼馴染・達輝がいた。

「悪い、ぎりぎりになった。少しスケジュールが押したんだ」

土曜日にも関わらずラインの入ったスーツ姿、額の汗を拭って言う。

普通なら、ねぎらいの言葉一つあってもいい場面かもしれない。でも、私はもう心を決めていた。そんな余計な気を遣っている余裕はない。

達輝とは、昔からの縁があった。どれだけ粘着されてもこれまでは、振り切れないできた。
けれど、それも今日ここまでだ。私は、彼がなおも話を続けるのを遮る。

「私、達輝とは絶対に付き合えない。もう近寄らないで」

きっぱりと一線を引いた。
言葉には、幼馴染だろうが、元カレだろうが、もう関わり合わないという決意を込めた。

よほど衝撃だったのか声も出せずに硬直した達輝を置いて、私は駆け出す。

「おい、待てよ!」
「待たない! 私はもうお店に行かなきゃダメなの」

もう振り返らない。少し遅れて達輝が追ってきたけれど、私はスニーカで、彼は革靴ということも幸いしてか捕まることはなかった。

上野公園を抜けて、商店街へと飛び込む。人ゴミの中に紛れてしまえば、あとはもう店を目指すだけだった。
『郷土料理屋・いち』の前にたどり着く。今日も臨時休業の張り紙がしてあった。けれど、店内には明かりが灯っていたから江本さんはなかにいるのだろう。表も裏口も、どちらも鍵がかかっていた。脅迫犯を警戒しているのかもしれない。

けれど、私は鍵を預かっていた。信頼の証でロックを解除し、裏の戸を引く。

「…………これは佐田さん」

全く思いがけず、すぐそこ、ライトの落ちた暗い中に江本さんが立っていた。
たかが一日ぶりなのに、なんだか随分久しぶりに見た気がする。胸を熱くしていると、唐突に江本さんの右手が、私の腰に回った。

「えっと?」

そして、あろうことか、ぐいっと力強く抱き寄せられた。

「え、ちょっと!」

わけもわからず、されるがままになる。和服から甘い匂いが漂って、くらくらと脳が揺れた。
思いに気づいたばかりでは、色々と刺激が強すぎる。

「いきなりそんなことをされると、その、心の準備が!」
「それはこっちのセリフでございます」
「……はい?」

彼は外を伺ってから、扉を閉める。私の腰に回した腕を、ふわりとほどいた。私はまだドキドキとして、自立できず、壁にもたれかかった。尻からずるずると下がっていき、なんとか持ち直す。
江本さんは、仏頂面のまま、もみあげの後ろを掻いていた。

「佐田さん、危険だから来ないように、と伝えたかと思います。お帰りください」

一見冷たい態度だった。凄みさえ感じる。
けれど、私は彼の本音を知っている。心の奥では、私と働きたいと思ってくれているのだ。

「帰りません。だって私の問題ですもん。私がいないと脅迫犯分からないと思うんです! 犯人は私に恨みがある人だから。私、犯人の目星がついてるんです」

だから、強気になれた。自信満々、ぎゅっと右の拳を作って突き出す。ひふみさんとやったみたいに、拳で押し返してほしかったのだが、江本さんは取り合わない。

「ですが、犯人を調査している場合ではなくなったのです」
「他になにかあったんですか? ちなみに何があっても帰りませんから!」
「……そこまでおっしゃるなら、仕方ありません」
「分かってくれて何よりです。それで、なにがあったか教えてください」

江本さんは渋るように口を真一文字に結ぶ。目を閉じて、答えないつもりのようだ。それでも見つめ続けていたら、折れてくれた。

「実は今朝、店に出てみると、こんな警告がありまして」

彼はエントランスの電気をつけると、前掛けの一番小さなポケットから紙切れを取り出す。
小さく折りたたまれたそれを開くと、そこには、昨日とはまた別の脅迫文言が綴られていた。
オンナヤメナケレバミセヲモヤス、と。

「犯人を調査してる場合ではない、と言ったのはこういうことでございます」
「……まさかここまでするなんて」
「時間の予告はありませんでしたが、だからこそ警戒をしていたのです。僕が玄関前にいたのは、そういうわけです」

「それで警察には連絡したんですか?」
「いえ、しておりません」
「でもここまでの脅迫だったら、通報してもおかしくないと思うんですけど……」
「少し事情があるのです」

江本さんは誤魔化すようにそれだけ言うと、今度は前掛けの別ポケットに手を入れる。出てきたのは、

「糸巻き、ハサミにテープ……ってこれなんですか」

料理人というよりは、工作の先生のような持ち物だ。

「どうせ帰っていただけないのなら、手伝ってはいただけませんか」

なにをかは全く分からなかった。
でもとにかく頷くと、江本さんは近場にあった空の段ボールを組み上げ始める。

「これをどうするんです?」
「火をつけるとなれば、正面突破してくることは考えづらい。なので、裏口に足止めのための仕掛けを作りたいのです。ただどうにもうまくいかず……」
「江本さん、こういうの得意じゃないんでしたっけ」

そういえば、看板作りの時もえらく苦戦していた。

「はい。なので、よろしければ」
「もちろんです! 力になりたくてきたんです」

開けた場所を求めて、倉庫の中に移動する。

ホールに出ないのは、万が一にも外から私がいると見られないようにするためだそうだ。私は江本さんに指示してもらいながら、仕掛けを拵えていく。

といっても、そう大層なものじゃない。できるだけ目立たないように、ダンボールの上部から糸を巡らせる程度の話だ。

どう犯人を引っ掛けるのかといえば、

「足で踏むなど、動かせば、ダンボールに入れた貝殻が落ちるように仕組みます」
「そんな単純な方法に引っかかります……? 私ならかかるかもですけど」

なんというか子供騙しだ。だが、江本さんはあくまで自信ありげに、ふっと軽く微笑む。
推理を披露する時と同じ口ぶりで、軽やかに説明する。

「中に侵入するのなら、まずかからないでしょう。なにせかなり単純な仕掛けですから。
けれど、外という環境ならばどうでしょう」
「……たしかに外なら、もっと別のものを警戒するかも?」
「ご名答。人の気配を気にするのが先でしょう」

たしかに使い方次第かもしれない。
納得した私は、作業のピッチをあげていく。完成すると、

「決してここから出ないでください」

そうぴしゃり忠告をして、江本さんは外へと出ていった。
物言わぬ食材たちに囲まれた無音の空間の中、一人になって少し冷静になる。

まさか店を燃やすとまで話が進展するとは、正直いって、想像の範疇を超えていた。弱気が心を陰らせる。少し震える手を私はぱんっと叩いて合わせた。

私の問題だというのに、江本さんがここまで協力してくれているのだ。私がくよくよしてる場合ではない。

「……無事に設置が終わりました」

お酒のラックになった隠し扉が開いて、江本さんが戻ってくる。
私は、犯人が初恋の人かもしれないと打ち明けようとしたが、江本さんは左の人差し指を唇に当てた。

「いつやって来るか分かりません。いくら大きな音が鳴ろうとも、話していては反応が遅れます」
「……そうですね」

はちきれそうに息の詰まる空気が狭い空間に篭る。

なにも言ってはいけないのに、いやだからこそ、喉元には伝えたいことがたくさんこみ上げていた。
これまでのことへの感謝、最近の態度への懺悔に、素直な気持ちまで。いよいよ堪えきれず、口を開きかけた時、微かだが外から破裂音がした。

音量以外は、昨日聞いたものと同じだ。

「本当にかかった!」
「そのようですね。もっとも猫かもしれませんが」

江本さんはそれだけ言うと、和服の裾をだんご結びにたくしあげつつ駆け出ていく。

私はここにいるべきなのだろうけれど、ただ見ているのは辛抱ならなかった。私もすぐにあとを追う。
もし犯人なら挟み撃ちになれば、と正面の扉から店の外へ。しかし、もう江本さんは表通りの方まで走っていた。
逃げていく犯人と思しき人物は、スーツを着ていた。男だろうが、そう速くは動けまい。速さは互角といったところだった。

私も表通りまで出る。和服とスーツ、大の大人がばらばらの格好で走っているともなれば、衆目を集めていた。

「その人止めてください! 放火魔なんです!」

私は、一か八かこう叫ぶ。
すると、通行人の人たちが壁をなすように固まってくれた。男の進路が阻まれる。身を反転しようとしたところを、江本さんが袖を制して取り押さえた。

スーツ姿の男はよろめいて、その場にへたり込む。

遠目に横顔を見て、驚いた。

初恋の人じゃない。

ついさっき決別したばかり、幼馴染・達輝だった。

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