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第一章 シンガポール・スリング
第一話
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*
「ごめんっ!!」
と、両手を合わせて頭を下げたのは、同期入社の池田愛菜だ。
私とは同い年で、配属も同じ営業課。入社してからずっと友達だから、付き合いはもうかれこれ四年近くになる。
似たもの同士だと気づいたのは、確かはじめての同期飲み。学生時代から勉強漬けでまともな恋愛経験もなく、このまま一生独身かもね……なんて私が笑いながら言ったとき、「私も同じ!」とビール片手に名乗り上げてくれたのが彼女だった。
以来、独身同盟なんて言って、二人でちょこちょこ一緒に遊んでいたのだけど。
「彼氏の実家にいきなりお呼ばれされちゃってさ。来週のシンガポール旅行、やっぱりキャンセルしてもいい……?」
このときの私の心境はもう、とてもじゃないけど言葉では言い尽くせないほどのものだった。
彼氏いたの? いつから? なんで教えてくれなかったの? ていうか実家? 早くない? それともそんな昔から付き合ってたわけ?
真新しい情報の奔流に頭が真っ白になる中、私はやっと心に秘めた自分の仮面を引っ張り出す。そう、営業用の自分の顔を。
「――いいよいいよ。私との旅行より、彼氏の実家の方が大事だもんね」
「ありがとう! キャンセル代は自分で出すよ、凛に迷惑はかけられないし」
キャンセルの時点で迷惑が掛かっているとは考えないのだろうか。
なんて野暮なことを言っても仕方ない。思えば愛菜には、昔からよく遊ぶ約束をキャンセルされてきた。今回の件に限って言えば、前日キャンセルや当日ドタキャンじゃないだけマシなのかもしれない。
「凛はどうする? 一緒にキャンセルしておこうか?」
「うーん、どうしようかな。もうガイドブックも買っちゃったしなぁ」
「えっ、一人で行くつもりなの? まじで?」
いったい何がおかしいのか、愛菜はけらけらと笑う。
「さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女!」
――瞬間、全身の血が逆流したみたいにカッと身体が熱くなった。
強い女。一人で生きていける女。今までも何度か無邪気な声で、人からそう呼ばれることはあった。実際、周囲から舐められないよう、自分でも多少気を張って生きてきた面はあると思う。
でも。
「それじゃあ私、お昼行ってくるね! バイバイ!」
去っていく愛菜の後姿を不恰好な笑みで見送る。
愛菜は通路の角で立っていた男の人――あれ、同じ営業課の山田先輩だ――の腕にするりと腕を絡ませると、廊下のあちこちにハートをまき散らして軽い足取りで歩いて行った。
(まあいいや。もう、考えないようにしよう)
私の目の前の課題といえば、言うまでもない、シンガポール旅行だ。
もともとは遠慮も気兼ねもない女二人旅のはずだった。私も最初からそのつもりで、色々と下調べや計画をしてきたわけだけど。
スマホのスケジュールを確認する。私は三泊四日がよかったのに、愛菜の方の予算の都合で二泊三日になったんだっけ。今となっては変更もできないから、これまた仕方のないことだ。
女一人での旅行への不安。
シンガポールへの期待と憧れ。
ふたつの感情が天秤にかけられ右へ左へ揺れ動く。
ずっと前から楽しみにしていた、綿密なスケジュールも組んだ、ガイドブックも二冊買った、久しぶりの海外旅行。
ぐらぐら揺れる天秤の奥から、愛菜の声が聞こえてくる。さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女!
(……一人で行くか)
ガシャン! 天秤は見事傾き、不安な気持ちは視界の外へと転がり落ちた。
こうして私は諸々の不安にすべて蓋をして、たった一人で遠いシンガポールの地へと降り立ったのだった。
*
ひとりぼっちの海外旅行は、想像以上に快適だった。
なにせ私は下調べの鬼だ。各観光地の滞在時間をあらかじめ決めた上で、交通手段とその所要時間も全部ノートにまとめてある。このスケジュール通りに動けば、少しの損もなく旅行を満喫できるというわけだ。
(シンガポール、楽しい)
見るものすべてが新しく面白い。食べ物も異国情緒満点で、味は美味しいものばかり。
しかし、やっぱりふとした折に一人の寂しさが身に染みる。美味しいものも楽しいことも、一人だと少し味気ないものだ。SNSに感想を載せても、なんだか物足りなく感じてしまう。
でもまあ、今更どうしようもないこと。愛菜だってきっと今頃、彼氏の実家で色々と頑張っているんだろう。
スマホでデザートの写真を撮っていると、ふいに傍から話し声が聞こえた。ヨーロッパ圏から旅行に来ているらしいブロンドヘアのカップルが、一生懸命腕を伸ばして二人の写真を撮ろうとしている。
『よろしければ、お撮りしましょうか?』
私が笑顔で声をかけると、女性の方が満面の笑みでカメラを渡してくれた。彼女は写真を撮り終えた私に、
『貴女の写真も撮ってあげましょうか?』
と親切な申し出をしてくれたけど、私は笑ってノーを告げると逃げるように店を後にした。
駅前をふらふら歩いていると、見慣れた丸い文字に気づいた。自然と足が歩みを止めて、ついその文字に見入ってしまう。
日本語だ。思いっきり日本語で“いらっしゃいませ”と書いてある。
引き寄せられるようにお店に入る。今度は明瞭な日本語で「いらっしゃいませー」と声が聞こえた。思わずレジの方へ目を向ける。帽子をかぶった若い日本人男性が、私を見るとニッと人懐っこそうに笑ってみせた。
(かっこいい人)
眼力のある大きな瞳と、形の良い小さな鼻。猫みたいな可愛らしさの中に独特の色気があって、目が合うだけで少しドキッとしてしまう。
お店にはお菓子の箱や小物などが並べられている。値札には英語と日本語の両方で説明が書かれていて、どうやらここは日本人観光客向けのお土産屋さんらしい。
ああでも、お客さんは日本人だけというわけではないのかな。私の後に入ってきたアジア系の男性が、何かを探すようなそぶりでお店の中をうろうろしている。
(お土産は明日買う予定だったけど、こんなところで日本人に会えたのも何かのご縁かも)
マーライオンをかたどった個包装のチョコレートと、愛菜が可愛いと言っていたプラナカン・デザインのポーチを持って、私はおずおずとレジへ向かう。
「すみません、お願いします」
「はーい」
わあ、やっぱり日本語が通じると安心感が違うなぁ。
勝手に安堵する私を横目に、店員さんは慣れた手つきでレジを打ちながら、
「女の子ひとりでシンガポール旅行?」
と、からかうわけでもなく言った。
「いくら治安の良いシンガポールでも、女子の一人旅はおすすめしないよ。こんな可愛い子なんだから、色々気を付けた方がいいと思うけどね」
「ありがとうございます。でも、本当に一人で来ているので」
「ツアーとか組まなかったの? 全部ひとり?」
「全部です。最初は二人で来る予定だったんですけど、相手に用事が入ってしまって」
「そっか。……」
可愛らしいロゴの書かれたレジ袋を受け取る。シー、……なんて読むのかな? デザインがおしゃれすぎて、可愛いけど全然読めないや。
「まあ、とにかく気を付けて。ここは日本じゃないんだからね」
「わかりました、気を付けます」
店員さんに別れを告げて、私はノートを確認した。駅のロッカーに荷物を置いて、それからこの時間の電車に乗って、ここを一時間見学したら今度はこっちへ移動して……。
(一人旅は楽だ)
自分の立てた予定に沿えば、失敗することなど何もない。
でもやっぱり、日本語で他愛無い会話をしたときの安心感が尾を引いている。店員さんを振り返ろうとして、でも、振り返ったところで何ができるわけでもなくて、私はいつもより大股で駅の方へと歩き出す。
(大丈夫。私は一人で生きていける女)
言い聞かせるような言葉をよそに、胸に巣食った一抹の寂しさが、シンガポールの蒸し暑さの中でじわじわと心を蝕んでいた。
「ごめんっ!!」
と、両手を合わせて頭を下げたのは、同期入社の池田愛菜だ。
私とは同い年で、配属も同じ営業課。入社してからずっと友達だから、付き合いはもうかれこれ四年近くになる。
似たもの同士だと気づいたのは、確かはじめての同期飲み。学生時代から勉強漬けでまともな恋愛経験もなく、このまま一生独身かもね……なんて私が笑いながら言ったとき、「私も同じ!」とビール片手に名乗り上げてくれたのが彼女だった。
以来、独身同盟なんて言って、二人でちょこちょこ一緒に遊んでいたのだけど。
「彼氏の実家にいきなりお呼ばれされちゃってさ。来週のシンガポール旅行、やっぱりキャンセルしてもいい……?」
このときの私の心境はもう、とてもじゃないけど言葉では言い尽くせないほどのものだった。
彼氏いたの? いつから? なんで教えてくれなかったの? ていうか実家? 早くない? それともそんな昔から付き合ってたわけ?
真新しい情報の奔流に頭が真っ白になる中、私はやっと心に秘めた自分の仮面を引っ張り出す。そう、営業用の自分の顔を。
「――いいよいいよ。私との旅行より、彼氏の実家の方が大事だもんね」
「ありがとう! キャンセル代は自分で出すよ、凛に迷惑はかけられないし」
キャンセルの時点で迷惑が掛かっているとは考えないのだろうか。
なんて野暮なことを言っても仕方ない。思えば愛菜には、昔からよく遊ぶ約束をキャンセルされてきた。今回の件に限って言えば、前日キャンセルや当日ドタキャンじゃないだけマシなのかもしれない。
「凛はどうする? 一緒にキャンセルしておこうか?」
「うーん、どうしようかな。もうガイドブックも買っちゃったしなぁ」
「えっ、一人で行くつもりなの? まじで?」
いったい何がおかしいのか、愛菜はけらけらと笑う。
「さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女!」
――瞬間、全身の血が逆流したみたいにカッと身体が熱くなった。
強い女。一人で生きていける女。今までも何度か無邪気な声で、人からそう呼ばれることはあった。実際、周囲から舐められないよう、自分でも多少気を張って生きてきた面はあると思う。
でも。
「それじゃあ私、お昼行ってくるね! バイバイ!」
去っていく愛菜の後姿を不恰好な笑みで見送る。
愛菜は通路の角で立っていた男の人――あれ、同じ営業課の山田先輩だ――の腕にするりと腕を絡ませると、廊下のあちこちにハートをまき散らして軽い足取りで歩いて行った。
(まあいいや。もう、考えないようにしよう)
私の目の前の課題といえば、言うまでもない、シンガポール旅行だ。
もともとは遠慮も気兼ねもない女二人旅のはずだった。私も最初からそのつもりで、色々と下調べや計画をしてきたわけだけど。
スマホのスケジュールを確認する。私は三泊四日がよかったのに、愛菜の方の予算の都合で二泊三日になったんだっけ。今となっては変更もできないから、これまた仕方のないことだ。
女一人での旅行への不安。
シンガポールへの期待と憧れ。
ふたつの感情が天秤にかけられ右へ左へ揺れ動く。
ずっと前から楽しみにしていた、綿密なスケジュールも組んだ、ガイドブックも二冊買った、久しぶりの海外旅行。
ぐらぐら揺れる天秤の奥から、愛菜の声が聞こえてくる。さっすが凛! 強いねー! 一人で生きていける女!
(……一人で行くか)
ガシャン! 天秤は見事傾き、不安な気持ちは視界の外へと転がり落ちた。
こうして私は諸々の不安にすべて蓋をして、たった一人で遠いシンガポールの地へと降り立ったのだった。
*
ひとりぼっちの海外旅行は、想像以上に快適だった。
なにせ私は下調べの鬼だ。各観光地の滞在時間をあらかじめ決めた上で、交通手段とその所要時間も全部ノートにまとめてある。このスケジュール通りに動けば、少しの損もなく旅行を満喫できるというわけだ。
(シンガポール、楽しい)
見るものすべてが新しく面白い。食べ物も異国情緒満点で、味は美味しいものばかり。
しかし、やっぱりふとした折に一人の寂しさが身に染みる。美味しいものも楽しいことも、一人だと少し味気ないものだ。SNSに感想を載せても、なんだか物足りなく感じてしまう。
でもまあ、今更どうしようもないこと。愛菜だってきっと今頃、彼氏の実家で色々と頑張っているんだろう。
スマホでデザートの写真を撮っていると、ふいに傍から話し声が聞こえた。ヨーロッパ圏から旅行に来ているらしいブロンドヘアのカップルが、一生懸命腕を伸ばして二人の写真を撮ろうとしている。
『よろしければ、お撮りしましょうか?』
私が笑顔で声をかけると、女性の方が満面の笑みでカメラを渡してくれた。彼女は写真を撮り終えた私に、
『貴女の写真も撮ってあげましょうか?』
と親切な申し出をしてくれたけど、私は笑ってノーを告げると逃げるように店を後にした。
駅前をふらふら歩いていると、見慣れた丸い文字に気づいた。自然と足が歩みを止めて、ついその文字に見入ってしまう。
日本語だ。思いっきり日本語で“いらっしゃいませ”と書いてある。
引き寄せられるようにお店に入る。今度は明瞭な日本語で「いらっしゃいませー」と声が聞こえた。思わずレジの方へ目を向ける。帽子をかぶった若い日本人男性が、私を見るとニッと人懐っこそうに笑ってみせた。
(かっこいい人)
眼力のある大きな瞳と、形の良い小さな鼻。猫みたいな可愛らしさの中に独特の色気があって、目が合うだけで少しドキッとしてしまう。
お店にはお菓子の箱や小物などが並べられている。値札には英語と日本語の両方で説明が書かれていて、どうやらここは日本人観光客向けのお土産屋さんらしい。
ああでも、お客さんは日本人だけというわけではないのかな。私の後に入ってきたアジア系の男性が、何かを探すようなそぶりでお店の中をうろうろしている。
(お土産は明日買う予定だったけど、こんなところで日本人に会えたのも何かのご縁かも)
マーライオンをかたどった個包装のチョコレートと、愛菜が可愛いと言っていたプラナカン・デザインのポーチを持って、私はおずおずとレジへ向かう。
「すみません、お願いします」
「はーい」
わあ、やっぱり日本語が通じると安心感が違うなぁ。
勝手に安堵する私を横目に、店員さんは慣れた手つきでレジを打ちながら、
「女の子ひとりでシンガポール旅行?」
と、からかうわけでもなく言った。
「いくら治安の良いシンガポールでも、女子の一人旅はおすすめしないよ。こんな可愛い子なんだから、色々気を付けた方がいいと思うけどね」
「ありがとうございます。でも、本当に一人で来ているので」
「ツアーとか組まなかったの? 全部ひとり?」
「全部です。最初は二人で来る予定だったんですけど、相手に用事が入ってしまって」
「そっか。……」
可愛らしいロゴの書かれたレジ袋を受け取る。シー、……なんて読むのかな? デザインがおしゃれすぎて、可愛いけど全然読めないや。
「まあ、とにかく気を付けて。ここは日本じゃないんだからね」
「わかりました、気を付けます」
店員さんに別れを告げて、私はノートを確認した。駅のロッカーに荷物を置いて、それからこの時間の電車に乗って、ここを一時間見学したら今度はこっちへ移動して……。
(一人旅は楽だ)
自分の立てた予定に沿えば、失敗することなど何もない。
でもやっぱり、日本語で他愛無い会話をしたときの安心感が尾を引いている。店員さんを振り返ろうとして、でも、振り返ったところで何ができるわけでもなくて、私はいつもより大股で駅の方へと歩き出す。
(大丈夫。私は一人で生きていける女)
言い聞かせるような言葉をよそに、胸に巣食った一抹の寂しさが、シンガポールの蒸し暑さの中でじわじわと心を蝕んでいた。
応援ありがとうございます!
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