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第五章 本当の恋の予行練習
第十五話
しおりを挟む新しい朝が来た。
希望の朝だ。
見慣れた狭い自分の部屋で、私はスマホをたぐり寄せる。目覚ましが鳴るまであと五分。珍しく先に目が覚めた。
いつものルーティーンでメッセージアプリを起動してから、ふと、友達リストの中に新しい名前があることに気づく。
『社長代理』の上に――『椎名玲一』。
(ああ、そうだ)
一瞬で何もかもを思い出すのと同時に、私はなんだか自分がとんでもない不良にでもなった心地がした。誰に叱られたわけでもないけれど、頭を抱えて必死に謝る。ご先祖様ごめんなさい。お父さんお母さんごめんなさい。それから弟、ごめんなさい。
私は片想い相手と――爛れた関係になってしまいました。
*
「……は?」
思わず素で聞き返した私を見て、社長代理は力なく笑った。「こんな俺でごめんねえ」と乾いた言葉が車内に響く。
今の、私の聞き間違いじゃないよね? 私の耳にはその、せ、セフレ……って聞こえたんだけど。
「だから、付き合うことはできないけど、それに近い関係にはなれるよっていうこと。嫌ならそれでいいんだよ。ひどいこと言ってる自覚はあるから」
座席に寄りかかりながら、社長代理は落ち着きを取り戻したみたいに穏やかに微笑んで見せる。私はまだ混乱の中。ずっ、と鼻水をすすろうとして、差し出されたティッシュボックスを受け取る。
「さ、さっきのって、具体的にはその、どんな」
「どんなって……たまに一緒に飯食い行ったり、買い物行ったり、家でゴロゴロしたり、セックスしたり。普通よりちょっと仲のいい友達同士って感じかな」
私の知っている『ちょっと仲のいい友達』と一部定義が違うようだ。
なんともいえない顔をする私に、社長代理は商談のときみたいに落ち着いた顔で説明を続ける。セフレと恋人はまったく別物。拘束力は全然ないし、仕事中は上司と部下に戻る。お互い都合のいいときに会って、やめたくなったら簡単に解消。友達以上恋人未満。羽よりも軽い間柄ということ。
(もしかして、私から嫌われるためにわざとこんなことを言ってるの?)
でも、社長代理の表情を見るに、どうやら冗談というわけではないらしい。少し緩んだ彼の口元は、明らかに私の返事を待っている。どちらへ転ぶも私次第だと、迷路を走る実験動物のネズミを見る目で眺めている。
その目がふいに、やわく歪んだ。私の言葉では形容できない微妙な感情を目の奥に隠し、社長代理は静かに言う。
「高階は俺を何も知らない」
うっすらと浮かぶ微笑みに比べ、ひどく冷たい、突き放すような声。
「だからそんな純粋な顔で、好きですなんて言えるんだ。でも、本当の俺を知っていくうちに、きっとだんだん後悔する。自分はこの男にずっと騙されていたんだ、ってね」
「……そんな」
「だから本当に付き合うんじゃなくて、セフレ程度にしておくのがいい。本当の恋をするまでの予行練習。お互いを都合よく利用しあう、相互利益の間柄だね」
本気の告白の返事だとすれば、あまりにも最低で低俗な誘い。
それでも怒る気になれないのは、微笑む社長代理の横顔があまりにも寂しそうだからかもしれない。
(私は彼を何も知らない)
もしこの提案を吞んだなら? 私と彼の間柄には新しい色が刻み込まれる。彼に触れられる。一緒に過ごせる。でも、恋人では……ない。
(本当にそれでいいの?)
私は自分に問いかける。確かにこの人が言うように、私の想いは全部勘違いで、ただ『はじめての人』だから無条件に好意を抱いているだけだとしたら?
本当の恋までの予行練習といって、セフレという立ち位置に収まること。それは本当に私の幸せに繋がることなのだろうか?
「仮に私とそうなったとして……社長代理に益はあるんですか?」
社長代理は軽く目を細めると、
「寂しいときは頼らせてもらうよ」
と、低い声で笑った。
ただそれだけのことなのに、身体の芯がぎゅんと熱くなる。彼の声音に抗いきれず、眠った本能が呼び起こされる。
それは純粋な好意とは違う――本当に彼が指摘したように――私たちの最初の出会いが、ひどく不純だったからかもしれない。彼に教えられ、導かれ、刻み込まれた新しい自分が、もっともっと先を知りたいと駄々をこねているせいかもしれない。
(それでも、彼を知ることができるなら)
高階は俺を何も知らない。そんな言葉で適当にあしらわれるくらいなら、彼の全部を知り尽くした上で、自分の気持ちの答えを出したい。
「わかりました」
静かに告げた私の顔を、彼が黙って見つめる。
「それで、お願いします。……社長代理の、セフレになります」
*
教えてもらった携帯番号は彼のプライベートのものだという。
私は社長代理の車で家の前まで送ってもらい、結局いつもの秘書の顔で「ごちそうさまでした」と頭を下げた。セフレといっても別にいきなりするわけじゃないのかと、少し気が抜けたのは内緒だ。
彼は少し微笑むと、車の窓を全開にして、白い手首をすっと伸ばして私の顔を引き寄せた。ちゅっ、と可愛いリップ音なんて立てて彼の唇が離れていって、呆然とする私の目を見つめて綺麗な顔がニッと微笑む。
――また明日ね、凛ちゃん。
(うわ、わ、うわあああ!!)
思い出すだけで真っ赤になって、ベッドでのたうち回ってしまう。ああそうだ、忘れてた。シンガポールぶりにそう呼ばれて、私はもう耳まで真っ赤になってまた泣きそうになってしまったんだ。
告白は失敗だった。私は恋人になれなかった。
でも、私は社長代理の、ちょっとだけ特別な存在になれた。
(どうしよう、今日普通に仕事あるのに)
今までみたいな冷静な目で、彼の顔を見られるだろうか。
ベッドでひとり悶々としていると、ようやくアラームが鳴り始めた。私は仕方なく身体を起こすと、火照った頬を鎮めるように冷たい水で顔を洗った。
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