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第十三章 窮鼠のひと噛み
第四十四話
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すべて社内に公表する、と社長代理は言った。
でも蓋を開けてみれば、名前が公にされたのは青木副社長と鮫島先輩だけ。独立の企てと情報漏洩、そして誹謗中傷を裏で操っていた首謀者として、正式に諸々の賠償を請求する運びだという。
でも当然、社内の噂は私たちを放っておいてはくれない。あのとき名前を読みあげられた社員たちについては、ある者は心身の不調で休職、ある者は早々に退職、そしてある者は周囲の視線に怯えながら出社を続けている。
私は――三番目。
悪質な独立に賛同した一員として、出世の道が閉ざされたことは十分理解しているけど、今日も私は今までと変わらず死んだ顔をして会社に来ている。
「あの……私に何か、できることはありませんか」
秘書課の先輩にそう声をかけると、曖昧に笑って「特にないかな」と袖にされてしまった。先輩の机にはどっさりと仕事が積み上がっているのが見える。今まで鮫島先輩がこなしていたタスクが、今や皆さんに振り分けられているのだから当然だ。
それでも私に仕事をさせてもらえないのは、もはや信頼がないからだろう。すっかり秘書課の窓際族と成り果てて、私はため息とともに席に着く。
(つらい)
仕事を貰えず腫れもの扱いで、六十歳までこのままなのかな。
働かずに給料がもらえる窓際族はうらやましい……なんて言う人もいるけど、正直私には耐えられそうにない。何もせず椅子に座っていると時間の流れが本当に遅く感じるし、頭の中でぐるぐると余計な考えが巡り始める。
(苦しい。泣きそう)
自尊心がぼろぼろと崩れていくのがわかる。あれから何度か颯太くんから連絡が来たけど、どうしても彼と話したくなくて結局無視してしまっている。
オフィスにいるだけでも息が詰まって、お昼のチャイムが鳴ると同時に私は部屋を飛び出した。ビニール袋を引っ掴んで、逃げるようにビルの外へ出る。
どこでもいい。一人隠れて、ご飯を食べられるところはないか。
すれ違う人がみんな私を見てくすくす笑っているような気がする。人の視線が、好奇の噂が、ただただ怖くて仕方ない。
(社長代理はたったひとりでこの恐怖に耐えていたんだ)
今更ながら彼の強さがひどく眩しく輝いて見える。ひとりぼっちで戦い続けた、彼はどんなに孤独だっただろう。
れいいちさん。噛み締めるように名前を唱えたとき、赤信号で停まったタクシーが視界の端に入り込んできた。窓の向こうに見えるのは、社長代理――と、秘書課の先輩。
大きな瞳が隣に向かって穏やかに弧を描くさまが見える。リラックスしたように緩む口元。あの唇がどんな話を楽しそうに語っているのか、タクシーの外にいる私には当然聞こえるはずもなくて。
「……う、あ」
胸が押しつぶされそうに痛い。
視界が惨めにぼやけてきた。
歩道で立ちすくむ私の隣で、軽薄な信号が青へと変わる。動き出したタクシーは私の姿に気づくこともなく、あっという間に明るい都会の中へと走り去っていった。
たいした仕事はしていないのに、なんだかひどく疲労している。
定時を過ぎても仕事を探してだらだら居残っていた私は「そろそろ帰りな」という先輩の言葉で追い出されるように会社を出た。六時を過ぎたばかりだというのにもうすっかり日は暮れて、スーツのジャケットの前を合わせながら私は小さく身を縮める。
寒い。
身体も寒いけど、それ以上に心が寒い。
自分がこの世界の中から爪はじきにされているみたい。誰からも必要とされず、期待されず、いてもいなくても変わらない扱い。それでも私は明日も同じくこの会社に通うつもりでいる。
(今日も一度も目を見られなかった)
まぶたに浮かぶ姿といえば、社長代理の足元ばかり。
社内の笑い者となった私が、どんな顔をして彼の前に立てるというのだろう。まして仕事も貰えない立場で、社長代理と話す機会があるはずもない。
「はぁ……」
今日何度目かの重いため息がまた口からこぼれていく。ため息を吐くと幸せが逃げるって、最初に言い出したのは誰だろう。すでに幸せが枯渇した私ならいったい何が逃げていくのかな。
薄暗い路地を一人とぼとぼ歩いていると、路肩に駐車していた車が唐突にハザードランプを点けた。邪魔だなぁと思いながら、車を避けようと車道に出る。
そのとき突然、私のすぐ目の前で運転席のドアが開いた。思わず立ち止まった私の前に、一人の男性が近づいてくる。痩せ型で、頬がこけていて、瞳ばかりがぎょろりと光る……あれは、青木副社長?
「探していたよ、高階君」
妙にハキハキと言いながら、青木副社長は近寄ってくる。笑顔……でも、なんだか異様な雰囲気だ。
「……探していた? 私をですか?」
「ああ、もちろん。だって君には、まだ我々の新たな店舗をお見せしていなかったからね。こんな時間で悪いが、案内してあげようと思って、ずっと君を探していたんだよ」
……なんの話をしているのだろう。新しい店舗って、まさか独立の件のこと?
その計画は社長代理の手で粉々になるまで潰されて、今はもう何もかもが白紙に戻ってしまったはず。それにこの青木副社長だって、さまざまな賠償手続きのため、激励会以来ずっと自宅で謹慎中だと聞いていた。
「独立の話は、もう全部終わったはずでは?」
私がおずおずと訊ねると、青木副社長はコメディアンのように大袈裟に目を丸くする。
「終わった? 何を言っているんだ。むしろすべてがこれからだよ! 高階君は松岡君とともに我が社の営業部のツートップとして、これからガンガン働いてもらわないといけないのだからね」
「……あの、だから、それは」
「まあいい、とにかく一度君に見てみてほしいんだ。シーナコーポレーションの安っぽい店とは180度おもむきの違う、静かで穏やかでリラックスできる大人のためのネイルサロンだ」
なにか……なにかおかしい。
青木副社長の瞳は、嘘や冗談を言っているようには見えない。でも例の独立計画はとっくに潰えているはずだ。
もしかして、私の知らないところでまだ計画は続いていたとか? 社長代理はそのことを知らず、今もなお騙され続けているとか?
(……もし私が、青木副社長の隠していることをすべて暴いたら)
社長代理は私のことを見直してくれるかもしれない。
恋人に……なんておこがましいことは言わない。でも、昔みたいに隣を歩いて、同じ車に並んで乗って、そして彼の柔らかな微笑みを近くで見つめられるなら。
「……行きます」
何もせず苦しみ続けるよりは、自分にできることをした方がいい。……たとえそこに、私自身の幸せが存在しないのだとしても。
それは思えば、単純な恐怖と焦燥感が選ばせた決断だったかもしれない。でも、このときの私はそんなことを冷静に考える余裕もなくて、他の女性と笑いあう社長代理の幻影を振り払うように、副社長の車へと乗り込んだ。
でも蓋を開けてみれば、名前が公にされたのは青木副社長と鮫島先輩だけ。独立の企てと情報漏洩、そして誹謗中傷を裏で操っていた首謀者として、正式に諸々の賠償を請求する運びだという。
でも当然、社内の噂は私たちを放っておいてはくれない。あのとき名前を読みあげられた社員たちについては、ある者は心身の不調で休職、ある者は早々に退職、そしてある者は周囲の視線に怯えながら出社を続けている。
私は――三番目。
悪質な独立に賛同した一員として、出世の道が閉ざされたことは十分理解しているけど、今日も私は今までと変わらず死んだ顔をして会社に来ている。
「あの……私に何か、できることはありませんか」
秘書課の先輩にそう声をかけると、曖昧に笑って「特にないかな」と袖にされてしまった。先輩の机にはどっさりと仕事が積み上がっているのが見える。今まで鮫島先輩がこなしていたタスクが、今や皆さんに振り分けられているのだから当然だ。
それでも私に仕事をさせてもらえないのは、もはや信頼がないからだろう。すっかり秘書課の窓際族と成り果てて、私はため息とともに席に着く。
(つらい)
仕事を貰えず腫れもの扱いで、六十歳までこのままなのかな。
働かずに給料がもらえる窓際族はうらやましい……なんて言う人もいるけど、正直私には耐えられそうにない。何もせず椅子に座っていると時間の流れが本当に遅く感じるし、頭の中でぐるぐると余計な考えが巡り始める。
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自尊心がぼろぼろと崩れていくのがわかる。あれから何度か颯太くんから連絡が来たけど、どうしても彼と話したくなくて結局無視してしまっている。
オフィスにいるだけでも息が詰まって、お昼のチャイムが鳴ると同時に私は部屋を飛び出した。ビニール袋を引っ掴んで、逃げるようにビルの外へ出る。
どこでもいい。一人隠れて、ご飯を食べられるところはないか。
すれ違う人がみんな私を見てくすくす笑っているような気がする。人の視線が、好奇の噂が、ただただ怖くて仕方ない。
(社長代理はたったひとりでこの恐怖に耐えていたんだ)
今更ながら彼の強さがひどく眩しく輝いて見える。ひとりぼっちで戦い続けた、彼はどんなに孤独だっただろう。
れいいちさん。噛み締めるように名前を唱えたとき、赤信号で停まったタクシーが視界の端に入り込んできた。窓の向こうに見えるのは、社長代理――と、秘書課の先輩。
大きな瞳が隣に向かって穏やかに弧を描くさまが見える。リラックスしたように緩む口元。あの唇がどんな話を楽しそうに語っているのか、タクシーの外にいる私には当然聞こえるはずもなくて。
「……う、あ」
胸が押しつぶされそうに痛い。
視界が惨めにぼやけてきた。
歩道で立ちすくむ私の隣で、軽薄な信号が青へと変わる。動き出したタクシーは私の姿に気づくこともなく、あっという間に明るい都会の中へと走り去っていった。
たいした仕事はしていないのに、なんだかひどく疲労している。
定時を過ぎても仕事を探してだらだら居残っていた私は「そろそろ帰りな」という先輩の言葉で追い出されるように会社を出た。六時を過ぎたばかりだというのにもうすっかり日は暮れて、スーツのジャケットの前を合わせながら私は小さく身を縮める。
寒い。
身体も寒いけど、それ以上に心が寒い。
自分がこの世界の中から爪はじきにされているみたい。誰からも必要とされず、期待されず、いてもいなくても変わらない扱い。それでも私は明日も同じくこの会社に通うつもりでいる。
(今日も一度も目を見られなかった)
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社内の笑い者となった私が、どんな顔をして彼の前に立てるというのだろう。まして仕事も貰えない立場で、社長代理と話す機会があるはずもない。
「はぁ……」
今日何度目かの重いため息がまた口からこぼれていく。ため息を吐くと幸せが逃げるって、最初に言い出したのは誰だろう。すでに幸せが枯渇した私ならいったい何が逃げていくのかな。
薄暗い路地を一人とぼとぼ歩いていると、路肩に駐車していた車が唐突にハザードランプを点けた。邪魔だなぁと思いながら、車を避けようと車道に出る。
そのとき突然、私のすぐ目の前で運転席のドアが開いた。思わず立ち止まった私の前に、一人の男性が近づいてくる。痩せ型で、頬がこけていて、瞳ばかりがぎょろりと光る……あれは、青木副社長?
「探していたよ、高階君」
妙にハキハキと言いながら、青木副社長は近寄ってくる。笑顔……でも、なんだか異様な雰囲気だ。
「……探していた? 私をですか?」
「ああ、もちろん。だって君には、まだ我々の新たな店舗をお見せしていなかったからね。こんな時間で悪いが、案内してあげようと思って、ずっと君を探していたんだよ」
……なんの話をしているのだろう。新しい店舗って、まさか独立の件のこと?
その計画は社長代理の手で粉々になるまで潰されて、今はもう何もかもが白紙に戻ってしまったはず。それにこの青木副社長だって、さまざまな賠償手続きのため、激励会以来ずっと自宅で謹慎中だと聞いていた。
「独立の話は、もう全部終わったはずでは?」
私がおずおずと訊ねると、青木副社長はコメディアンのように大袈裟に目を丸くする。
「終わった? 何を言っているんだ。むしろすべてがこれからだよ! 高階君は松岡君とともに我が社の営業部のツートップとして、これからガンガン働いてもらわないといけないのだからね」
「……あの、だから、それは」
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青木副社長の瞳は、嘘や冗談を言っているようには見えない。でも例の独立計画はとっくに潰えているはずだ。
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(……もし私が、青木副社長の隠していることをすべて暴いたら)
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