それでも僕らは夢を見る

雪静

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第六章 似たもの同士

第十七話

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 幸せでいてほしいと思う。

 あなたが笑えば私も嬉しい。

 あなたが泣けば私も悲しい。

 決して恋人になりたいわけじゃない。ただ、傍であなたの綺麗な横顔を見つめることができるなら、それが私のいちばんの幸せ。私のいちばんの生きる意味。

 そう、これは恋じゃない。心の宝箱にしまいこんだ、この感情を表す名前は――

「『推し』だ」

「えっ?」

 私が唐突に呟いたものだから、桂さんを驚かせてしまったようだ。寄りかかるようにソファに腰掛け、桂さんは私を見て目を丸くしている。

 朝のニュース番組ではエンタメ情報の真っ最中。好きなアニメキャラクターのキーホルダーを下げた女性が『推しのために生きてます』なんて満面の笑みを浮かべている。

「どうしたんですか、突然」

「すみません。つい……」

 星? と呟きながら、部屋を見回す桂さん。ごめんなさい桂さん、星じゃないんだ。推しなんだよ。

 私はとうとうあなたへ抱く感情の名前を知ったのだ。

(恋愛としての『好き』じゃない。純粋で、無欲で、一方的なこの想い)

 『推し』。……私は今、全身全霊で桂さんを推している!

「今日はスカイを洗う日なので、少しお仕事が増えてしまいますね。ご面倒をおかけします」

「いえ、今日も推し事がんばります」

 そう、私の仕事は推しの家のハウスキーパー。私が仕事に励まめば励むだけ推しの生きる環境は整い、ひいては彼の心身の健康を維持する一助となるわけで。

 今までと同じ仕事でも、俄然やる気が湧いてくるものだ。固く絞った雑巾を片手に、私は家中を磨いて回る。

「なんだか……やる気がすごいですね」

 微笑に若干の困惑を織り交ぜ、桂さんは遠巻きに私を眺めている。指先が痛むほど寒い冬の朝。きっと私の頭からは、気合の湯気が昇っていることだろう。

 気合満点でお風呂場をピッカピカに洗っていると、ふいに表からインターホンの音が響いてきた。少し間を置いて庭の方から、桂さんが誰かと話す声が聞こえてくる。

 全身を乾かし終えたのかな? スカイくんが家に上がる軽快な爪の足音がして、バスタオルを携えた桂さんがひょことお風呂場に顔を覗かせた。

「すみません、由希子さん。お茶を淹れてもらってもいいですか」

 いつもの調子で「はい」と言いかけ、喉のあたりで言葉が詰まる。私を見下ろす桂さんの、真夜中のように静かな面持ち。

 初めて会った時とも違う、心を閉ざしたその眼差しに、私は嫌な予感を抑えることができなかった。




 リビングのローテーブルへ、淹れたてのお茶をそっと差し出す。

 突然のお客様――黒髪を撫でつけたスーツ姿のその男性は、私の方をちらと一瞥し無言で湯呑に口付けた。

 お盆を抱え、できるだけ音を立てないようキッチンへ下がる。なんでこの人が。緊張と混乱で口から心臓が飛び出そう。

 清水しみず正義まさよし――。

 現役議員のお父様を持つ新進気鋭の若手政治家である彼は、私の元夫・卓弥が秘書として勤める上司なのだ。

「ずいぶんいい女じゃん。なんだよ桂、こういうのが好みだったの?」

 私の方を横目で見ながら、清水さんはにやにや笑う。

 ぎくりと震える私を尻目に、桂さんは落ち着いた声で、

「家事をお任せしている方だよ」

 と、当然の紹介をした。

「ああ、家政婦ね。ふぅん……」

「別に珍しいことでもないでしょ」

「まあそうだけどさ。この狭い家で家政婦とは、さすが無駄金に躊躇がないな」

 不躾な視線がゆっくりと逸れていく気配がする。

 今のところ、まだ私だと気づかれてはいないようだ。内心胸を撫で下ろしながら、私は二人の様子を伺う。

 卓弥はもともと清水さんのお父様の秘書として働いていた。その頃はこの清水さんも卓弥と同じく秘書の立場で、比較的年が近いこともあり、同年代の友達を集めて家に遊びに来ることも多かった。

 一昨年初当選を果たしてからは、卓弥をお父様から譲り受け、様々な仕事を精力的にこなしていらっしゃると聞いている。もっとも卓弥は清水さんのことを毛嫌いしていて『親のすねかじりの二世議員』『七光りで当選したボンボン』と、それはもうひどい言い様だったけど……。

(私がここにいると知ったら、清水さんはきっと面白がって卓弥に告げ口するだろう。接見禁止令があるとはいえ、できるだけ居場所は知られたくない)

 同じく政治家の父を持つ桂さんにとっては、二世同士のお友達といったところなのだろうか。いずれにしろ、私は適当なところで二階に避難させてもらおう。……そう、思っていたのだけど。

「お前、党に戻る気はないのか?」

 漏れ聞こえる話の内容がさっきから意識の隅をちらついて、どうにも目線がふらふらとそちらばかりに向かってしまう。

「うちの親父がお前のことを当選させたいって息巻いてるよ。党としてもお前を使えばガッポリ票が集まるだろうし、お前には安定した収入が入るし、お互い得だと思わないか?」

「悪いけど、政治の世界に戻りたいと思えなくてね。仕事も今のもので満足している」

「今の仕事って、洋書の翻訳のバイトだろ? あんなの大した金にならないし、そもそも最近は依頼も来ていないって話じゃないか」

 桂さんのこめかみがかすかに疼く。……確かに私の知る限り、桂さんが仕事らしいことをしている姿は見受けられないけど。

 黙り込む桂さんを見据え、清水さんは大きくため息を吐いた。それがあの、卓弥が私へと向ける哀れむようなため息に聞こえて、嫌な記憶を押し戻すみたいに私は自分の胸を抑える。

「……なあ桂。お前ももう三十だろ? 俺だって去年結婚して、来月には子どもが産まれるんだ。仕事も順調。貯金も増えて……まあ、平均的日本人の、中の上って生活かな」

「…………」

「お前はどうよ? ろくに仕事もせず親の遺産で毎日のんびり。自分の入院や親の介護で今まで大変だったのはわかるよ? でも、だからっていい歳した男が、こんな自堕落な生活をして……自分のことをつまらない奴だと、恥ずかしいとは思わないのか?」

 清水さんはかすかに笑い、腕を伸ばして桂さんの手を握る。

「出馬が嫌なら秘書でもいい。俺の部下になれよ。……天谷あまがやさんだって、お前のことをずっと待ってるよ」

 その名前を聞いた瞬間、桂さんはぱっと目を開くと清水さんをなじるように睨んだ。清水さんは鼻の穴を広げ、満足そうに吐息を漏らす。敗者を見下ろす勝者の目――ああ、こんなところも卓弥に似ている。

 見ているだけで手に取るようにわかる。この人は桂さんを心配して誘っているわけじゃない。

 マウンティングだ。……自分の立場が桂さんより上だと、見せつけたくて優しくしているんだ。

(でも、天谷さんって誰のこと……?)

 残る疑問を吹き飛ばすみたいに「家政婦さーん、お茶!」と清水さんが声を上げる。

 急いでお茶のおかわりを出しながら桂さんの方を伺うと、彼は前屈みに指先を組んでじっと虚空を見つめていた。光の見えない暗い眼差し。もちろんそこには、私を含めて何も映ってはいない。

 やがて、桂さんは喉の奥から絞り出すように、

「……考えさせてくれ」

 低い声で、そう言った。

「わかったよ。腹が決まったらいつでも連絡してくれ」

 お茶をぐいと飲み干して、清水さんは立ち上がる。鞄を片手に玄関と向かうその半ば、彼はキッチンの奥に立つ私の前で足を止めると、

「しかしあんた、本当に美人だな」

 と、品のない口元に笑みを浮かべた。

「うちの家政婦はもう棺桶に片足突っ込んでるくらいだから、ちょうどそろそろ代替わりじゃないかと思ってたんだよ。月収どのくらい貰ってるの? いくら出したらうちに来てくれる?」

「いえ、私は……」

「あー、桂の正妻狙ってんならやめておいた方がいいよ。そんなの夢見るだけ無駄だから。まあ、あの桂一郎さんの遺産なら、孫の代まで遊んで暮らせるだろうけどさ……」

 そこでふいに言葉を止めて、

「……あんた、どこかで会ったことあったっけ?」

 清水さんはぎゅうと目を細めて、私の顔を凝視した。
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