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第六章 似たもの同士
第十九話
しおりを挟む……ん?
んんんんん?
「貸切!?」
「はい」
あっだめだ。これは認識の共有ができていない笑顔だ。
聞き間違いかと思ったけれど、どうやらそうではないようだ。桂さんはカラフルな魚の泳ぐ水槽を見回しながら「人がいないと見やすいですね」なんて当たり前のことを呟いている。
「あ、あの、貸切って、その」
「お金さえ払えば民間人でも貸し切ってもらえるようだったので、一番近い日にちで申し込んでみたんです。せっかくお祝いのために行くのに、人だらけで何も見えないのは残念かと思いまして」
「そ、それは、そうですけど、でも」
「思ったほど高くなかったですよ。もちろん全部僕が出すので、そこは安心してください」
今日はお祝いですからね、とにっこり微笑む桂さん。
そりゃ、水族館を貸切だなんて、たとえ請求されたところで私に払える額ではないはずだ。一体いくらかかったのだろう、どうせなら現金で貰いたかった……と、本気の本音をごくりと飲み込む。
(だめだめ、由希子。そんな失礼なことを考えちゃダメだ)
桂さんが私のために用意してくれた貴重な機会。いま私にできることといえば、この時間をめいっぱい楽しむことだけだ。
「……い、行きましょう!」
「はい」
人が誰もいないのをいいことに、めちゃくちゃな順番で水槽を回った。いきなり外に出てカピバラを眺め、子ども向けの展示を夢中で覗き込んで……順路の矢印を嬉々として逆走する私たちの姿を、スタッフさんがくすくすと、微笑ましそうに眺めている。
「すごい! イワシの大群ですよ。黒い魚が目になるんでしょうか」
「『スイミー』ですね。懐かしい。今の教科書にも載っているそうですよ」
「わあ、頭の上をエイが泳いでます! すごく可愛い顔ですね」
「エイの顔に見える部分は、実際には鼻の穴だそうです。でも確かに、つられて笑いたくなるような顔に見えますね」
「えっ、うそ。貸切なのにイルカショーやってもらえるんですか!?」
「イルカの調子にもよるようですが、今日はやってもらえるみたいです。スタジアムも貸し切っておいて正解でした」
放射線状に広がるスタジアムに、ふたりぼっちのお客さん。ショーのお兄さんとイルカたちは、私たち二人のためだけに、めいっぱい声を張り上げて明るく楽しいショーを見せてくれた。
二人で大きな拍手を捧げ、私たちはそのまま奥へと進んだ。カーテンの降りた売店の先には、一回千円で色々なぬいぐるみが貰えるくじ引きコーナーがある。
私がちらちらと景品のワゴンを眺めていると、桂さんはスタッフさんを呼んで、特別にくじ引きの機械を動かしてくれた。追加でいくらかお金を払って、くじを何枚か引かせてもらって……大きなカワウソのぬいぐるみを抱きしめる子どもみたいな私を見つめ、桂さんはとても穏やかに、優しい顔で微笑んでくれた。
二人で多愛ない話をしながら、薄暗い館内をのんびり歩く。ふと足を止めると、いつの間にか四方の雰囲気がガラリと変わっていることに気がついた。
緩やかな弧を描くドーム型の天井と、そこにゆらめく薄青の光。
クラゲだ。様々な種類のクラゲがたゆたう水槽の周りを、雪を模した柔らかく綺麗なプロジェクションマッピングが彩っている。
「すごーい……」
大きな水槽の隅々を泳ぐ、幻想的なクラゲの群れ。
まるで異世界に迷い込んだかのようなその光景に、私は間抜けに口を開けながらただ呆然と立ち止まる。
とても綺麗で、気持ちよさそう。触れないのはわかっているけど、無意識のうちにガラスの方へと思わず手を伸ばしそうになる。
「昔、テレビでこの水族館を見たとき、すごく素敵だなって思ったんです」
クラゲを見上げながら話し出した私の、すぐ後ろで桂さんが足を止めた。
ガラスに彼の立ち姿が陽炎のように反射する。私はそのことにも気づかずに、無意識みたいに言葉を続ける。
「子どもの頃からこういう場所にずっと憧れがあったんです。でも、実家はとても貧乏だったから一度も連れて行ってもらえなくて。だから、成人してから彼に……当時まだ付き合っていた卓弥に、思い切ってお願いしたんです。一緒に行こうって」
「……はい」
「それで建物の前までは来たんですけど、入館料が思ったより高くって。『別に払えないわけじゃないけど、魚を見るのにこの金額はボッタクリ過ぎる』なんて言われて、結局外の海岸線を二人で歩いて帰ったんですよね。……海も海で綺麗だったし、確かにちょっと高いと思ったから、それもそうかな、なんて変に納得しちゃったんですけど」
深い藍色の水の中を、透明のクラゲが静かにたゆたう。
ゆるやかな流れに身を任せ、寄り添うように身体を揺らして……無心にゆらめくその姿を、私は静かに見つめている。
「でも今日、桂さんと一緒に水族館を歩いて、やっぱり私、本当はずっとここに来たかったんだと思いました。魚もクラゲもイルカショーも、何もかもが面白かったけれど、本当に欲しいのはそういうのじゃなくて……桂さんが私のために時間を使ってくださったのが、なにより一番嬉しかった」
そこで言葉を切り、私は満面の笑みで振り返った。
「きっと、今日のことは一生忘れないと思います」
ありがとうございます――と、心の底からの感謝を込めて、そう言ったつもりだったのだけど。
視界に映る桂さんの顔は、感謝をされる人のそれではなかった。息苦しそうに唇を噛んで、綺麗な眉は険しく寄って……まるで心が傷ついたみたいに、切なく歪む彼の瞳。
ああやだ私、何かおかしなことを言ったかな。途端に不安になる私の前へ、桂さんは足音も立てずにゆっくりと歩み寄る。
そして、背の高い彼の影が私の上へ覆いかぶさり、あっ、と思ったときには、私の身体は彼の両手にぎゅうと抱きすくめられていた。
首筋へかかるさらさらの髪。肌に伝わる熱い体温。
身体と身体の間にはカワウソのぬいぐるみが挟まれているのに、彼の心臓の鼓動の音が直接聞こえてくるみたい。……少しでも息を吸ったら鼻の奥で彼を感じてしまいそうで、私は自然と呼吸を止める。
「由希子さん」
かすれた声が耳にかかる。
堪えきれない熱い吐息が、溢れるように漏れ出るさまも。
「僕に全部言ってください。行きたいところも、やりたいことも」
「……か、桂さん」
「少しずつ叶えていきましょう。今まで望んでも得られなかったものを、ひとつひとつ埋めていきましょう。どんな小さなことでも構いません。夢物語の類でもいい」
抱きしめられた腕が解かれて、ゆっくりと離れる身体。
白い指先が髪に触れ、それからそっと頬をなぞる。
「僕は、貴女を幸せにしたい」
力強く――何かを夢中に求めるような、必死で、一途で、追い詰められた眼差しが、それしか見えないほど間近な距離で私を射抜く。
悠久の沈黙。たゆたうクラゲの淡い輝きに包まれたその中で、私たちはただ静かに見つめ合う。
縋るように。……あるいは、互いを支え合うように。
やがて、桂さんの長いまつ毛が、ゆっくりと頬に影を作った。薄い唇が呼吸にあわせ、ほんのかすかに隙間を開ける。
かすかに上下する喉仏。二人しかいない世界の中で、触れてはいけない唇が触れる――。
――どさっ、と。
ふいの物音は足元から響いた。左肩にかけていたはずの鞄が、私の靴のすぐ傍で息絶えたように寝転がっている。
沈黙の中にその音が響くと同時に、彼は雷に打たれたみたいにハッと目を開けた。そうしてから我に返ったみたく、私たちは見つめ合ったまま、互いの瞳に互いを映してそれぞれ二度瞬きをした。
ようやく羞恥を思い出した頬がゆるやかな桃色に染まっていく。どちらともなく身体を離し、彼はそっと鞄を持ちあげると、きまり悪そうに目を逸らしつつ両手で差し出してくれた。
「……どうぞ」
「あ、ありがとうございます……」
自分の心臓がばくばくうるさい。今更になって、顔から火が吹き出しそうだ。
今、私たちは……いったい何をしようとしたの?
「……すみません」
「いえ……」
なんともいえない気まずい空気が、クラゲの泳ぐ合間を漂う。私は彼の顔を直視できずにあちこち目を泳がせてしまうし、彼もまた水槽を見ながら唇を固く結ぶばかり。
ど、どうしよう。何か……何かこの雰囲気を打ち破る方法……そうだ!
「かっ、桂さん!」
無駄に大きな私の声に、彼がびくっと肩を震わせるのがわかった。
とはいえ私も後には退けない。自分の勢いに押されるように、私は小さくこぶしを握って彼の前へと進み出る。
「写真、撮りましょう!!」
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