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第八章 海と夕陽と私の写真
第二十七話
しおりを挟む豪華なお夕食をお部屋で頂き、桂さんは先にお風呂へ。ぎこちない空気をどうにかしたくて「お背中流しますか」とおどけて言ったら「あまりからかわないでください」なんて、ずいぶん真剣に叱られてしまった。
スカイくんと一緒にテレビを見ながら、ぽっこりお腹を少し休める。やがて出てきた桂さんと入れ替わりで露天風呂を使わせてもらい、私は肩までお湯に浸かりながら雲一つない夜空を見上げた。
大気の寒さとお湯の熱さが私の中で入り混じる。全身の疲れがどろどろに溶けて、身体の外へと流れていくみたい。
――僕、待ってます。
切ない声が頭の中で陽炎のようにリフレインする。
――……待ってますから……。
(離婚さえ成立したら、桂さんと一緒になれるはず)
じわりと胸の奥が熱くなり、私は肩までお湯にうずめる。今までずっと目を逸らしていた、戒めていた淡い想いが、長い日陰の時代を経て現実のものになろうとしている。
でも、絶対に離婚したい私と、再構築を望む卓弥。
何度となく繰り返された調停は依然として互いの意思のぶつけ合いばかり。当然だけど卓弥も私も譲歩する気は毛頭なくて、最近はもう調停員にも呆れられている始末だ。
人によっては話がこじれ、離婚に至るまで何年もかかるケースもあると聞く。あるいは長引く調停に疲弊して、すべてを諦めてしまうことも。
(絶対そんなことにはさせない。どんな手を使ってでも、早く卓弥に離婚届を提出してもらわないと)
月に卓弥の姿を重ねてひとり決意を固めていると、ふいに軽いめまいを覚えて私は急いでお風呂を出た。危ない危ない、ちょっと長風呂しすぎたかな。湯船につかると色々なことをつい考えてしまって困る。
タオルで手早く髪をまとめて、備え付けのパジャマに着替える。たっぷりじっくり保湿をしてから部屋の方へ戻ると、眠るスカイくんの傍らでその背を撫でる桂さんと目が合った。
当然だけど彼もまた、私と同じこのホテルが用意したパジャマに袖を通している。なんだかお揃いを着ているみたいで、気恥ずかしさから少しはにかむと、彼もまた同じことを思ったのか、困ったように微笑んで見せた。
「スカイくん、寝ちゃったんですね」
「はい。長旅で疲れていたみたいです。……」
桂さんは少し目を逸らし、それから緩慢に立ち上がる。私に背を向け冷蔵庫の方へと向かった彼は、ミネラルウォーターのペットボトルを開け、いつもと比べてやや豪快な仕草でぐいっと飲み干した。
「……明日も早いですし、僕らも寝ましょうか」
「あ、そうですね」
私は特に予定はないけど、桂さんは明日も朝から海へ潜るつもりでスケジュールを組んでいる。それに桂さんはたくさん泳いできっと疲れているだろうから、明日に備えて今日は早めに眠ってもらう方がいいはずだ。
急いで髪にドライヤーをかけて、二人並んで歯磨きをした。スマホをベッドボードに置いて、私たちは大きなベッドのそれぞれ左右で足を止める。
自分の心臓の音が、さっきから嫌に大きく聞こえる。別にこれから何かが起きるわけじゃない。ただ静かに眠るだけだと、頭ではわかっているのだけど。
「電気消しますね」
「……はい」
ぱちん、と音がして、部屋が一気に暗くなる。
薄橙の常夜灯だけがぼんやりと辺りを照らす中、視界の端から私ではない圧を受けて、ベッドの軋む音がした。
(……こらこら、由希子。冷静になりなさい)
僕が床で寝ます。いいえ私が床で。じゃあ僕はスカイのベッドで。スカイくん本気で迷惑そうですよ。
なんて、あまりにも無意味な押し問答を繰り返した結果、こうすることにした私たちだけど。
本当はまだ、少し戸惑ってる。……私だって大人の女だ。何も知らない子どもではない。
(桂さんは淡白そうだから、このくらい別に平気なのかな)
音を立てないようベッドに腰掛け、そうっと布団に潜り込む。
寝心地のいい姿勢を探るふりをして、ちらと右隣を伺ってみると、仰向けに横たわったまま目を閉じる彼の横顔が見えた。とても綺麗な、作り物みたいに美しい顔。でも、口元はきつく閉じられているし、眉間にはしわが寄っている。
ふいにその目が、緩やかに開いた。横目でこちらを向いた彼の、流れるような甘い眼差し。その奥に何か、どろどろと熱く溶けるようなものを感じて、私は我知らずつばを飲み込む。
「眠れますか?」
「あっ……ね、寝ます。寝るつもりです」
慌てる心を隠すみたいに早口で言う私に、桂さんはほんの少しだけ喉を鳴らして笑ったようだ。それから彼は身体を起こすと、少し手を伸ばして、浮いた布団の隙間を埋めるように私の肩口をそっと押した。
「もう一度お風呂に入ってきます。僕は眠れそうにないので」
「あ……はい」
いなくなっちゃうんだ、寂しいな。……なんて、心で漏れる私の本音。
私を見つめる桂さんの瞳が、緩やかな弧を描く。それから彼は布団を抑えた手をそのまま私の方へと伸ばし、ベッドに散らばる髪のひとふさを指先ですくいとる。
「この続きは、いずれまた」
熱っぽくとろけた声が霧散していくと同時に、彼の指から離れた髪が音もなく白いシーツへ広がる。
ぼっ、と沸騰したみたいに赤面する私を見て、桂さんはもう一度声を殺して笑うと「おやすみなさい」と静かに囁いてベッドルームを出ていった。
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