それでも僕らは夢を見る

雪静

文字の大きさ
27 / 46
第八章 海と夕陽と私の写真

第二十六話

しおりを挟む



 つかず離れずの距離で、手の甲同士がやわく擦れている。

 私と桂さんの間で、ゆるやかに通い合う淡い想い。言葉にするのを許されないそれは、言葉にしなくても私たちにはわかる。

 体温が0.5度くらい上がっているような気がする。何気なく隣を見上げれば、柔らかな彼の微笑と目が合って。

 この微笑みが私一人に向けられているだなんて、なんとまあ贅沢なことだろう。まるで心地よい夢の世界を漂っているみたいだ。

「チェックインを済ませてきますね」

 私とスカイくんをロビーに待たせて、桂さんはカウンターへ向かう。宿泊用の荷物は全部事前に郵送してあるから、今は私も桂さんもひどく身軽な格好だ。

 ロビーのふかふかのソファに腰かけて、スカイくんの顎を撫でながら彼が戻ってくるのを待つ。さすがペット歓迎のホテル、売店ではわんちゃんも食べられるお菓子をたくさん取り扱っているようだ。カウンター横には犬のぬいぐるみがこんもりと積み上げられていて、あまりにも露骨な犬好きアピールについ顔がほころんでしまう。

 辺りを見回しながら待っていると、胸元に犬のバッチを付けたホテルマンが私を迎えに来てくれた。「お部屋へご案内します」と言われ私とスカイくんが立ち上がると、カウンターにいた桂さんも怪訝な顔で戻ってくる。

「どうしたんですか、桂さん?」

「いえ……」

 桂さんは何か言いたそうにカウンターをちらちら眺めていたけど、にこやかに待つホテルマンに気づくと足早に私の隣へと戻った。

 お部屋は一階の一番奥。ペットと一緒に泊まれる中では一番グレードの高いお部屋らしく、犬を放せる専用のお庭や個室露天風呂までついているのだという。

「どうぞ、こちらです」

 ホテルマンに鍵を開けてもらい、まず桂さんが部屋へ入る。スカイくんの後ろから私も部屋を覗き込んだけど、想像以上に広くて綺麗で気後れするほど立派な部屋だ。

 まず目に入るのはぎょっとするほど大きなテレビとマッサージチェア。部屋のあちこちに凄そうな絵が堂々飾ってあって、窓の向こうには噂のお庭と露天風呂らしき仕切が見える。

 もちろん普通のシャワーもついているし、奥の部屋にはキングサイズのベッド。その傍らにはとても大きな犬用ベッドも用意されていて、身体の大きなスカイくんでもこれならばっちり眠れそうだ。

「わあ、広いお部屋ですね! 桂さんとスカイくんの二人だと有り余るくらい」

「…………」

 はしゃぐ私とは対照的に、桂さんは難しい顔で押し黙っている。そして彼はホテルマンを振り返ると、

「僕、確か二部屋予約しましたよね?」

 と、小さな声でぼそっと訊ねた。

「二部屋……? いえ、こちら一部屋のみと伺っておりますが」

「こちらとその隣の部屋と、二部屋借りたはずなんです。ここに僕とスカイが、隣には彼女が泊まって、食事だけこちらの部屋で一緒に頂くつもりだったのですが」

 顔をひきつらせたホテルマンが「すぐ確認します」と言って駆けていく。しばらくしてホテルマンとともに『支配人』と書かれた名札を付けた壮年の男性が現れ、

「申し訳ございません、やはり一部屋のご予約で承っているようですが……」

 と言って、桂さんとの電話のやり取りを書き起こしたメモを見せてくれた。

 今度は桂さんの方が頬を引きつらせる番だ。メモに目を通す彼の横顔が、みるみるうちに水から上がったばかりみたいにさーっと青ざめていく。

「……すみません」

 支配人とホテルマンがいなくなり、部屋に残された私たち。

 桂さんは青い顔のまま、錆びついたおもちゃみたいにぎこちなく私を振り返った。

「僕の説明が悪くて、一部屋しか取れていないみたいです……」

 風が吹くはずのない部屋の中に、冷たい空風が通り抜けた気がした。

 ええと……桂さんの口ぶりだと、もともと彼は私のために一部屋借りたつもりだったのだろう。それはまあ、当然のことだ。いくら一緒に暮らしているとはいえ、ひとつ屋根の下と同じお部屋はやっぱり少し意味合いが違う。

 でも、一体どういう手違いか、実際に予約できていたのはこの一部屋のみ。とんでもなく広いお部屋だから、ただ宿泊するという意味なら、二人でも三人でも余裕で過ごすことはできるだろう。

(でも……)

 大人が何人も横になれそうな、キングサイズのベッドを一瞥する。いくら広いお部屋といえど、人間の寝床はさすがにこのベッドだけ。

 視線をそのままゆっくり桂さんの方へスライドさせると、目が合った途端に彼は小動物みたく肩を跳ねさせた。わずかに色づく色白の頬が恥じ入るようにしゅんとうつむく。

「あの、僕、どこでもいいから空いている部屋を借りられないか聞いてきます」

「あっ、桂さん」

 私が呼び留めるのも虚しく、彼は小走りで部屋を出て行った。

 そして数分後、見るからに憔悴しきった顔で戻ってきた。それはもう、桂さんってこんなにしおしお、しょんぼりできるんだと思うほど。

「……ちょうど団体客が来ていて、今夜は全室埋まっているようです」

「そ、そうですか……」

 放っておくとこのまま桂さんがどんどん小さくなってしまいそうで、私はひとまず彼を座らせて備え付けのお茶を淹れた。桂さんの落ち込みようと言ったら、正直そこまで? と思うほどひどくて、膝の上に両手をつきながら何度もため息を吐いている。

「桂さん、あの」

「近くのホテルで部屋を取って、僕がそちらに移ります。この部屋は由希子さんが使ってください」

「いや、あの、待ってください、私」

「遠慮しないでください、僕が全部悪いので。スカイの世話を完全にお任せしてしまうのは申し訳ないと思いますが」

 早口でそう言いながら、虚ろな目でスマホを取り出す桂さん。

 私は慌ててスマホの画面を彼から見えないよう両手で隠すと、

「一緒にいたらだめですか?」

 と、今思うとあまりにも恥じらいのない、ド直球の提案を告げた。

 桂さんはひどく困惑した顔で、う、とかすかに喉を鳴らす。そして遅れて私の方もようやく言葉の意味を察して、

「あっ、違う、違うんです!」

 なんて、みっともなくわたわた慌て始める。

「私あの、床で! 床で寝ます! 今から部屋を探すの大変ですし、お金も余計にかかっちゃいますし!」

「いや、床はさすがに……」

「私なら全然大丈夫です、昔は床みたいなせんべい布団で寝てたんですから! もちろんその、桂さんが、同じお部屋はまだ早いっていうか、嫌だなって思われるならアレなんですけど……」

 言いながらだんだん語尾が小さくなる。真面目で誠実な桂さんのことだ。きちんとした段階を踏むまでは、お互い立場をわきまえているべきと考えているのかもしれない。

(不埒な女だと思われたらどうしよう)

 そういうつもりで言ったわけじゃないけど、今更になって嫌な汗が流れ出てくる。もちろん、一緒にいたいというのは……私の本音ではあるのだけど。

 もごもごと言い訳をしながら、桂さんの表情を伺う。彼は形の良い眉を寄せ、

「……嫌じゃないから、困っているんじゃないですか」

 と言って、うっすら頬を染めてうつむいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

辺境に追放されたガリガリ令嬢ですが、助けた男が第三王子だったので人生逆転しました。~実家は危機ですが、助ける義理もありません~

香木陽灯
恋愛
 「そんなに気に食わないなら、お前がこの家を出ていけ!」  実の父と妹に虐げられ、着の身着のままで辺境のボロ家に追放された伯爵令嬢カタリーナ。食べるものもなく、泥水のようなスープですすり、ガリガリに痩せ細った彼女が庭で拾ったのは、金色の瞳を持つ美しい男・ギルだった。  「……見知らぬ人間を招き入れるなんて、馬鹿なのか?」  「一人で食べるのは味気ないわ。手当てのお礼に一緒に食べてくれると嬉しいんだけど」  二人の奇妙な共同生活が始まる。ギルが獲ってくる肉を食べ、共に笑い、カタリーナは本来の瑞々しい美しさを取り戻していく。しかしカタリーナは知らなかった。彼が王位継承争いから身を隠していた最強の第三王子であることを――。 ※ふんわり設定です。 ※他サイトにも掲載中です。

完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました

らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。 そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。 しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような… 完結決定済み

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi(がっち)
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

俺と結婚してくれ〜若き御曹司の真実の愛

ラヴ KAZU
恋愛
村藤潤一郎 潤一郎は村藤コーポレーションの社長を就任したばかりの二十五歳。 大学卒業後、海外に留学した。 過去の恋愛にトラウマを抱えていた。 そんな時、気になる女性社員と巡り会う。 八神あやか 村藤コーポレーション社員の四十歳。 過去の恋愛にトラウマを抱えて、男性の言葉を信じられない。 恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。 そんな時、バッグを取られ、怪我をして潤一郎のマンションでお世話になる羽目に...... 八神あやかは元恋人に騙されて借金を払う生活を送っていた。そんな矢先あやかの勤める村藤コーポレーション社長村藤潤一郎と巡り会う。ある日あやかはバッグを取られ、怪我をする。あやかを放っておけない潤一郎は自分のマンションへ誘った。あやかは優しい潤一郎に惹かれて行くが、会社が倒産の危機にあり、合併先のお嬢さんと婚約すると知る。潤一郎はあやかへの愛を貫こうとするが、あやかは潤一郎の前から姿を消すのであった。

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

偉物騎士様の裏の顔~告白を断ったらムカつく程に執着されたので、徹底的に拒絶した結果~

甘寧
恋愛
「結婚を前提にお付き合いを─」 「全力でお断りします」 主人公であるティナは、園遊会と言う公の場で色気と魅了が服を着ていると言われるユリウスに告白される。 だが、それは罰ゲームで言わされていると言うことを知っているティナは即答で断りを入れた。 …それがよくなかった。プライドを傷けられたユリウスはティナに執着するようになる。そうティナは解釈していたが、ユリウスの本心は違う様で… 一方、ユリウスに関心を持たれたティナの事を面白くないと思う令嬢がいるのも必然。 令嬢達からの嫌がらせと、ユリウスの病的までの執着から逃げる日々だったが……

処理中です...