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第十章 二人の違い
第三十六話
しおりを挟むしんと静まり返った部屋に、私の鼓動が響いている。早鐘のように鳴り狂う、この小さな心臓の音が。
身体中で沸き立つ熱が顔に出てしまわないよう、私は少しうつむいたままシャツの裾をきゅっと握る。話は終わったとばかりに顔を逸らした桂さんが、迎えの車を確認するみたく手を伸ばしてカーテンを持ち上げた。……でも、そのとき。
「まさかとは思うけど、そこのおばさんのことじゃないよね?」
想像以上に落ち着いた声が、浮かれて緩む私の心を、悲鳴をあげる暇もないほど鋭く深く突き刺した。
雛乃さんの大きな瞳が、キッチンに立つ私の顔をまっすぐに睨みつける。その目の奥に確かな敵意と、溢れんばかりの憎悪を込めて。
「雛乃!」
「なんで怒るの? よく見てよ、ほら。こんなのどこにでもいるような、冴えない普通のおばさんじゃない」
「いい加減にしろ! 由希子さんに謝れ!」
「なんであたしが謝らなきゃいけないの!? 本当のことを言っただけなのに!!」
久方ぶりに聞いた言葉がぐさぐさと胸に突き刺さる。言われ慣れていることばかりのはずなのに、それはいつになく深く心をえぐり、しかも返しがついたみたいに抜こうとすると激痛が走る。
顔色を変えた桂さんが椅子を蹴って立ち上がっても、雛乃さんは平然としたものだ。彼女は軽く鼻を鳴らして、あくまでも強気に彼を睨み返す。
「考え直して、桂。この際政治家にならなくてもいい。写真を撮って生きていきたいなら、あたしがお金を全部出してあげる」
「雛乃」
「スタジオだって買ってあげるし、個展もたくさん開かせてあげる。おじいちゃんに頼んで大きな出版社を動かしてあげてもいい」
「やめろ、そういうのじゃないんだ」
「何が違うの? 桂は写真を撮れて幸せ、あたしは桂と結婚できて幸せ。これが一番賢くて、正しい選択だと思わない?」
ゆっくりと立ち上がった雛乃さんが、桂さんの頬へ手を伸ばす。
「家政婦なんかじゃできないことを、あたしは全部してあげられる」
桂。
彼女の薄い桃色の唇が、誘うように彼を呼ぶ。
上下する白い喉仏。見開かれたアーモンドアイ。
(やめて)
このままじゃ彼が気づいてしまう。淡い夢から醒めてしまう。
これ以上桂さんに、ほんとうのことを言わないで――!
そのときふいに朗々としたインターホンの音が鳴り響いた。雛乃さんは窓の外を一瞥し、それから小さくため息を吐く。
「あたし、また来るから。……絶対、諦めたりしないから」
彼女は微塵の気後れもない凛とした面持ちで身を起こし、私をちらと一瞥してから鋭い早足で去って行った。
桂さんは瞬きもせずに、彼女の華奢な背中を見つめる。扉の閉まる音がしてからようやくこちらを向いた彼は、薄い唇から掠れたような音をかすかに漏らしたものの、結局短な謝罪だけを告げてそれきり何も言わなかった。
*
待っている、と、彼は言った。
もっともっと、他にもたくさん。溢れるほどの想いとともに、私の心を温める言葉をくれた。
でも、それだけだ。
私が持っているものといえば、彼からの言葉しかない。彼と私が心の中でどれだけ深く想いあっていても、二人の関係につけられる名前は『雇い主とハウスキーパー』だけ。
私は彼の恋人ではない。ましてや配偶者でもない。むしろ私は法律上は、既婚者である榎本由希子。
私のことを好きと言ってくれた、彼の想いには応えられない。……そして心は、時とともに簡単に移りゆくものなんだ。
私は、焦っていた。
どうしようもなく焦っていた。
一向に進まない離婚調停。
突如現れた天谷雛乃。
このまま時が過ぎて行けば、彼の心が私の元から離れて行ってしまうのではないかと。……そして私より若く、何もかもを持っている彼女の元へと、ごく自然に、当たり前のように向かっていってしまうのではないかと。
彼がくれた言葉以外に何も持たない愚かな私は、結局のところ桂さんを信じることができなかったのだ。
身悶えするほどの苦しい焦燥。そしてそれは、私に途方もなく大きな失敗の道を選ばせることになる。
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