それでも僕らは夢を見る

雪静

文字の大きさ
37 / 46
第十章 二人の違い

第三十六話

しおりを挟む

 しんと静まり返った部屋に、私の鼓動が響いている。早鐘のように鳴り狂う、この小さな心臓の音が。

 身体中で沸き立つ熱が顔に出てしまわないよう、私は少しうつむいたままシャツの裾をきゅっと握る。話は終わったとばかりに顔を逸らした桂さんが、迎えの車を確認するみたく手を伸ばしてカーテンを持ち上げた。……でも、そのとき。

「まさかとは思うけど、そこのおばさんのことじゃないよね?」

 想像以上に落ち着いた声が、浮かれて緩む私の心を、悲鳴をあげる暇もないほど鋭く深く突き刺した。

 雛乃さんの大きな瞳が、キッチンに立つ私の顔をまっすぐに睨みつける。その目の奥に確かな敵意と、溢れんばかりの憎悪を込めて。

「雛乃!」

「なんで怒るの? よく見てよ、ほら。こんなのどこにでもいるような、冴えない普通のおばさんじゃない」

「いい加減にしろ! 由希子さんに謝れ!」

「なんであたしが謝らなきゃいけないの!? 本当のことを言っただけなのに!!」

 久方ぶりに聞いた言葉がぐさぐさと胸に突き刺さる。言われ慣れていることばかりのはずなのに、それはいつになく深く心をえぐり、しかも返しがついたみたいに抜こうとすると激痛が走る。

 顔色を変えた桂さんが椅子を蹴って立ち上がっても、雛乃さんは平然としたものだ。彼女は軽く鼻を鳴らして、あくまでも強気に彼を睨み返す。

「考え直して、桂。この際政治家にならなくてもいい。写真を撮って生きていきたいなら、あたしがお金を全部出してあげる」

「雛乃」

「スタジオだって買ってあげるし、個展もたくさん開かせてあげる。おじいちゃんに頼んで大きな出版社を動かしてあげてもいい」

「やめろ、そういうのじゃないんだ」

「何が違うの? 桂は写真を撮れて幸せ、あたしは桂と結婚できて幸せ。これが一番賢くて、正しい選択だと思わない?」

 ゆっくりと立ち上がった雛乃さんが、桂さんの頬へ手を伸ばす。

「家政婦なんかじゃできないことを、あたしは全部してあげられる」

 桂。

 彼女の薄い桃色の唇が、誘うように彼を呼ぶ。

 上下する白い喉仏。見開かれたアーモンドアイ。

(やめて)

 このままじゃ彼が気づいてしまう。淡い夢から醒めてしまう。



 これ以上桂さんに、ほんとうのことを言わないで――!



 そのときふいに朗々としたインターホンの音が鳴り響いた。雛乃さんは窓の外を一瞥し、それから小さくため息を吐く。

「あたし、また来るから。……絶対、諦めたりしないから」

 彼女は微塵の気後れもない凛とした面持ちで身を起こし、私をちらと一瞥してから鋭い早足で去って行った。

 桂さんは瞬きもせずに、彼女の華奢な背中を見つめる。扉の閉まる音がしてからようやくこちらを向いた彼は、薄い唇から掠れたような音をかすかに漏らしたものの、結局短な謝罪だけを告げてそれきり何も言わなかった。







 待っている、と、彼は言った。

 もっともっと、他にもたくさん。溢れるほどの想いとともに、私の心を温める言葉をくれた。

 でも、

 私が持っているものといえば、彼からの言葉しかない。彼と私が心の中でどれだけ深く想いあっていても、二人の関係につけられる名前は『雇い主とハウスキーパー』だけ。

 私は彼の恋人ではない。ましてや配偶者でもない。むしろ私は法律上は、既婚者である榎本由希子。

 私のことを好きと言ってくれた、彼の想いには応えられない。……そして心は、時とともに簡単に移りゆくものなんだ。

 私は、焦っていた。

 どうしようもなく焦っていた。

 一向に進まない離婚調停。

 突如現れた天谷雛乃。

 このまま時が過ぎて行けば、彼の心が私の元から離れて行ってしまうのではないかと。……そして私より若く、何もかもを持っている彼女の元へと、ごく自然に、当たり前のように向かっていってしまうのではないかと。

 彼がくれた言葉以外に何も持たない愚かな私は、結局のところ桂さんを信じることができなかったのだ。

 身悶えするほどの苦しい焦燥。そしてそれは、私に途方もなく大きな失敗の道を選ばせることになる。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を

澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。 そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。 だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。 そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー

i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆ 最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡ バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。 数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)

公爵様のバッドエンドを回避したいだけだったのに、なぜか溺愛されています

六花心碧
恋愛
お気に入り小説の世界で名前すら出てこないモブキャラに転生してしまった! 『推しのバッドエンドを阻止したい』 そう思っただけなのに、悪女からは脅されるし、小説の展開はどんどん変わっていっちゃうし……。 推しキャラである公爵様の反逆を防いで、見事バッドエンドを回避できるのか……?! ゆるくて、甘くて、ふわっとした溺愛ストーリーです➴⡱ ◇2025.3 日間・週間1位いただきました!HOTランキングは最高3位いただきました!  皆様のおかげです、本当にありがとうございました(ˊᗜˋ*) (外部URLで登録していたものを改めて登録しました! ◇他サイト様でも公開中です)

処理中です...