それでも僕らは夢を見る

雪静

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第十章 二人の違い

第三十五話

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 両手にエコバッグを携え、歩き慣れた家への道を行く。

 この頃の桂さんは、スーパーへ買い物に行くときは出来る限り荷物持ちを買って出てくれる。こういうときは男の出番でしょうなんて雇い主の台詞じゃないだろうに、まったくこれだから『人を誤解させる天才』は……なんて、前はよく思ったものだった。

(何も言わずに一人で買い物に行ったことを、桂さんは怒るだろうか)

 次は必ず呼んでくださいね、くらいは言われるかもしれない。でも、編集者さんと楽しく話すのを邪魔したくはないし、今の私の立場を考えればこれが正しい選択のような気がする。

 重い荷物を携えながらとぼとぼと一人帰路を歩き、ようやく家が見えてきた頃、歩道に伸びた自分の影の先に細身の女性の足が見えた。はじめは横を向いていたその足先が、緩やかに私の方へと向けられ、それからようやく私はゆっくりとその人の方へ顔を上げる。

 厚手の黒いストッキングと、薄ピンクの上品なワンピース。胸までのロングヘアをただ無造作に下ろしているだけなのに、不思議と美しくまとまって見えるのは髪そのものに艶があるからだろう。

 忘れようとしていた記憶が瞬くように脳へ蘇る。天谷雛乃。……彼女の特徴とも言うべき強気に満ちた大きな瞳が、勢いよく放たれた矢のように一直線に私を射抜く。

 そして彼女は私が両手に持つエコバックをちらと見ると、

「桂いる?」

 と、遠慮のない声で訊ねた。

「……いらっしゃいます」

「そう。じゃあ開けて」

 何も持たない両手で腕を組み、彼女は扉を顎で指す。

 ぐっ、と私は唇を噛みしめ、何食わぬ顔で扉に近づきながら、

「桂さんの許可もなしに、お招きすることはできません」

 できるだけ声が震えないよう、息を吐きながらゆっくりと言った。

 彼女は露骨に眉を上げ、忌々しげに唇を歪ませる。舌打ちが出てこなかったのは、たぶん育ちの良さのせいだろう。

「あたしが誰だかわかってる? なんでもいいからさっさと開けて」

「わかっています。でも、私の判断で決めることはできません。確認しますからお待ちください」

 彼女の横を素通りして扉を開けようと手を伸ばす。すると、彼女はキッと目尻を吊り上げ、私の肩を乱暴に掴み、

「家政婦の分際で、あたしのこと馬鹿にしてるの?」

 怒声というにはあまりにも綺麗な声で、そう言った。

 さすがに騒ぎが聞こえたのだろう、扉が内側から開いて桂さんが顔を出した。雛乃さんはさっきまでの怒りが嘘みたいな笑顔を浮かべ「桂!」と彼の元へ軽やかな足取りで駆け寄る。

「……どうして来たんだ」

「だって、全然連絡くれないんだもの」

「今の住所は教えていないはずだけど」

「うちのホテルのプール使ってるでしょ? 会員情報見せてもらったの」

「わかった、明日解約しておく。で、用件は?」

「そんなの、会いに来たに決まってるじゃない。家に入れてよ。あたしもう寒くって」

 笑いながら玄関へ入ろうとした彼女の身体を、桂さんはごく自然に、無理のない仕草で押しのけた。

 目を見張る雛乃さんを無視する形で彼は私へ向き直り、

「すみません、持ちますね」

 と、両手のエコバックを取り上げる。

「ちょっと、桂!」

「悪いけど中には入れられない。すぐお前の家の人を呼ぶから」

「どうしてそうなるの!? 久しぶりに会えたのに! 手紙の返事だって全然くれないし、あたしずっと心配してたんだよ!?」

 玄関口で騒ぐ彼女の姿を、道行く人が怪訝な目で眺める。男と女が言い争う姿に好奇心をそそられたのか、何かを期待するようにほくそ笑む人々を軽く睨んで、

「……迎えが来るまでだ」

 と、桂さんは肘で扉を押し開く。

 上機嫌で玄関に上がる雛乃さんが通り過ぎ、私と桂さんは自然と顔を見合わせる。彼は複雑そうに唇を噛み、それから眉間にしわを刻むと、

「……ちゃんと言い聞かせて、すぐに帰らせますから」

 と、緊張を押し隠すような重苦しい声で言った。




 リビングが狭い、とか。

 このキッチンで料理ができるの? とか。

 あまりにも失礼な言葉を次々と口走りながら、雛乃さんのその表情は純粋な驚きに満ちているように思う。悪意があるわけではない。ただ、生きる世界が違うだけ。……はじめて庶民の生活を見た令嬢のようにきょろきょろしながら、雛乃さんは呆れた眼差しで桂さんの背にしだれかかる。

「ねえ、本当にここに住んでるの? 別邸じゃなくて?」

「ここに住んでる。失礼なことを言うな。前の家の広さが異常だったんだよ」

「あたしはあの家好きだったけどなぁ。お父様の仏壇は? ちゃんとご挨拶しておかないと」

「いや、いい。二階に上がるな。そこに座って、僕の話を聞きなさい」

 雛乃さんはダイニングチェアに軽く腰掛け、開きっぱなしのノートパソコンを自分のものみたいにカチカチいじる。

 桂さんはどこかへ手短に電話をかけてから、雛乃さんの手を除けてパソコンを乱暴に閉じた。むっ、と唇をとがらせ、雛乃さんが桂さんを睨む。

「なんでそんなに冷たいの? 機嫌悪いの?」

「そうじゃない。個人的に撮った写真を他人に見られるのは嫌なんだ」

「別にいいじゃん、あたしたちの仲なんだし。……でも、桂って写真なんか撮る人だったっけ? 新しい趣味?」

 雛乃さんの指先が、当然のように馴れ馴れしく桂さんの手へ触れようとする。

 彼はそれを軽く払いのけ、

「僕は、写真を仕事にしていきたいと思っている」

 と、突き放すように力強く言った。

 雛乃さんの綺麗な顔から、すぅっと笑みが薄らいでいく。飲み込まれそうなほどの目線を真っ向から受け止めて、桂さんは奥歯を噛むように薄い唇を引き締める。

「……冗談でしょ? あたしとの婚約は? お父様の後を継いで、政治家になるんじゃなかったの?」

「父は死に、僕らの婚約もとうの昔に破棄された。僕は今、やってみたいことがようやく見つかったところなんだ」

「何言ってるの? そんなの……嘘だよ。だって、身体の具合はもうよくなったんでしょ? だったらもう仕事もできるし、結婚していいっておじいちゃんが」

「お前はそのつもりかもしれないけど、僕はもう政治家になる気はない。悪いけど、会長にもそう伝えてくれ」

 言葉の意味が理解できない幼児のようなあどけなさで、雛乃さんは大きな瞳を何度も瞬きさせている。

 やがて彼女は目の周りの筋肉をぶるぶると震わせ、

「……あたし、桂と結婚できないの?」

 と、蚊の哭くような細い声で言った。

「ああ」

 桂さんの返事は、残酷なほど端的だった。

「他に結婚したい人がいる」
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