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第2話
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セレネは香りを確かめるようにカップを傾け、上品な仕草で一口飲んだ。その様子を見ながら、俺も自分のカップに触れようとした。
「……っ、ぁ……げほっ……!」
セレネの肩がびくりと跳ねた。扇を持つ手から力が抜け、指先が震える。激しくせき込んだかと思えば次の瞬間、カップが手から滑り落ちた。
ガシャーン。
陶器が床に当たって甲高い音を立てながら割れる。
急な出来事に頭が真っ白になった。
「セレネ!?」
ルシアンが即座に席を立つ。
護衛や侍従たちも一斉に動き出し、部屋の空気が一気に騒がしくなる。
セレネは胸元を押さえ、苦しげに喉を鳴らして咳き込んでいる。その口からは血が吐き出され、ドレスを汚していく。
「毒か!?」「紅茶に毒が──!」
誰かの声が響く。その言葉と同時に、数人の視線がこちらへ向いた。
当然だ。茶を淹れたのは俺。茶葉も俺が持参した。言い訳など、この場では意味を持たない。
俺以外に嫌疑をかけるとするならカップを用意したルシアン、もしくはセレネの自作自演。
(……あぁ、やられた)
真っ白になった頭は、すぐに動き出した。
理解は一瞬で終わる。驚きも憤りもなく、ただ事実だけが残る。
セレネはテーブルから崩れ落ちそうになり、ルシアンが支える。彼の袖にも血が滲んだ。
「医師を呼べ! はやく!」
ルシアンの声が響き、部屋の外へ駆ける足音が重なる。
俺は立ち上がることも声を上げることもできず、その場にただじっと座っていた。
(あぁ、終わりか……)
俺の人生はいつもこうだった。
今でも覚えている。
母が死んだ日の寒さを。
すり切れた手で残飯を漁った日を。
それでもまだマシだった。侯爵の馬車が現れるまでは。
俺は、死んだ娘に似ていたというだけで拾われた。豪奢な屋敷に連れて来られた時は、天国に来たのだと思った。肌ざわりの良い服に寝具、暖かい食事。
しかしすぐに理解することになった。「娘の代わり」ができない俺は、無価値な人間であるということを。
リリアンヌとして振る舞えなければ、体罰が待っていた。教育係には食器の持ち方ひとつで鞭を打たれ、父には「リリアンヌらしくない」と倉庫に閉じ込められた。兄弟たちは、妹の代わりとして振る舞う俺を敵視し、髪を切り、服を汚し、階段から突き落とした。父に相談すれば、「兄弟に好かれないのはリリアンヌらしくない」と折檻された。
一番つらかったのは、10歳のとき。
早ければ声変わりというのは、11歳から始まってしまう。それに、もともと女性に陰茎はついていないものだ。
10歳の春。俺の身体の一部分が切り落とされた。リリアンヌには、必要のないものとして。
声変わりは来ず、体毛も薄く、体型も女性に近づいた。デビュタントを終え、ますます世間には侯爵令嬢として認知されていった。
それでも、俺は男だ。
だから怖かった。当時すでに婚約していた皇太子ルシアンに告白されたときは。
距離が近づけば近づくほど、秘密がバレるリスクは高まる。バレないように失望されないように、距離を置いて嫌われるように振る舞った。
俺は嘘しかつけない。
世間も王家も婚約者も、ずっと騙してきた。ずっとずっと。
それでも父だけは、真実を知っていても俺を愛してくれた。リリアンヌとして振る舞う限り、優しく頭を撫でてくれた。甘やかしてくれた。
……父に認めてもらいたかった。
そんな父も二年前、侯爵の座から降りた。
今の当主は兄。もはや庇護など望めない。いや望んでもいない。
だれも俺を助けに来ない。
母が死んだあの日から、それは変わらない。
ここで捕まれば死ねるというのは、案外いいことなのかもしれない。俺みたいな人間はここで死んだ方がいいんだ。俺みたいな邪悪に染まり切った人間は。
そう思った瞬間、不意に肩を掴まれた。
視線を上げると、ルシアンがありえないほど真剣な顔で俺を覗き込んでいる。
「……リリアンヌ、大丈夫か!?」
その声に、思考が一瞬だけ止まった。
(この男はどうして俺の方に来てるんだ!?)
毒を盛った疑いが最も濃いのは俺だというのに、庇うふりでも同情でもなく、本気で案じているような声音だった。呆然とする俺を見て、騎士を制しながら俺の手を優しく掴む。
「顔色が悪い。立てるか?」
どう反応すればいいのか分からず、口を開くこともできない。困惑する。
――なにがなんだかわからない。なぜ俺なんかを気にかける。
無言でいると、ルシアンが俺を支えて立ち上がらせる。
その時、ルシアンが耳元で小さく囁いた。
「……大丈夫だ。どうにかするから」
そのタイミングで、扉の外から近衛騎士たちが駆け込んでくる。
「殿下、リリアンヌ様を連行いたします」
「わかった」
ルシアンは、俺が一人で立てることを確認すると離れていった。
「……っ、ぁ……げほっ……!」
セレネの肩がびくりと跳ねた。扇を持つ手から力が抜け、指先が震える。激しくせき込んだかと思えば次の瞬間、カップが手から滑り落ちた。
ガシャーン。
陶器が床に当たって甲高い音を立てながら割れる。
急な出来事に頭が真っ白になった。
「セレネ!?」
ルシアンが即座に席を立つ。
護衛や侍従たちも一斉に動き出し、部屋の空気が一気に騒がしくなる。
セレネは胸元を押さえ、苦しげに喉を鳴らして咳き込んでいる。その口からは血が吐き出され、ドレスを汚していく。
「毒か!?」「紅茶に毒が──!」
誰かの声が響く。その言葉と同時に、数人の視線がこちらへ向いた。
当然だ。茶を淹れたのは俺。茶葉も俺が持参した。言い訳など、この場では意味を持たない。
俺以外に嫌疑をかけるとするならカップを用意したルシアン、もしくはセレネの自作自演。
(……あぁ、やられた)
真っ白になった頭は、すぐに動き出した。
理解は一瞬で終わる。驚きも憤りもなく、ただ事実だけが残る。
セレネはテーブルから崩れ落ちそうになり、ルシアンが支える。彼の袖にも血が滲んだ。
「医師を呼べ! はやく!」
ルシアンの声が響き、部屋の外へ駆ける足音が重なる。
俺は立ち上がることも声を上げることもできず、その場にただじっと座っていた。
(あぁ、終わりか……)
俺の人生はいつもこうだった。
今でも覚えている。
母が死んだ日の寒さを。
すり切れた手で残飯を漁った日を。
それでもまだマシだった。侯爵の馬車が現れるまでは。
俺は、死んだ娘に似ていたというだけで拾われた。豪奢な屋敷に連れて来られた時は、天国に来たのだと思った。肌ざわりの良い服に寝具、暖かい食事。
しかしすぐに理解することになった。「娘の代わり」ができない俺は、無価値な人間であるということを。
リリアンヌとして振る舞えなければ、体罰が待っていた。教育係には食器の持ち方ひとつで鞭を打たれ、父には「リリアンヌらしくない」と倉庫に閉じ込められた。兄弟たちは、妹の代わりとして振る舞う俺を敵視し、髪を切り、服を汚し、階段から突き落とした。父に相談すれば、「兄弟に好かれないのはリリアンヌらしくない」と折檻された。
一番つらかったのは、10歳のとき。
早ければ声変わりというのは、11歳から始まってしまう。それに、もともと女性に陰茎はついていないものだ。
10歳の春。俺の身体の一部分が切り落とされた。リリアンヌには、必要のないものとして。
声変わりは来ず、体毛も薄く、体型も女性に近づいた。デビュタントを終え、ますます世間には侯爵令嬢として認知されていった。
それでも、俺は男だ。
だから怖かった。当時すでに婚約していた皇太子ルシアンに告白されたときは。
距離が近づけば近づくほど、秘密がバレるリスクは高まる。バレないように失望されないように、距離を置いて嫌われるように振る舞った。
俺は嘘しかつけない。
世間も王家も婚約者も、ずっと騙してきた。ずっとずっと。
それでも父だけは、真実を知っていても俺を愛してくれた。リリアンヌとして振る舞う限り、優しく頭を撫でてくれた。甘やかしてくれた。
……父に認めてもらいたかった。
そんな父も二年前、侯爵の座から降りた。
今の当主は兄。もはや庇護など望めない。いや望んでもいない。
だれも俺を助けに来ない。
母が死んだあの日から、それは変わらない。
ここで捕まれば死ねるというのは、案外いいことなのかもしれない。俺みたいな人間はここで死んだ方がいいんだ。俺みたいな邪悪に染まり切った人間は。
そう思った瞬間、不意に肩を掴まれた。
視線を上げると、ルシアンがありえないほど真剣な顔で俺を覗き込んでいる。
「……リリアンヌ、大丈夫か!?」
その声に、思考が一瞬だけ止まった。
(この男はどうして俺の方に来てるんだ!?)
毒を盛った疑いが最も濃いのは俺だというのに、庇うふりでも同情でもなく、本気で案じているような声音だった。呆然とする俺を見て、騎士を制しながら俺の手を優しく掴む。
「顔色が悪い。立てるか?」
どう反応すればいいのか分からず、口を開くこともできない。困惑する。
――なにがなんだかわからない。なぜ俺なんかを気にかける。
無言でいると、ルシアンが俺を支えて立ち上がらせる。
その時、ルシアンが耳元で小さく囁いた。
「……大丈夫だ。どうにかするから」
そのタイミングで、扉の外から近衛騎士たちが駆け込んでくる。
「殿下、リリアンヌ様を連行いたします」
「わかった」
ルシアンは、俺が一人で立てることを確認すると離れていった。
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