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第10話 夕暮れ
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結局、桐山は冷房を付けて涼む暇もなく夕方までバタバタとしていた。あれがない、これがないという学生に振り回され、物品を探し出す。さらに軽く掃除しなければならないという深瀬の指揮に従い、学生たちと一緒に掃除をしているうちに、いつの間にか夕方になっていたのだ。
久々に家の中に人が生活するというだけで、これだけ大変なものだとは思わなかった。運転で疲れ、家の掃除で疲れと、普段はパソコンの前で頭を使うだけの生活をしている桐山には、ぐったりとさせるのに十分な疲労が襲い掛かる。
「疲れた」
夕食の支度と風呂の支度は学生たちが受け持ってくれることになり、桐山はようやく休憩できることになり、夕暮れの庭を眺めながら、縁側でだらりと寝転がっている。
もうここから動きたくない。そんな気持ちだ。山から吹いてくる風が、都会とは違って涼しいのが気持ちいい。確かにエアコンを急いで付けなければならいほどの気温ではなかった。
「掃除って体力使うんだな。ああ、すでに腰が痛いなあ。明日、変なところが筋肉痛になっていそうだ」
そうぼやいていると、ぬっと深瀬が顔を覗き込んできた。これは文句があるようだ。そう察したものの、桐山は面倒でごろごろと転がって距離を取る。
「先生、猫じゃないんですから転がって移動しないでください。でも、先生も頑張ってくれたおかげで、家はピカピカになりましたよ。これで三日間、ゆっくり片付けが出来ますね。お布団も干せましたから、寝る時も快適ですよ」
「そ、そうだな」
文句はなかったようだが、先ほどまで実施されていた本格的な掃除を思い出すと、深瀬を連れてきたのは正解なのかそうではないのか。桐山は解らなくなりつつも、差し出されたキンキンに冷えたコーラを受け取ると、有り難く飲み干す。
「はあ、生き返る」
「ここでビールじゃないところが、先生らしいですよね」
「そうか」
「ええ」
深瀬も縁側に座りながら、桐山と同じように庭を眺める。夕暮れの空を眺めるなんて、一体いつ振りだろう。随分と空なんて見上げていなかったな、ということに気づかされる。
「赤色の波長の長さに気づく瞬間だな」
「いきなり情緒をぶち壊さないでください」
しかし、暮れなずむ空を眺めて桐山が呟く言葉には、全く情緒がない。おかげで深瀬は速攻でツッコミを入れる羽目になる。
「情緒ねえ。それよりも俺、夕暮れって嫌いなんだよねえ」
「えっ。それって物悲しくなるからですか」
「いや、はっきりしろって思うんだよね。この曖昧さが、なんか許せない。この時間をどう考えればいいのか、定義が難し過ぎる。しかもこの後暗くなると思うと、人間の本能のせいなのか、動きが鈍くなるというのも腹が立つ」
「もう」
普段と違う場所で、今は物理学の話題もしていないというのに、なんとも素っ気ない会話だ。そして相変わらずずれたことを言っている。そんな桐山に、深瀬は思わず頬を膨らませてしまった。
朝の車での会話を引きずっているわけではなかったが、やっぱり、この男と仕事以外の関係になることはなさそうだ。それを再度確信していた。何か話題を振っても、こうずれた答えが返ってくるとなると、毎日顔を合わせていたらイライラしそうだ。
「ああ、あと、小さい頃は塾に行く時間か、って思っていたなあ。また勉強しなきゃって、ちょっとだけ嫌になる瞬間だ」
ふと、桐山はコーラの入っていたグラスを見て呟く。それに深瀬は溜め息を吐くと
「それは多くの人が体験してますね」
小さい頃に同じことを考えていたと頷くしかない。普通の人とずれていない部分もあるのだが、やっぱり違う。
それから桐山の整った横顔を見て、黙っていればねえと、そんなことを思う。柏木の言う通り、見た目やその他は理想的なのだ。しかし、桐山と仕事以外の時間を共有したいとは思わない。結局、性格が問題だ。桐山とはあり得ないと思うのは、共有できる感覚が違うことにあると気づく。
「先生。風呂、湧きましたよ。一番風呂、どうぞ」
そこにバタバタと小島が呼びに来て、夕暮れに物思いをする時間もあっさりと終わってしまった。
「じゃあ、先に入らせてもらうよ。晩御飯は何になったんだ」
三日分の食料を持ち込んでいるわけだが、それをいつどう使うかまで予め決めていたわけではなかった。そこで、どれを一日目の夕食にするかで学生たちが揉めていたのだ。
「妥当にカレーになりました。明日以降が本番なんだから、焼き肉は明日にって押し切られちゃいましたよ。で、意外にも荒井さんが作ってますよ」
「意外なのか」
「ええ。俺の中で、あの人が自炊しているイメージがなかったですからね。しかも柏木さんより包丁の扱いが上手いんだから、びっくりですよ。人の特技って見た目じゃ解らないものですねえ」
「へえ。って、別に女子だから上手いってこともないだろう。柏木が下手だったとしても仕方ないよ」
「そうですけどねえ。でも、男子に負けてるってどうなんでしょう。俺、そんなに感覚古いですかね」
どう思うと、そこで小島は深瀬を見てくる。深瀬はというと、桐山の男女同権意識が強いことに驚かされていた。しかし、ここにいると忘れそうになるが、桐山は世界的にも注目されている研究者だ。そういう意識は一般的な日本人よりもしっかりしているということだろう。
「小島君はどうなのよ」
と、深瀬は自分の思考がまた朝の話題に引っ張られていると気づき、小島に料理は出来るのかと質問を投げかけた。すると小島はにやりと笑い
「口に入ってしまえば、何でも一緒です」
と答えになっていないことを言ってくれる。ここに逃げてきたことで解るように、彼はさっぱり料理が出来ないようだった。
久々に家の中に人が生活するというだけで、これだけ大変なものだとは思わなかった。運転で疲れ、家の掃除で疲れと、普段はパソコンの前で頭を使うだけの生活をしている桐山には、ぐったりとさせるのに十分な疲労が襲い掛かる。
「疲れた」
夕食の支度と風呂の支度は学生たちが受け持ってくれることになり、桐山はようやく休憩できることになり、夕暮れの庭を眺めながら、縁側でだらりと寝転がっている。
もうここから動きたくない。そんな気持ちだ。山から吹いてくる風が、都会とは違って涼しいのが気持ちいい。確かにエアコンを急いで付けなければならいほどの気温ではなかった。
「掃除って体力使うんだな。ああ、すでに腰が痛いなあ。明日、変なところが筋肉痛になっていそうだ」
そうぼやいていると、ぬっと深瀬が顔を覗き込んできた。これは文句があるようだ。そう察したものの、桐山は面倒でごろごろと転がって距離を取る。
「先生、猫じゃないんですから転がって移動しないでください。でも、先生も頑張ってくれたおかげで、家はピカピカになりましたよ。これで三日間、ゆっくり片付けが出来ますね。お布団も干せましたから、寝る時も快適ですよ」
「そ、そうだな」
文句はなかったようだが、先ほどまで実施されていた本格的な掃除を思い出すと、深瀬を連れてきたのは正解なのかそうではないのか。桐山は解らなくなりつつも、差し出されたキンキンに冷えたコーラを受け取ると、有り難く飲み干す。
「はあ、生き返る」
「ここでビールじゃないところが、先生らしいですよね」
「そうか」
「ええ」
深瀬も縁側に座りながら、桐山と同じように庭を眺める。夕暮れの空を眺めるなんて、一体いつ振りだろう。随分と空なんて見上げていなかったな、ということに気づかされる。
「赤色の波長の長さに気づく瞬間だな」
「いきなり情緒をぶち壊さないでください」
しかし、暮れなずむ空を眺めて桐山が呟く言葉には、全く情緒がない。おかげで深瀬は速攻でツッコミを入れる羽目になる。
「情緒ねえ。それよりも俺、夕暮れって嫌いなんだよねえ」
「えっ。それって物悲しくなるからですか」
「いや、はっきりしろって思うんだよね。この曖昧さが、なんか許せない。この時間をどう考えればいいのか、定義が難し過ぎる。しかもこの後暗くなると思うと、人間の本能のせいなのか、動きが鈍くなるというのも腹が立つ」
「もう」
普段と違う場所で、今は物理学の話題もしていないというのに、なんとも素っ気ない会話だ。そして相変わらずずれたことを言っている。そんな桐山に、深瀬は思わず頬を膨らませてしまった。
朝の車での会話を引きずっているわけではなかったが、やっぱり、この男と仕事以外の関係になることはなさそうだ。それを再度確信していた。何か話題を振っても、こうずれた答えが返ってくるとなると、毎日顔を合わせていたらイライラしそうだ。
「ああ、あと、小さい頃は塾に行く時間か、って思っていたなあ。また勉強しなきゃって、ちょっとだけ嫌になる瞬間だ」
ふと、桐山はコーラの入っていたグラスを見て呟く。それに深瀬は溜め息を吐くと
「それは多くの人が体験してますね」
小さい頃に同じことを考えていたと頷くしかない。普通の人とずれていない部分もあるのだが、やっぱり違う。
それから桐山の整った横顔を見て、黙っていればねえと、そんなことを思う。柏木の言う通り、見た目やその他は理想的なのだ。しかし、桐山と仕事以外の時間を共有したいとは思わない。結局、性格が問題だ。桐山とはあり得ないと思うのは、共有できる感覚が違うことにあると気づく。
「先生。風呂、湧きましたよ。一番風呂、どうぞ」
そこにバタバタと小島が呼びに来て、夕暮れに物思いをする時間もあっさりと終わってしまった。
「じゃあ、先に入らせてもらうよ。晩御飯は何になったんだ」
三日分の食料を持ち込んでいるわけだが、それをいつどう使うかまで予め決めていたわけではなかった。そこで、どれを一日目の夕食にするかで学生たちが揉めていたのだ。
「妥当にカレーになりました。明日以降が本番なんだから、焼き肉は明日にって押し切られちゃいましたよ。で、意外にも荒井さんが作ってますよ」
「意外なのか」
「ええ。俺の中で、あの人が自炊しているイメージがなかったですからね。しかも柏木さんより包丁の扱いが上手いんだから、びっくりですよ。人の特技って見た目じゃ解らないものですねえ」
「へえ。って、別に女子だから上手いってこともないだろう。柏木が下手だったとしても仕方ないよ」
「そうですけどねえ。でも、男子に負けてるってどうなんでしょう。俺、そんなに感覚古いですかね」
どう思うと、そこで小島は深瀬を見てくる。深瀬はというと、桐山の男女同権意識が強いことに驚かされていた。しかし、ここにいると忘れそうになるが、桐山は世界的にも注目されている研究者だ。そういう意識は一般的な日本人よりもしっかりしているということだろう。
「小島君はどうなのよ」
と、深瀬は自分の思考がまた朝の話題に引っ張られていると気づき、小島に料理は出来るのかと質問を投げかけた。すると小島はにやりと笑い
「口に入ってしまえば、何でも一緒です」
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