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春の洗礼を受けて僕は
1話 木曜日1
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外はまだ暗い。
廊下の窓を開けると、桜の花びらがひとひら、洗面所に入ってきた。
洗面所では、ドラム式洗濯機が静かに稼働している。
寝間着とパンツが力なく振り回されているのを、木之内睦月は死んだ魚のような目で見続けていた。
「はぁーーー………」
信じられない。本当に信じられない。
気分よく寝てた気がするが、具体的に良かった訳ではない。夢の内容だって覚えていない。
急に飛び起きたら。
「あぁーーー………」
床にしゃがみ込む。
母が出張中でよかった。
夢精の後片付けを見られるのも察せられるのも、軽口を言われるのも黙られるのも、想像するだに地獄だ。
心の整理がつかないまま、頭をガシガシと掻く。すべての照明スイッチを押して、リビングを煌々と照らしてからキッチンに入った。
高校1年の1学期が始まって、まだ一月も経っていない。
馴染まない教室では、一部のクラスメイトがテンション高く自分の居場所を探り合っている。
が、そんな活動は自分には関係のないことで、今日も入り口でハヨと挨拶だけして、自席にどんと座った。
「夏伊、オハヨー」
席に来たのは、幼稚舎からの付き合いの、山東弘揮だ。
香月夏伊は、友人に顔を向ける。
「オハヨ」
「昨日の配信見た?」
「ヒロが言ってた奴? すげー笑ったんだけど」
ヒロと呼ばれた男子が、ニッと笑う。
「だろ? 夏伊もハマったろ?」
「ん。たまにはいいの見つけてくんじゃん」
「ちょっとー、ずいぶんと低評価だね?」
ヒロがハハハハ!と大口を開けて笑ったところで、
「…ん?」
「…あれ?」
「なんか……すごく……」
いい香りがするとヒロがつぶやく。いや、もっと不思議な…?
周りの友人が、いやクラス全体が、水を打ったように静まり返った。
だんだんと、空間が変化する。
爽やかに思えた空気が、じわり、なんとも官能的な色味に感じられた。
廊下にいる学生が、「うわ、なんか、たまんねー…」と口に出した。
「どこから香ってきてんの? 花…?」
「いや、そんなのなかったでしょ」
「香水?」
皆が口々に当て合う。
「はあ、なんだよこれ…」
「ちょっとアンタ、なに顔赤くしてんの…?」
「いや、なんか仕方ないじゃん…お前はどうなのよ…」
「ええ…」
クラスを見回すと、確かに半数くらいの顔が紅潮している。周囲の変化に、胸が大きく弾んだ。
「何だよマジ…いい匂い…誰の匂いだよ…」
犯人探しに行こうとしたのか、ヒロが出入り口に向かうと同時に、出入り口に現れた生徒と目があった。
ひとり真っ青な顔をした、木之内睦月が立っていた。
「木之内」
香月が呼ぶと刹那、クラス全員が睦月を凝視する。
「ヒッ…」
睦月の体が固まり、目が大きく開かれる。
「木之内…っていうの? すごいいい匂いするじゃん…」
別のクラスの生徒が、睦月の背後から声をかける。
「木之内…? ほんといい匂いするな…」
別の男子が、目を蕩けさせてしなだれかかる。
「あ、あ…」
遠くから見ても分かるくらい、睦月の体がガチガチと震えている。
もう一度、睦月の目が香月を捉えた。
困惑と恐怖、絶望がないまぜになっている。
幻聴かもしれなくても、確かに助けてと訴えている。
「ヒロ、お前は廊下に出るな。皆もここにいろ」
香月が言うや否や、バッグを肩に引っ掛け睦月の手を掴み、数分前に通った廊下を逆走し、玄関に向かった。
香月の大きな背中が、人の波を押し返す。
「どいて。急いでるから皆どけ」
匂いにあてられていない生徒はパッと避けるものの、具合がおかしくなった奴らがぞろぞろと集まり、睦月に手を伸ばすものだから、夏伊の迫力に反してなかなか進めない。
それも強引に掻い潜り、ようやく正門の前まで出てきた。
「香月、木之内、待ちなさい! この騒動は何だ!」
門の手前で担任に呼び止められる。
条件反射で睦月の足が止まり、振り返った。
「木之内、この…騒ぎ…何だ……」
急に担任の目が見開かれ、顔に恍惚の色が浮かぶ。
顔が近づいて、熱い吐息が頬に当たる。
「…せんせ、い」
握り続けている手首が、大きく震えた。顔色は青白いを通り越して土気色のひどい有様で、いつ倒れてもおかしくない状況に見えた。
「木之内、行くぞ」
耳に囁くや否や、香月が大股で駆ける。
予鈴さえ後ろから追いかけてくるようだった。
何が起こっているのか、信じられない現実の前に、ただ足を前に運び続けた。
廊下の窓を開けると、桜の花びらがひとひら、洗面所に入ってきた。
洗面所では、ドラム式洗濯機が静かに稼働している。
寝間着とパンツが力なく振り回されているのを、木之内睦月は死んだ魚のような目で見続けていた。
「はぁーーー………」
信じられない。本当に信じられない。
気分よく寝てた気がするが、具体的に良かった訳ではない。夢の内容だって覚えていない。
急に飛び起きたら。
「あぁーーー………」
床にしゃがみ込む。
母が出張中でよかった。
夢精の後片付けを見られるのも察せられるのも、軽口を言われるのも黙られるのも、想像するだに地獄だ。
心の整理がつかないまま、頭をガシガシと掻く。すべての照明スイッチを押して、リビングを煌々と照らしてからキッチンに入った。
高校1年の1学期が始まって、まだ一月も経っていない。
馴染まない教室では、一部のクラスメイトがテンション高く自分の居場所を探り合っている。
が、そんな活動は自分には関係のないことで、今日も入り口でハヨと挨拶だけして、自席にどんと座った。
「夏伊、オハヨー」
席に来たのは、幼稚舎からの付き合いの、山東弘揮だ。
香月夏伊は、友人に顔を向ける。
「オハヨ」
「昨日の配信見た?」
「ヒロが言ってた奴? すげー笑ったんだけど」
ヒロと呼ばれた男子が、ニッと笑う。
「だろ? 夏伊もハマったろ?」
「ん。たまにはいいの見つけてくんじゃん」
「ちょっとー、ずいぶんと低評価だね?」
ヒロがハハハハ!と大口を開けて笑ったところで、
「…ん?」
「…あれ?」
「なんか……すごく……」
いい香りがするとヒロがつぶやく。いや、もっと不思議な…?
周りの友人が、いやクラス全体が、水を打ったように静まり返った。
だんだんと、空間が変化する。
爽やかに思えた空気が、じわり、なんとも官能的な色味に感じられた。
廊下にいる学生が、「うわ、なんか、たまんねー…」と口に出した。
「どこから香ってきてんの? 花…?」
「いや、そんなのなかったでしょ」
「香水?」
皆が口々に当て合う。
「はあ、なんだよこれ…」
「ちょっとアンタ、なに顔赤くしてんの…?」
「いや、なんか仕方ないじゃん…お前はどうなのよ…」
「ええ…」
クラスを見回すと、確かに半数くらいの顔が紅潮している。周囲の変化に、胸が大きく弾んだ。
「何だよマジ…いい匂い…誰の匂いだよ…」
犯人探しに行こうとしたのか、ヒロが出入り口に向かうと同時に、出入り口に現れた生徒と目があった。
ひとり真っ青な顔をした、木之内睦月が立っていた。
「木之内」
香月が呼ぶと刹那、クラス全員が睦月を凝視する。
「ヒッ…」
睦月の体が固まり、目が大きく開かれる。
「木之内…っていうの? すごいいい匂いするじゃん…」
別のクラスの生徒が、睦月の背後から声をかける。
「木之内…? ほんといい匂いするな…」
別の男子が、目を蕩けさせてしなだれかかる。
「あ、あ…」
遠くから見ても分かるくらい、睦月の体がガチガチと震えている。
もう一度、睦月の目が香月を捉えた。
困惑と恐怖、絶望がないまぜになっている。
幻聴かもしれなくても、確かに助けてと訴えている。
「ヒロ、お前は廊下に出るな。皆もここにいろ」
香月が言うや否や、バッグを肩に引っ掛け睦月の手を掴み、数分前に通った廊下を逆走し、玄関に向かった。
香月の大きな背中が、人の波を押し返す。
「どいて。急いでるから皆どけ」
匂いにあてられていない生徒はパッと避けるものの、具合がおかしくなった奴らがぞろぞろと集まり、睦月に手を伸ばすものだから、夏伊の迫力に反してなかなか進めない。
それも強引に掻い潜り、ようやく正門の前まで出てきた。
「香月、木之内、待ちなさい! この騒動は何だ!」
門の手前で担任に呼び止められる。
条件反射で睦月の足が止まり、振り返った。
「木之内、この…騒ぎ…何だ……」
急に担任の目が見開かれ、顔に恍惚の色が浮かぶ。
顔が近づいて、熱い吐息が頬に当たる。
「…せんせ、い」
握り続けている手首が、大きく震えた。顔色は青白いを通り越して土気色のひどい有様で、いつ倒れてもおかしくない状況に見えた。
「木之内、行くぞ」
耳に囁くや否や、香月が大股で駆ける。
予鈴さえ後ろから追いかけてくるようだった。
何が起こっているのか、信じられない現実の前に、ただ足を前に運び続けた。
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