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01:プロローグ
しおりを挟む浮遊感が体を包む。
眼前の光景が遠ざかっていくのが妙にゆっくりと見える。
伸ばした手は何も掴まず、虚空を掻く手に冷たい雨が伝う。
その指先、すでに遥か高みになった場所でこちらを見下ろすのは……、夫と息子。
小さくなった二人の顔など見えるわけがないのに、なぜか不思議と、彼等が笑っているのが見えた気がした。
岩に叩きつけられて強い衝撃が体を襲い、後頭部を打ち付けて視界が白く瞬く。
痛みを感じたのは一瞬だけだ。それもすぐさま消え失せ、途端に体が冷えていく。波が岩に打ち付けるたびにあげる飛沫が、容赦なく降り注ぐ大粒の雨が、体中の熱を奪い去って凍てつかせる。
虚ろな視界の中、地面に投げ出された己の銀色の髪が赤く染まるのが見えた。
(私、死ぬのね……)
泥濘に沈むかのように虚ろになる意識の中で考え、無慈悲な終幕に恐れも嘆きも抱かずに目を閉じる。
ふと、なにかの気配を感じた。
誰かが自分を覗き込んでいる気がする。だが目を開ける気力はなく、誰かを確認する気も起こらない。
激しい波音の合間に、話しかけてくる声が聞こえた。
(……変なことを言うのね)
薄れゆく意識でそんな事を考えたが、プリシラ・フィンスターにはもうどうでも良かった。
◆◆◆
プリシラの人生はおおよそ誰にも羨ましがられるものではないだろう。
アミール男爵家の令嬢として生まれ十五歳まではそれ相応に裕福に暮らせてはいたが、この結末を知れば他の夫人令嬢はおろか、一庶民の女性だって「自分はご免だ」と渋い顔をするに違いない。それ程までにあんまりなものなのだ。
発端であり分岐点は十六歳の誕生日。
その日、プリシラはダレン・フィンスターと結婚した。当時十六歳だったプリシラのちょうど倍の年齢、三十二歳の伯爵家の男。
二人の間には愛も友情もない。そもそも顔を合わせた事すら無かったのだ。
それでもプリシラはダレンを伴侶として受け入れようとした。これから愛を育んでいけば良いと考えていた。
……だが生憎と、ダレンにはその気は無かった。
身分だけの妻。
屋敷に置くだけの夫人。
なんの権限も与えられず、その場に居れども空気のように扱われ、それどころか居る事すらも煙たがられる伯爵夫人。
それがフィンスター家でのプリシラだった。
一度として屋敷の事を任されず、パーティーや社交の場に出ることも禁止された。意見しようものならダレンに強い口調で言い咎められ、時には部屋に閉じ込められ、まるで罰のように食事を抜かれる事も少なくなかった。
身一つで嫁入りするよう言われていたため、プリシラの味方は無理を言って連れてきた侍女が一人のみ。その大切な侍女すらも結婚二年目で取り上げられた。
結果、プリシラの心は早々に折れてしまった。
日がな一日部屋に籠り、本を読み刺繍をし、一人で食事をし、一人で眠る……。
伯爵夫人の生活とは程遠い、そんな日々を送るようになったのだ。
そうして迎えた、めでたくも何もない六年目の結婚記念日。
もはや記念日を覚えている事すら惨めに感じていたプリシラは、ダレンに執務室に来るよう呼び出された。
「海を見に行くぞ」
と、簡素に告げて準備をしろと命じてくる。
彼の隣に立つのは息子であるジュノ・フィンスター。プリシラとダレンの子供ではない、ダレンと前妻との息子だ。
出会った時は幼い子供だった彼も今は十一歳。青年とまでは言わないが出会った当時の幼さは薄れ、少年らしい溌剌さがある。……はずだ。少なくとも、遠目から見るジュノは溌剌とした少年だった。
だが今の彼の表情は酷く冷めており、プリシラを見る目はとうてい母親に向けられるものではない。冬の海のような青い瞳で冷ややかにプリシラを見据える。
それもそのはず、ダレンがプリシラを妻と扱わないように、ジュノもまたプリシラを母として見ていないのだ。
「ジュノ……。貴方も一緒に行くの?」
「そうですが、なにか問題でもありますか?」
プリシラの問いに返すジュノの声は酷く淡々としており、そのうえプリシラの返事も聞かずに部屋を去ってしまった。
その際の「父上、準備が出来たら先に馬車に乗っていますね」という声には父親への敬意が感じられる。対して、プリシラに対しては一言どころか一瞥すらしない。
そうしてジュノが去っていくと、ダレンがプリシラへと視線をやった。眉根を寄せてプリシラを見据える。
「なんだ、まだ居たのか」
「あの……、どうして海に?」
「結婚記念日に親子で出掛ける、別に珍しい話じゃないだろう。さっさと準備をしろ」
早く出て行けと言いたげなダレンの言葉。
彼から漂う嫌悪の空気に気圧され、プリシラは逃げるように彼の部屋を出て行った。
(どうして? 今まで結婚記念日どころか私の誕生日にすら声も掛けてこなかったのに……)
そんな疑問が次から次へと湧いてくるが、ダレンに尋ねる事は出来ない。
虐げられた六年間で、プリシラは疑問を口にする事すら出来なくなっていたのだ。もちろん突然のこの外出を喜ぶことも出来ない。
ただ疑問と不安と嫌な予感だけを感じながら、それでも言われるがままに身支度を整え、命じられたとおりに馬車に乗り込むだけだ。
その結果が、この様である。
夫と息子に崖の上から突き落とされ、岩場に落ちて死んだ。
……死んだ、はずである。
◆◆◆
「そう、私は死んだはずよ……」
プリシラが震える声で呟いたのは、冷たい波が体を打つ岸の上でもなければ海を見下ろす崖でもない。
見覚えのある部屋の中。大きなベッドとサイドテーブル、それと小さな棚と壁際のクローゼットだけのシンプルな部屋。それでいて絨毯やカーテン、飾られた絵画は一級品で揃えられており質朴さは無い。
上等な寝室。
この部屋はフィンスター家にあるプリシラとダレンの寝室だ。といっても、夫婦とすら言えない関係だったのでこのベッドで共に眠った事は一度としてなかったが。
そんな寝室のベッドの上でプリシラは目を覚ました。纏っているのはナイトドレス。薄っすらと肌を透かせ、胸元を止めるリボンは解きやすさを意識してか緩く、衣類としては些か頼りない代物だ。
華やかなで大胆な一着。それを見て、プリシラは己の中で血の気が引く音を聞いた。
「そんな、嘘よ……、だって、これは……」
己の身を包む布を見下ろし呟くプリシラの声は混乱と躊躇いで震えている。
嘘だ、ありえない。だけど見間違えるわけがない。
これは……、ダレンと結婚した最初の夜に着ていたものだ。
このナイトドレスに身を包んでダレンを待ち、……待ち続け、差し込む朝日を一人で見た。
あの時の絶望を、僅かながらに抱いていた期待が崩れていく感覚を思い出し、プリシラは眉根を寄せた。まだ十六歳という若さで自分の未来が明るくないことを察してしまったのだ。もっとも、さすがに殺されるとまでは思わなかったが。
「あの後、このナイトドレスは箪笥にしまったままだったはず……。なのに、どうして」
なぜ今これを着ているのか。
そもそも自分は崖から突き落とされて死んだはずでは。どうして寝室にいるのか。
矢継ぎ早に浮かび上がる疑問に背を押されるように、プリシラはそっとベッドから降りた。
棚に近付き一つを開ければ、中には手鏡が伏せてしまわれていた。六年前の初夜、最後の身嗜み用にと持ち込みここにしまったものだ。六年前の事のはずなのに手鏡は傷一つ無く美しく、埃もついていない。
そんな手鏡を震える手で持ち……、ゆっくりと、鏡面を己に向けた。
そこに映るのは、二十一歳で殺された哀れな伯爵夫人の顔ではなく、まだあどけなさを残すかつての己の顔だった。
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