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30:大ネズミ
しおりを挟む帰宅したプリシラを出迎えたのはジュノだった。
プリシラの姿を見るとはっと息を呑み、幼さを残す顔を青ざめさせる。
「お、お母様……」
「ジュノ、どうしたの?」
「いえ、その……。お母様は、どこかへ行ってたんですか?」
「お友達のところに行っていたの。……ジュノ?」
ジュノの様子は明らかにおかしい。
落ち着きをなくし、ぎゅうと服を強く掴み、会話の間にちらちらと屋敷の奥を横目で見ている。
たとえるならば子供が悪戯や失敗を隠すような態度に近いが、青ざめたジュノの表情を見るにその程度ではないのだろう。そもそもジュノは悪戯や失敗を隠す子供ではない。
ならば屋敷の奥に何かあるのか。
……否、誰が居るのか。
そこまで考えた瞬間、プリシラの耳にカツと高い音が届いた。
脳裏にとある女の姿が浮かび上がる。思い出されるのは前回の人生での一幕。
(そういえば『あの女』と初めて顔を合わせたのはこの時期だったわね……)
今でも鮮明に思い出せる。
カツカツと小気味よく響くヒールの音。迷いの無い足音……。そして、
「あら、プリシラ様」
と、悪びれることなく名前を呼んでくるこの声。
プリシラが振り返れば、一人の女がこちらへと近付いてくるのが見えた。
華やかでありつつも厳かさを感じさせる服装、きっちりと纏められた金色の髪。凛とした美しい顔立ちには鮮やかな化粧が映え、唇には薔薇のように赤い口紅が塗られている。そしてなにより印象的なのは、強い意思を感じさせる濃緑色の瞳。
年の頃ならば三十代前半。だが十代二十代にも負けぬ気力を感じさせる女性だ。
セリーヌ・アトキンス。
スコット・アトキンスの妻であり、アトキンス商会を牛耳る女。
彼女はプリシラの前まで来ると優雅に頭を下げた。品の良い挨拶だ。これに対してプリシラは頭を下げることはせず、「ごきげんよう」とだけ返した。
ジュノが困惑を露わにした表情を浮かべており、プリシラとセリーヌを交互に見る。
後から追って来たダレンも流石にこの会合には気まずそうな顔を浮かべていたが、すぐさま表情を厳しいものに変えてプリシラを睨みつけてきた。
「いったいどこに行っていた」
「届け物があったので友人のところに。ところで、アトキンス商会のセリーヌさんが来ているなんて知らなかったわ」
横目でセリーヌへと視線をやる。
プリシラは今年で十九歳、対してセリーヌは既に三十歳を超えている。親子程とは言わずとも年齢差があり、時戻し前の六年間を足しても彼女の年齢には満たない。
小娘とでもセリーヌは考えているのだろう。もしくは自分の愛人が歯牙にもかけない憐れな女か。
挨拶こそ丁寧ではあったもののセリーヌの態度にはプリシラを敬う意思はなく、それどころかまるで見せつけるかのようにそっとダレンの隣に立った。
本来ならば妻であるプリシラの居場所である。それをあえて見せつけているのだ。……もっとも、プリシラからしたら譲られても立ちたくない場所なのだが。
「本日はダレン様からお話があるとのことで招待頂いておりました」
「そうだったの。フィンスター家とアトキンス商会は随分と親しくしているものね。今までも何度もいらっしゃっていたみたいだけれど、一度も挨拶して頂かなかったからお会いするのは初めてね」
セリーヌの訪問は今に始まったことではない。何年も前から、何度も、彼女はフィンスター家に足を運んでいる。
時にはアトキンス商会の者として堂々と、時にはダレンの愛人としてひっそりと……。
それを知っているのだと言外に突きつければ、セリーヌが僅かにたじろいだ。隣に立つダレンの表情が更に渋くなる。
どうやら二人共プリシラには気付かれずに逢瀬を重ねているつもりだったようだ。
馬鹿々々しい、とプリシラは心の中で呟き、困惑するジュノを呼んだ。この会合を前にジュノはどうしていいのかわからず立ち尽くしており、その姿のなんと痛々しいことか。
こちらに、と手招きをするとそっと近づいてくる。恐る恐るといった動きすらも今は悲壮感を覚える。
「お母様……」
「ジュノ、悪いんだけれどイヴを見つけて私の部屋に紅茶の用意をするように伝えてくれないかしら。出かけて疲れてしまったから部屋で休みたいの。お願い出来る?」
「は、はい……。分かりました」
「ありがとう。せっかくだからジュノも一緒にお茶をしましょう」
優しい声色でジュノに言伝を頼めば、彼はいまだ困惑の表情ではあるが一度深く頷いて返してきた。
次いで一度セリーヌに対して頭を下げる。「セリーヌ様、また」と告げる言葉は貴族の子息らしい立派な態度だ。……それ以上も以下もない。
そうして去っていくジュノの背を見届け、プリシラは改めてダレンへと視線をやった。
本来ならば妻であるプリシラを隣に立たたせるべき男は、まるで当然のようにセリーヌを横に立たせている。不満気な表情で苛立ちを全身に漂わせており、その態度は見ているだけで腹立たしくなってくる。
「家のためになるとはいえ、あまり懇意にし過ぎるのは如何なものかしら」
「……どういう事だ」
「あくまで伯爵家と商会としての関係に留めておいて、と、そう言いたいのよ」
一瞬、僅かな瞬間、プリシラはきつくダレンを睨みつけた。
彼がたじろいだのが分かる。
「ば、馬鹿な事を言うな。セリーヌとはただ資産について話をしていただけだ」
「そう。なら次はぜひ私も同席させてちょうだい」
「なぜお前が同席する」
「フィンスター家夫人として、家のためにお越しくださったお客様に対応するのは当然の事でしょう? それにジュノも同席していたようだし、あの子が粗相のないよう見守るのも母の務めよ」
プリシラの言い分は尤もである。
ゆえに、ダレンは忌々しいと言いたげな表情こそ浮かべているものの反論はしてこない。出来ないのだ。
下手な反論は得策ではないと考えているのだろう。後ろ暗い事があるから尚更、言葉を選ぶ必要がある。
そしてそれ以上に、きっと今のダレンの胸中は混乱と躊躇いが占めているに違いない。
なぜ知っている。
なにを知っている。
どこまで知っている。
そんな困惑と疑いが彼の顔に浮かんでいる。
あまりの分かりやすさにプリシラは言及する気にもならず、視線をセリーヌへと移した。
困惑を隠しきれぬダレンと違いセリーヌはまだ体裁を取り繕う余裕はあるようで、プリシラと目が合っても表情を崩さずにいる。
「プリシラ様は何か勘違いをなさっているようです。私はアトキンス商会の者としてダレン様と話を」
「話の内容も頻度も、勘違いで済むものなのかどうか、貴女自身がよく分かっているんじゃないかしら」
セリーヌの話を遮り一方的に告げ、返事も聞かずに「部屋に戻るわ」とダレンに一言残して歩き出す。
もちろん別れの挨拶もせず頭を下げることもしない。それは本来ならばセリーヌからすべきことなのだ。
だが挨拶の言葉は聞こえてこず、それどころかセリーヌがこちらを睨みつけているのが背中越しとはいえ気配で分かった。きっと美しい顔を歪め、憎悪を露わに、眼光を鋭くさせて睨みつけているのだろう。
とうてい振り返ってやる気にはならない。
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