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33:別れと出発
しおりを挟むしばらく話を続けていると、室内にノックの音が聞こえてきた。
入ってきたのはジュノ。
眉尻を下げた切なげな表情をしており、プリシラが声を掛けるとおずおずと室内に入ってきた。そこには普段見せる溌剌さはなく、気弱を通り越して薄弱とした印象さえ受けかねない。
ジュノを見た瞬間プリシラの胸がズキリと痛んだ。今すぐに抱きしめて謝罪したくなる衝動さえ湧き上がるが、それをぐっと堪えて穏やかな声色で彼を呼ぶ。
「ジュノ、準備は出来た?」
「……はい」
「それならこっちに来て一緒にお茶をしましょう。お菓子もあるのよ」
出来るだけ優しい声でジュノを誘えば、彼は困惑の表情のままそれでもコクリと頷いた。
オリバーが立ち上がり、ジュノが手にしている大きなボストンバッグと肩掛け鞄を受け取り、己が座っていた椅子へと促す。
「準備は大変じゃなかった? 本当は手伝ってあげたかったんだけど」
「大丈夫です。ちゃんと準備できました。大事なもの全部は持っていけないけど、でも、お母様がくれた鳥の羽は持っていくことにしたんです」
母を前にして少し気が晴れたのか、ジュノの声に明るさが戻る。
だがすぐさま視線を落として「お母様は……」と小さくプリシラを呼んだ。
「お母様は一緒には来られないんですよね」
「ジュノ……。ごめんなさい、本当はお母様も一緒に行きたいんだけど、ここに残らないといけないの」
「……そう、ですよね。お母様が謝る必要はありません。僕、一人でも大丈夫です!」
気丈に振る舞おうとするジュノの姿も声も痛々しく、プリシラの胸が更に痛みを訴える。
そんなプリシラを気遣ってか、話を聞いていたイヴが「大丈夫ですよ」とジュノに声を掛けた。
「レッグ医師も一緒ですから、ジュノ様おひとりじゃありません」
「そうだね、それにイヴの家族もいるんだよね?」
「えぇ、みんなジュノ様にお会いできるのを楽しみにしています。それにオリバーの従兄弟もいますよ」
イヴが話しながら視線をオリバーにやれば、促されてジュノも彼を見る。
二人分の視線、そしてプリシラからも視線を送れば、一身に受けたオリバーがゆっくりと頷いた。まるでジュノの不安を取り払うような動きだ。
「従兄弟の家にはジュノ様と同い年の息子がいます。先日手紙が届きましたが、ジュノ様と一緒に鳥を見に行くんだと毎日図鑑を見ているそうです」
「本当?」
「はい。田舎なので娯楽は少ないですが、そのぶん自然に溢れてます。近くの池には渡り鳥も来るので、時期がきたらお連れしたいと手紙に書いてありましたよ」
オリバーが話せば、それを聞いたジュノの表情が次第に明るくなっていった。
同い年の少年が自分を待ってくれている。そのうえ向かう先では鳥の観察が出来る。それがジュノの気分を多少なり晴らしてくれたのだろう。
「鳥の絵を描いてお母様に送りますね」
「楽しみだわ。お母様も必ず返事を書くわね」
ジュノの言葉にプリシラの表情も次第に和らいでいく。
次いでイヴとオリバーに目配せで感謝を示せば、ほぼ同時に、再び室内にノックの音が響いた。
メイドが馬車の到着を伝えてくる。それを聞いた瞬間にプリシラの胸に寂しさが湧いたが、表情には出すまいと決めてカップに残っていた紅茶を一口飲み込んだ。
フィンスター家の敷地内は今も美しく保たれている。
だがどことなく白々しい空気が漂っている。まるで剥がれかけの張りぼてを必死で取り繕うような、中身の腐敗を建物と庭の花で覆い隠そうとしているような、そんな不快とさえ言える歪さだ。
そしてその不快さに拍車を掛けるのが、敷地の外からこそこそと中を覗こうとする影。
渦中のフィンスター家に張り付き、誰より先にゴシップを掴もうとする者達。
記事にするのか、もしくはあることないこと綴って本でも出すつもりか。それとも夫人達に面白おかしく話して小遣いでも稼ぐつもりなのか。
なんにせよ彼等にとってフィンスター家の崩落は今一番うまみのある飯のタネなのだ。恥も外聞もなく敷地の外からこちらの内情を探ろうとしている。
「……お母様」
「堂々としていれば大丈夫よ。それにこれから行く場所にはあんな人達は居ないから安心して」
ジュノの頭をそっと撫でて宥めてやる。
それだけでは足りないと今度は頬を擽るように撫でれば、ジュノが困ったように笑った。「僕はもう十歳ですよ」とプリシラからの子供扱いを否定するものの、手を避けたりはしない。
そんなやりとりを邪魔するまいと考えたのか、オリバーが荷物を持って馬車へと向かっていった。イヴもそれに続く。
きっと二人きりで話す時間を作ってくれたのだろう。察してプリシラは感謝を抱き、改めてジュノに向き直った。
フィンスター家の崩落は当主であるダレンだけに留まらず、息子ジュノにまで影響を及ぼした。
注がれる好奇の視線、囁かれる陰口。子供相手といえども容赦はなく、むしろ子供だからこそボロを出さないかと期待して近付く者すら現れる始末。
ジュノの人望はダレンと違い本物で、彼の元には友人からの励ましの手紙が幾つも届いている。だが友人達もまだ幼く、親が交流を禁止しているのだろう実際に会う事は出来ずにいた。
子を守ろうとする親の気持ちはプリシラも理解できる。彼等を責める気はない。
そんな環境からジュノを逃がすため、プリシラはジュノをレッグ医師の故郷に送ることにした。
フィンスター家がある王都から馬車で数日の距離にある、村と町の境目のような場所。
だが優れた医者を多く輩出しており、ジュノはそこにレッグ医師と共に移り住むことになった。『医療の勉強をするため』という名目である。
明らかな逃げだ。周囲もそう考えて陰口を叩くだろう。だがジュノに届かなければ良いのだ。
幸い、レッグ医師の故郷にはイヴとオリバーの親族も居り、この話を快く受け入れてくれた。
噂より当人の人柄を重視する性格の者が多いというのできっとジュノも穏やかに暮らせるだろう。レッグ医師が妻と共に暮らしてくれるというから生活も安心だ。彼等は一足先に村に帰り、ジュノを受け入れる準備をしてくれている。
それにイヴが同行してくれる。彼女は移動中のジュノの身の回りの世話を担い、村に着いてもすぐには帰らず一ヵ月ほどそばに居てくれるという。
「レッグ医師と奥様が待っていてくれているから、ちゃんとご挨拶してね。それと、村の皆さんにも」
「はい。僕、ちゃんと挨拶します」
「どんなお友達が出来たか教えてね」
「出会ったひとも見たことも、全部手紙に書きます。だからお母様も返事をくださいね」
「もちろんよ。いつも違う便箋と封筒を用意するわ」
正面に立つジュノの顔を見つめて告げ、それだけでは足りないとプリシラはジュノの体をそっと抱きしめた。
十歳になったばかりの彼はまだ線が細く、それでいて背は随分と高くなった。
大人という程ではないが、それでも大人になる兆しを見せた少年の体だ。今はまだプリシラの方が背が高いが、きっとあと数年で抜かされてしまうだろう。
そんなジュノはプリシラからの抱擁を受け、自らも手を回してきた。
温かな手が背に触れ、控えめに服を掴んだ。プリシラの胸が別れの切なさを覚える。
……それと、後悔。
「こうやって抱きしめてあげれば良かった……」
後悔の念を込めてプリシラが小さく呟く。
それを聞いたジュノが肩口に顔を埋めながら「お母様?」と尋ねてきた。
「お母様はいつも僕を抱きしめてくれましたよ?」
「……そうね。何度も抱きしめたわ。最近はあんまり抱きしめさせてくれなくなったけど」
「だって僕もう十歳ですよ」
気恥ずかしいのかジュノが笑う。そんな彼からそっと腕を放し、プリシラはよれてしまったジュノの上着の襟を直してやった。
この上着はジュノの誕生日に合わせて仕立てたものだ。大人びたデザインで、完成したのを見た時には本当にジュノの上着なのかと驚いたほど。だがジュノは立派に着こなしており、上着を纏い背筋を正す姿には洗練された精悍さがあった。
(子供の成長って本当に早いのね……)
ふとした瞬間にジュノの成長を実感する。
だがこれから彼は離れた場所で生活するのだ。成長を間近で見守ることは出来なくなる。
……だけど悲しむ資格は無い。始めたのは自分だ。
ジュノが傷付くと分かっていても、彼が今まで通りの伯爵家子息としての人生を歩めなくなると分かっていても、それでもフィンスター家を地の底に落とすと決めた。
そうプリシラは己に言い聞かせ、胸の内に湧き上がる切なさを押し留めた。
ジュノの頬を軽く撫でれば彼が青色の瞳を細めて笑う。なんて愛らしいのだろうか。
「次に会う時が楽しみだわ。きっと今より素敵な紳士になってるわね」
「はい」
「それじゃあいってらっしゃい。怪我や病気に気を付けて、元気でね」
「お母様もどうかお元気で」
別れの言葉を告げ合いジュノが馬車に乗り込む。すぐさま客車の窓を開けて顔を出してきた。
最後まで別れを惜しもうとしているのだ。プリシラも応えるため馬車に近付いた。
門の外に潜んでいた者達が近くの建物や物陰からこちらを見てくるが、そんな視線を今のプリシラが気に掛けるわけがない。
今はただ最後の一瞬までジュノを見ていたい。
……次にいつ会えるのか、また会えるのかすら分からないのだから。
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