その少女、舌禍につき

然々

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沈黙の鳥編【第1話】

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雨が降っていた。
団地のコンクリートが夜の湿気を吸って、鉄のような匂いを放っている。
エレベーターのない五階建て。上るたびに階段の踊り場がきしむ。
───その音が、まるで誰かの舌打ちのようだった。

澪は、段ボールを抱えながら息を切らしていた。
祖母の死後、誰も住まなくなったこの部屋に、彼女は一人で引っ越してきた。
ドアを開けると、畳の匂いと、ほのかな線香の残り香。
窓辺には鳥籠があった。中は空っぽ。
ただ、底に小さな羽根が一枚、貼りついていた。

「……おばあちゃん……ほんとにここで、最後まで一人だったの?」

呟いた声が、やけに響いた。
返事の代わりに、どこかで“チチ……チッ”と鳴く音。
雀だろうか。
団地の外壁の隙間から、夜風にまぎれて小さな影が滑り込んできた。

澪がカーテンを開けると、そこに一羽の雀がいた。
羽は濡れ、右の翼が折れている。
目が光を拒むように細められ、喉が微かに震えていた。

「……かわいそうに」

澪はタオルで包み、古い鳥籠の中へ入れた。
そのとき、雀が微かに口を動かした。
音は出なかった。
けれど確かに、唇の形が“ありがとう”と読めた気がした。

夜。
雨脚が強くなり、風が窓を叩く。
澪は布団に入りながら、鳥籠を見つめていた。
雀は眠っている。呼吸に合わせて羽が上下する。

ふと、澪は耳を疑った。

「……ねぇ……だれか……」

囁くような声。
それは雀の方から聞こえた。
声はかすれていて、どこかで聞いたことのある声だった。
───亡くなった祖母の声に、酷似していた。

翌朝。
雀の籠の下に、小さな紙包みが落ちていた。
血のような赤い染み。
震える手で開くと、中には───
濡れた、柔らかい、何か。

人の舌、のように見えた。

雀が澪を見つめていた。
黒い瞳の奥に、光がない。
澪は思わず声を出そうとしたが、喉の奥がひゅうと鳴った。
言葉が、出なかった。

その瞬間、雀が小さく囀った。
今度ははっきりと、声で。

「しゃべると、ね。落ちるの。」


舌が───という言葉が、声にならずに澪の中で凍りついた。



翌朝、雨は上がっていた。
団地の廊下に出ると、湿ったコンクリートの匂いと、洗濯物を干す音が混ざっていた。

澪は何気なく団地の外に出て5階を見上げた。
よく晴れた気持ちのいい朝に鳥の囀り、木々の葉擦れ。清々しく一日を迎えられる。本来であれば。だが澪にはそれらの音全てが不気味に思えた。

漠然とした気持ちで部屋へ戻ろうと踊り場に着いた。

隣の部屋のドアが開き、老女が顔を出した。
痩せて皺だらけの顔に、驚くほど赤い口紅が残っている。

「あなた、綾女さんの……お孫さんね?」

「はい……澪といいます。祖母をご存知なんですか?」

「えぇ……あの人、よく話す方だったのよ。でも、ある日を境にね、何も話さなくなって……」

老女は口元を押さえ、
“話す”という言葉を出すことを恐れるように、声を落とした。

「この団地は、声が響くの。壁が薄いでしょ?だから、みんなあまり大きな声を出さないのよ。」

「……はい。確かに静かですね……。」
澪は何を話していいか分からなかった。だが昨日の事もあり、それを話していいか、祖母がどんな生活をしていたか気になりもしていた。

「でもね、不思議なことがあるの。夜になると、どの部屋も囀りが聞こえるの。まるで……鳥が人の言葉を覚えたみたいに。」

「人の言葉を……?」
昨日確かに雀が人の言葉を話した。幻覚でも幻でも寝ぼけていた訳でもなかった。

澪は鳥籠を思い出し、ぞっとした。
老女は笑いながら、「気をつけるのよ」とだけ言い、ドアを閉めた。

「気をつける?一体何を……?」
澪は静かに呟いた。

部屋に戻ると、雀はじっと澪を見ていた。
籠の中の水は減っていない。餌も食べていない。
なのに、羽根の色が昨日より濃く、
瞳に微かな光が宿っている気がした。


澪は声をかけた。
「大丈夫?ご飯、食べなきゃ。」
自分でも驚くほど、声が掠れていた。
舌の裏が痛い。
まるで、昨日の言葉が本当になったみたいに。

その夜。
雨の代わりに風が吹き荒れ、団地が鳴いた。
ガラス戸が揺れ、床の埃が舞う。
澪は寝返りを打ち、天井を見つめた。
そこに、何かの音があった。

“チチチ……ミオ……チチ……”

聞き間違いではない。
雀の声が───自分の名前を呼んでいた。

澪は布団から出て、鳥籠の前に立った。
雀は口を開け、喉を震わせている。
その動きはぎこちない。
だが確かに、声にならない声で、こう言っていた。

「ありがとう、ミオ。もう一度、話せる。」


その瞬間、澪の口の中で何かが動いた。
舌の奥。冷たい指先のような感触。
思わず叫ぼうとしたが、声は出なかった。
代わりに雀が囀った。
それは澪自身の声だった。

「やめて……!」

叫んだつもりが、音にならない。
代わりに籠の中から、彼女の声が返ってくる。

「やめて……」


同じ調子、同じ震え。
まるで彼女の“声”が籠の中に閉じ込められたようだった。

雀が首を傾げる。
そして、ほんの一瞬だけ、笑ったように見えた。


翌朝。
澪の枕元には、
古い紙包みが落ちていた。
血のような赤い染み。
中を開けると、そこには小さな舌のようなものが入っていた。
まだ温かかった。


雀の囀りが、「おはよう」と言った。


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