菊松と兵衛

七海美桜

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菊松と兵衛

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 浅草で呉服問屋『井筒屋いづつや』を営む佐久間孫次郎の長子の兵衛ひょうえは、花街である芳町よしちょうにある陰間茶屋かげまちゃや『松葉屋』にこの二年熱心に顔を見せていた。
 彼は賭け事をしないが、若い頃から酒と女遊びを派手にしていて、色街では有名な羽振りの良い若旦那だった。吉原で遊んだ金は、売れっ子花魁の身請け三人ほどになると噂されていた。孫次郎が年を取ってから授かった子という事もあって、甘やかされて育ったのだ。
 しかし孫次郎も年を取り、兵衛が後を継いでくれる事を願うようになった。すると兵衛は遊びを減らして、孫次郎の店に顔を出すようになった。元々商いの才があったのか兵衛の女好きする顔のお陰か、井筒屋の売り上げが伸びて兵衛はまた遊ぶ小金を手にした。
 二十二にしてそろそろ吉原遊びにも飽きた兵衛は、遊び仲間から教えて貰った陰間茶屋へと趣向を変えた。最初に飛び込んだ店が、今も通い続ける松葉屋だったのだ。
「おや、井筒屋の若旦那。いつも有難うございます」
 店に入ると、すっかり馴染みになった松葉屋の主人の左衛門さえもんが顔を見せた。
「今日も遊ばせて貰うよ。菊松は?」
「菊松は、その…」
 いつも指名している菊松の名を口にすると、左衛門は顔を曇らせた。

「兵衛様、申し訳ございません」
 部屋に入ると、菊松は布団に横になっていたが慌てて体を起こそうとした。
「今日は客半分冷やかし半分だ。横になってな」
 心苦しくも菊松は、すっかり馴染みの兵衛の言葉に甘える事にした。兵衛の方に顔を向けて横になると、時折辛そうな顔を見せるも笑みを浮かべていた。
 菊松は役者を目指して陰間茶屋で働く事になったのではなく、幼い頃の火事で父親を亡くし、妹を育てる為と仕方なく紹介して貰い、陰間になった。菊松が十で、妹のいよが九つの頃だという。元々女顔だった菊松は松葉屋でも人気の陰間で、菊松の仕送りのお陰で母も妹も暮らすのに不自由なかったという。
 「蕾める花」の頃の菊松は高値で、客は僧侶か商人が多かった。菊松を巡って刃傷沙汰があったとも聞いた。その頃の菊松を知らぬ兵衛は、絵師に描いて貰ったというその頃の菊松の絵を買ってよく家で眺めていた。
 その菊松も、もう十七の「盛りの花」になった。「散る花」の頃に近づいている彼は、そろそろ身の振り方を考えているのだという。女顔ではあるが体がより男性的になってしまったので、客も随分減って未亡人からの指名が最近は滅法多い。
「そんなに立派な一物いちもつだったのかい?」
 座布団に座ると、まだ客を取っていない見習いが酒や肴を運んでくる。兵衛の両端に座り、酌をしたり料理を前に並べたりしていた。
「恥ずかしい限りです。あたしも色んなお方とお会いしてきましたが、裂けたのは初めてお客を相手にした時以来で…通ってくださる兵衛様のお相手も満足に出来なくて、本当に申し訳ありません」
 菊松は昨夜初めての客と床を共にした時、客の一物が大きすぎて受け入れるところが裂けて血が出てしまい、今日は休んでいるのだった。暫く客を取る事は出来ないだろう。
「もう、あたしも潮時かもしれませんねぇ。いよも嫁に行って、春には二人目の子が出来たと聞きました。おっかさんも、もう墓の中ですし」
 いよは十四で年上の大工の佐吉と夫婦になり、男の子が二人産まれて四人で過ごしている。母も一緒に住んでいたが、初孫の顔も見たおかげか安心したように昨年流行り病で亡くなってしまった。しかし、死ぬ間際まで菊松にすまない事をしたと泣いていたという。
「兵衛様、あたしはしばらくお相手出来ませんので代わりの子を可愛がって下さいまし」
 ここは、男や普段男遊びが出来ぬ女がたぎる色欲を発散する場所だ。今客の欲を発散できない体の自分では、兵衛が羽振りのいい商人の息子であっても無駄な金を使わせるのに申し訳ない思いで一杯だった。陰間茶屋は、吉原にも負けぬ金をとる。ただ話をして酒を飲んで高い金を払わせるのは、もう二年の馴染みである兵衛に向ける顔がなかった。
「兵衛様、どうぞこちらへ」
 酌をしていた二人が、菊松に合図されて兵衛を隣の部屋へといざなった。そこには松葉屋でも最近人気が出だした、太郎丸という十四の美しい少年を待機させている。もう陰間としての魅力も陰りだした自分は身を引き、太郎丸に兵衛を譲った方が店にとっても彼にとっても良い…そんな思いで部屋から去っていく後ろ姿を見送った。

 兵衛が松葉屋に来たのは、菊松が十五の頃だ。男相手に勝手が分からない彼を、年下の菊松が手解きをした。二十二の彼が、まるでわらしのように興味深げに教えられたとおりに、若い菊松を抱いた。その日から、日を空かず兵衛は松葉屋を訪れて菊松を抱く。それが、もう二年になるのだ。
 
 いくら想っても、所詮自分は金を出されればその相手に体を売る身だ。井筒屋の跡取り息子と一緒になれるはずもない。それに、ただ馴染みなだけで彼に睦言を囁かれた事などなかった。
 陰間の身で、そんな幸せを望んじゃいけない。

 裂けた所に蒸した葱をさしていると治りが早いと言われさしているが、菊松は尻にずっとある異物感に溜息を洩らした。
 兵衛を隣へ送り出してから半刻もせぬ頃、着物が少しも乱れていない兵衛が、再び菊松の部屋を訪れた。
「菊松!」
「は、はい」
 名を呼ばれ、菊松は身を縮める。太郎丸が何か失礼な事をしたのだろうか。
「お前さん、読み書きは出来たはずだな?俺に手紙を書いてくれたのを覚えている。算術はどうだい?そろばんは弾けるのかい?」
 兵衛の質問に、菊松は彼が何を求めているのか分からず目を丸くした。
「店の売り上げの手伝いがてら、簡単なものなら出来るように教えて貰いました」
 売れっ子であっても、暇な時間や客が来ない日もある。読み書きや算術を、客である商人やお坊さんに教えて貰ったこともあった。
「そうかい、そりゃいい。今日はもう帰るよ、身体を大事に寝ときなよ」
 唇の端を上げて笑む兵衛は、不思議そうな面持ちの菊松の頭を撫でて部屋を後にした。菊松の世話をしている見習いの少年と菊松は、顔を見合わせた。すると、大きな足音を立てて菊松の部屋に来た人物が、盛大に襖を開いた。
「この落ちぶれ野郎!!あたしを抱けない男なんか寄越すんじゃないよ!!羽振りのいい男だって聞いたから、期待して損したじゃないか!」
 太郎丸は、顔を真っ赤にして怒っている。まだ怒りが収まらないようで、襖の傍に置かれている客から貰った小物などを菊松に投げてきた。見習いの少年が慌てて店主を呼びに行く。喧嘩は江戸っ子の好物だ。店に来ていた客が何事か覗きに来て、松葉屋はその夜遅くまで騒がしかった。

 その次の日から、兵衛は松葉屋に足を運ばなくなった。一度、『見舞い』と記された饅頭と菊松が好きな煎餅を持った井筒屋の奉公人が訪れたが、兵衛は来ない。
 ――やっぱり、もう潮時かねぇ。
 菊松の借金は、もうそんなに残っていない。張見世はりみせにも出て金を貯めて、年季明けを迎えようか。裂けた傷も、ずいぶん良くなった。傷の詫び代として男からは少しまとまった金も貰ったと言っていたから、そろそろ陰間として価値の下がってきた菊松も辞めやすいだろう。
「兄さん、旦那様がお呼びです」
 見習の少年が菊松の部屋に訪れたのは、再び客を迎えようとしていた日の昼頃だった。
「井筒屋の若旦那様もいらしてますよ」
 最近姿を見せなかった兵衛を想い沈んでいた菊松を心配していた少年は、こっそり菊松に耳打ちした。
 自分に飽きただろう兵衛が、今更何の用なのか。菊松は少々不審に思いながら店主の部屋に向かう。
「菊松です、失礼いたします」
 閉じられた襖の前でそう声をかけて部屋に入ると、普段粋な若衆のような格好の兵衛が若旦那らしく渋い色合いの絹の着物を身に着けていた。その脇には、奉公人らしい男が慣れぬ手で赤子を抱いている。その状況が、菊松には把握できない。
「まあ、入りなさい」
 店主の左衛門が菊松を促すと、彼は上座の二人から少し離れた下座に腰を落とした。
「兵衛様が、お前を身請けしたいと申し出てくれたよ」
「…え?」
 左衛門の言葉に、菊松は自分の耳を疑った。身請け?このあたしを?
「親父から正式に身代《しんだい》を受け継ぐことになってな。俺は嫁の代わりに菊松を井筒屋に迎える事で、それを承知した。俺の商いを手伝ってくれないか」
 穏やかに笑っている兵衛だが、菊松は慌てて彼に問う。
「兵衛様、気は確かですか?あたしは、頑張っても跡取りなんて産めない体ですよ?井筒屋の先代様が、そんな事承知される筈ないでしょう!?」
「俺は、いよの次男を養子に貰う事にした。この子だ。それなら文句ねぇと親父は承知したよ」
 妹のいよの?この春に産まれたのは、この子なのか?菊松は、ようやくここにいる幼子が自分の甥であると理解した。泣き疲れたのか、すやすやと寝ている。
「いよも、菊松に恩返しがしたいと言っていてな。勿論いよにも礼はしている。この子は、俺とお前の子だ」
 兵衛に指示された奉公人は、抱いていた赤子を菊松に差し出した。菊松は、茫然としながらもその子を抱いた。乳臭くて柔らかくて暖かい。
「でも…兵衛様は、あたしなんか好きなんかでないでしょう。こんな冗談ひどすぎますよ」
 菊松は、涙を流して腕の中の子を抱き締めた。二年の間に、兵衛から好きと言われたことはない。どれだけ思い出しても。そんなことは一度もなかった。
「そ、それは、だな」
 兵衛の顔が、真っ赤になった。奉公人と左衛門が、遊び人の兵衛の思わぬ純情さに笑みを零した。
「俺が、二年もお前に会いに来ることが理由になっているだろう。先日だって、代わりに抱けと言われた奴を前に勃たなかった事が、理由になるだろ」
 太郎丸が激怒した夜の話だ。まさか、あの美少年を前に勃たなかったのか?菊松を抱くときは、朝まで菊松を離さない彼が?
「失礼ながら兵衛様、こういう事はちゃんと言葉にした方がいいですよ」
 笑いを噛みながら、左衛門は口を挟んだ。兵衛の顔がさらに赤くなる。しかし、泣きながら真っ直ぐに見てくる菊松を前に、兵衛は男気を見せた。
「俺は、菊松、お前に惚れてるんだよ。お前以外とは夫婦になんてなる気がしねぇ。俺の所に来い!」
 希代の遊び人の言葉とは思えない、純粋な恋慕の言葉だった。左衛門は小さく頷いた。
「兵衛様…あたしも、貴方を好いています。こんなあたしでよかったら、ずっと傍に置いてくださいまし」
 赤子を手に、菊松は嬉し涙を流して頭を下げた。そうして、松太郎と名付けられた子供と一緒に菊松は井筒屋に身請けされた。


 兵衛と菊松は、井筒屋を更に大きな店にした。菊松は女心に聡いので、流行りの着物や客に似合う着物を選ぶと評判だ。それに合わせて、兵衛は上方から良い着物を仕入れた。兵衛の父である先代の孫次郎はそんな菊松を可愛がり、隠居した彼は松太郎も可愛がって遊び相手になってくれた。

 時折菊松はいよと会い、会えなかった年数分の家族の絆を取り戻した。いよも、旦那と息子と幸せに暮らしている。彼女は自分の身代わりに兄を苦界に行かせたことを、何度も詫びていた。しかし、そのお陰で今幸せなんだと菊松はいよに礼を返していた。



 時は流れ。兵衛と菊松は、松太郎に身代を預けると二人で変わらず仲良く余生を過ごした。「先に行ってくるよ」と兵衛が死んだ三日後に、菊松も眠る様に息を引きとった。

「本当に仲の良い夫婦ですね」

 嫁を貰って夫となり父となった松太郎は、二人の墓の前で手を合わせた。記憶の中で、二人はいつも寄り添っていた。そんな二人を揶揄する者もいたが、二人も松太郎も恥じる事はなかった。

 手本となるような、幸せな夫婦であった。生まれ変わっても、また夫婦でいよう。そう兵衛は、身内だけの婚礼の席で笑って菊松に話したという。


 そう、また生まれ変わっても二人は夫婦になるのだ。いつの世でも、二人は寄り添っている。
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