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第四章 皇帝の崩御と激動の刻
第四十六話 西園八校尉
皇帝には、一つの夢があった。
それは、皇帝直属の常備軍を備える事である。
以前から王宮警備の為の近衛兵は存在していたが、大規模な常備軍となると前例が無い。
しかも、必要に応じて集められた農民などにより編成される軍では質が悪く、とても戦闘に特化した軍とは言い難かった。
それを、戦闘専門の精鋭部隊に作り上げ、皇帝の直属部隊とするのである。
皇帝は一万人規模で軍の編成を構想していたが、そこに問題が生じた。
深刻な資金不足である。
そもそも皇帝は金銭の管理能力が低く、それに加え備蓄される筈の資金は、宦官たちの賄賂や横領により殆ど国庫に届かず、常に枯渇していた。
そこで、皇帝が考えついたのは「売官」であった。
「売官」とは、官位を金銭で売る事である。
皇帝としては、売れる物は何でも売ってしまおうという考えであり、これには賛否両論の意見が上がったものの、結局実行される事となった。
それにより高額で官位を買う者が多数名乗りを上げ、そんな中には孟徳の父、曹巨高の姿もあった。
巨高はその年、凡そ 一億銭にも上る金額を皇帝に献上し太尉の位に就いたが、天変地異の発生などにより、翌年にはあっさりと罷免されてしまった。
在任期間は約一年足らずで、支払った金額に見合った物であったのかどうかは疑問が残る。
巨高は愛妻家で気性に激しい所が無く、若い頃から穏やかな人物であった。
官位を買ったのは、少しでも皇帝の役に立てるなら…との思いがあったからに違いないが、父のその行動に孟徳としては多少の失望感を抱いた。
それでも、父を真っ向から否定する気にはなれない。
父上には、父上のお考えがおありなのだ…
そう割り切り、孟徳は黙って父の姿を見詰めていた。
そんな孟徳の元に、衛子要の護衛の役目を終え、楽文謙と共に雒陽へ帰還した虎淵が、酷く憔悴した様子で姿を現した。
「よく戻ったな、虎淵。」
屋敷の広間で出迎えた孟徳は、敢えて明るい表情で彼に声を掛けた。
「孟徳様…先生を、連れ戻す事は出来ませんでした…」
虎淵は俯き項垂れたまま、背負っていた荷を解き、中から丁寧に布に包まれた、何かの品を取り出した。
「これは…先生が持っておられた剣です…」
そう言って孟徳の前に差し出す。
彼の膝先に置かれたその宝剣は、刃を七色に輝やかせ、妖しい光を放っている。
暫し黙してそれを見詰めていた孟徳は、やがて徐に手を伸ばし、それを静かに持ち上げた。
「その剣の持ち主を殺したのは、俺だ…!虎淵は彼を助けようとしたが、無駄であった。虎淵を責めないでやって欲しい。」
そう言って訴えたのは、虎淵の隣に座した文謙である。
虎淵は両膝の上に乗せた拳を固く握り締め、肩を震わせて咽び泣いている。
孟徳は一度小さく溜め息を吐き、目を細め、
「お前を責めたりはせぬ。人は、死ぬ時は死ぬものだ…悲しいが、避けては通れぬ道なのだから…」
そう言って虎淵の肩に優しく手を乗せると、柔らかい口調で諭した。
「孟徳様…」
赤い目を上げた虎淵は、零れる涙を拭う事も無く、頬を濡らして孟徳を見詰め返す。
「とにかく、今はゆっくり休め。過去の事を振り返るより、これから先の事を考えねば成らぬ…!」
更に、そう言いながら孟徳は微笑し、虎淵の震える肩を力強く叩いた。
二人を屋敷の門まで見送り、奉先の剣を胸に抱いて居室へと向かった孟徳は、扉を閉めると同時にその場に泣き崩れた。
両腕を床に突いて体を支えたが、力の抜けた体が重過ぎて、顔を上げる事も出来ない。
床に置いた剣を前に、孟徳は拳を強く床に叩き付けながら慟哭した。
「奉先…!どんな事があろうと、ずっと側に居ると…約束したではないか!約束は必ず守ると…!必ず帰って来ると、俺は…信じていたのに…!」
孟徳の瞳から零れ落ちる涙が剣刃を濡らし、室内に僅かに差し込む光に、悲しく輝いて見えた。
それから数日の後、孟徳は皇帝からの召喚を受け、朝廷へと向かった。
遂に、皇帝の悲願であった皇帝直属部隊の編成が決定したのである。
それは、" 西園八校尉 "と名付けられ、小黄門の蹇碩を始めとし、虎賁中郎将の袁紹、屯騎都尉の鮑鴻の三名を中心に据えたものであった。
冬十月には、平楽観(宮殿西側の西園にある演場)に於いて閲兵式が行われ、これには皇帝自らも甲冑を身に纏って騎乗し、自らを「無上将軍」と称して出席した。
任命された"西園八校尉"は、次の通りである。
上軍校尉―蹇碩(小黄門)
中軍校尉―袁紹(虎賁中郎将)
下軍校尉―鮑鴻(屯騎都尉)
典軍校尉―曹操(議郎)
助軍校尉―趙融
佐軍校尉―淳于瓊
その他、左右校尉があった。
彼らは皆、元々皇帝の身近に侍っていた者の中から、皇帝自らが選んだ人選である。
上軍校尉に、寵愛する宦官の蹇碩を据えた皇帝は、彼に司隷校尉以下を総領する権限を与え、その対象には、大将軍何進も含まれる。
何進、字を遂高と言うその人物は、屠殺業を生業とする家系であったとされる。
彼には美貌の異母妹があり、同郡出身の宦官に賄賂を送って、その後押しにより宮中に入った妹が貴人となった為、遂高は採り立てられて郎中となり、虎賁中郎将を経て潁川太守へと栄転した。
宋皇后が廃され、妹が皇后に立てられると中央に戻って侍中となり、河南尹となる。
その後、太平道の張角らによる" 黄巾の乱 "が勃発すると、何進は大将軍に任命され、近衛兵を率いて首都の洛陽を守備し、密偵の馬元義を捕らえるなどの功績を挙げた。
そんな自分が、宦官 蹇碩の足元に侍らせれるとあっては、遂高としては面白い筈は無かった。
だが、宦官に対して悪感情を抱いていたのは、彼だけでは無い。
中軍校尉に任命された、袁紹、字を本初という青年もその一人である。
四世代に渡り、三公(「太尉、司徒、司空」の三つの最高位 ) を排出した名門、汝南袁家の御曹司である彼は、快活な性格の持ち主で、眉目秀麗な美男子でもあった。
名門出身だが驕らず、謙虚な態度で人と接し、名声のある人物たちは好んで彼と交際した。
大将軍とは、互いに同じ意見を持っている事を確認し合い、彼らは常に密に連絡を取り合った。
西園八校尉は皇帝の思惑通りに機能し始めている。
皇帝は悲願を達成し、正に順風満帆であった。
そんな矢先である。
突然皇帝は病に倒れ、病床に伏せってしまった。
皇帝は、まだ三十代に入ったばかりの壮年で、まだこれからという時だった。
病臥する皇帝はある時、夢の中で先帝の「桓帝」を見た。
桓帝は目を瞋らせて皇帝を見下ろすと、次の様に述べたという。
「渤海王劉悝は廃された上、一族もろとも殺害された。宋皇后に何の罪があって命を絶たせた…?!宋氏と劉悝は上天に訴え、天帝は激怒している…!」
桓帝は、後漢光武帝から数えて、第十一代目にあたる皇帝であり、渤海王劉悝は彼の弟にあたる。
桓帝には男子がいなかった為、帝位は一族の河間王の系統である劉宏(現皇帝)に引き継がれた。
その為、皇帝になった劉宏は渤海王劉悝に対し、強い猜疑心を抱いており、宦官王甫を使って調略により一族を皆殺しに追いやった。
劉悝の妃が宋皇后と同族であった為、報復を恐れた王甫が讒言し、宋皇后は廃された上に無実の罪を着せられ暴室送りとなり、三族皆殺しの刑に処された。
間もなく、宋皇后も失意の内に獄死したのである。
その夢に恐怖し怯えながら、遂に皇帝は崩御してしまった。
この、後漢第十二代目の皇帝の諡号は、「霊帝」と言う。
"諡号"は、生前に成し遂げた事業、功績への評価に基づき決定され、死後に贈られる名前である。
諡号には様々な文字が当てられるが、「霊」「幽」「厲」「慇」等は、あまり良い意味とは言えない。
「霊」には、極めて悪いという訳では無いが、特に目立った功績が無い、といった程度のものであろうか。
彼の設立した" 西園八校尉 "は、前例の無い程完成度が高かったと言われるが、大将軍何進と宦官との反目は決定的なものとなり、皇帝崩御の後、間もなく分裂してしまった。
霊帝の抱いた夢は、彼の死によって雲散霧消してしまったのである。
皇帝には、何皇后との間に生まれた、劉辯(弁)の他に、何皇后によって毒殺された王美人の間に生まれた、劉恊という二人の男子があったが、皇帝の崩御はあまりにも突然で、どちらが後継者になるか明確に決められていなかった。
何皇后は太后となり、兄の大将軍と共に、皇帝が崩御すると急いで劉弁を新皇帝として擁立したが、劉恊を立てようと画策していた蹇碩と、母を亡くした劉恊を養育していた霊帝の生母、董太后らとの対立が激化した。
蹇碩は大将軍何進の誅殺を企てたが、逆に何進らの手に掛かって殺さてしまい、何進は更に弟の何苗らを使って董太后を雒陽から追放すると、驃騎将軍で董太后の甥、董重を自害させた。
その後、董太后も病を発し、憂悶の内に病死してしまうのである。
宦官の撲滅を目論んでいた袁本初は、今が好機と大将軍の元へ赴き、挙兵を促した。
実は、蹇碩を殺した時にも機は訪れた。だが、宦官たちが何太后に泣き付き命乞いをした為、計画は実行される事は無かった。
本初としては、今度こそこの機を逃したく無い。
しかし、何遂高は難しい顔を本初に向けた。
「宦官の数は多く、皆後宮に居る為手が出し辛い…後宮の事は、異母妹が取り仕切っている故、妹に相談せねば成るまい…」
そう言って渋る遂高に、
「悠長な事を言っていては、機を逃してしまいます!直ぐに諸将を呼び集め、挙兵しましょう!」
と、本初は険しい表情で迫ったが、彼は中々首を縦に振らない。
結局、遂高は再び妹の元へ向かい、相談を持ち掛けた。
彼女の目に映る宦官は皆、甲斐甲斐しく皇帝や自分に尽くしてくれている。彼女にとって、宦官は手足の様なものであり、それを排除するなど考えられない。
当然、何太后は宦官撲滅に異を唱えた。
本初は、完全に出鼻を挫かれている遂高の姿に歯噛みをしながら、大将軍の命と偽って各地に檄を飛ばし、地方の諸将を呼び集めようとした。
こうなったら、京師にいる同志たちに呼び掛け、強引にでも挙兵するしか無い…
そう考えた本初は、脳裏に浮かんだ人物の元を訪れる事にした。
「やはり、あの男に協力を依頼するか…」
夜半過ぎ、屋敷を密かに訪れた本初を迎え入れたのは、曹孟徳である。
居室へ入ると、本初は早速計画について、声を潜め口疾に説明した。
孟徳が宦官蹇碩と不和であった事を知っていた本初は、彼を仲間に引き入れる自信があった。
だが、孟徳は暫し黙して本初の口元を見詰めていたが、やがて目を上げ徐にこう切り出した。
「本初殿、宦官を甘く見ない方が良い。宦官撲滅は過去にも幾度と無く計画されたが、どれも失敗に終わっている…」
霊帝が即位した翌年、当時の大将軍で外戚の竇武、陳蕃らにより宦官撲滅計画が企てられた事があった。
しかし計画は宦官側に露呈し、反撃を受けた竇武は急いで兵を率いて対抗したが、結局宦官側に敗れ、竇武は自害し陳蕃は捕らえられ、処刑された。
「いつの時代にも宦官は存在しており、それ自体に問題が有るのでは無く、皇帝が宦官を信任し過ぎ、政治能力の無い者に実権を握らせる事が間違っているのだ。宦官を皆殺しにした所で、根本的な問題解決とは成らぬであろう…それに、今、地方の諸将を集めると言うのは混乱を招くだけだ…止めた方が良い。」
孟徳は更にそう続け、同時に本初の危うさを諌めた。
憤然とした表情で、本初は険しい目を彼に向けている。
「やはり…宦官を祖父に持つそなたとしては、この計画には賛同出来ぬか…!」
多少の皮肉を口調に滲ませながらそう言い返したが、孟徳は黙ったままである。
曹孟徳には気骨が有ると聞いていたが、彼の目の前に座る小柄で色白な、まだ美少年と呼べるこの若者からは、頼りなさしか伝わって来ない。
以前、皇帝廃立の計画が持ち上がった事があり、その時も本初は彼の元を訪れている。
孟徳は慎重な態度を示し、
「皇帝廃立は天下の一大事であり、軽率に口にするのは大逆である…!」
そう言って、協力を断っていた。
この男には、時勢というものが分からぬのか?!それとも、ただ勇気が無いだけなのか…?!
本初は、彼の態度に失望し苛立ちを覚え、思わず、
「お前には、本当に玉が付いているのか!?」
と怒鳴りたくなった。
しかし、そこはぐっと堪え、本初は握った拳を更に固く握り締めると、
「そうか…分かった。」
と冷静な口調で答えながら、孟徳に向けた鋭い眼光を静かに閉じた。
「大将軍には、呉々も警戒を怠らぬようお伝え下さい。宮中を出入りするのは極力控える様にと…」
居室を出て行く本初を見送りながら、そう言って孟徳は愁眉を寄せる。
本初は振り返り小さく頷いたが、内心彼の臆病さを嘲笑っていた。
「曹孟徳は、取るに足らぬ人物よ…」
屋敷を出て、夜空に霞んで見える月を苦々しい思いで見上げながら、本初は小さく呟いた。
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