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第四章 皇帝の崩御と激動の刻
第四十七話 大将軍暗殺
しおりを挟む袁本初が各地に送った檄に呼応した者の中には、西涼の董仲穎の姿もあった。
涼州での反乱鎮圧後、扶風に駐屯していた仲穎は、そこから常に京師の様子を伺っていた。
面白くなりそうだ…
仲穎は野性的な勘を働かせ、京師でこれから起こるであろう、血生臭い事件の臭いを既に嗅ぎ付けていた。
いつでも兵を動かせるよう準備しておく必要があると、仲穎は配下たちに命じて兵を集めた。
その頃、雒陽へ向かっていた丁建陽もまた、部下の張文遠に指示を出し、河北で募兵を行った。
舞台は整いつつある。いよいよだな…
本初は自らも兵を集め、いつでも挙兵出来るように準備していた、そんな時である。
「今、何とおっしゃいました…!?」
本初は何遂高の居室で、思わず素っ頓狂な声を上げた。
「だから…宦官どもがわしに、赦しを請いたいと申し出ているそうなのだ。」
「お、お待ち下さい、大将軍…!これは、罠かも知れません!」
本初は慌てて、遂高の前へ立ち塞がった。
遂高は身支度を整えると、僅かな従者と共に何太后の元へ向かう積もりらしい。
その日、何太后からの使者が訪れ、張譲を始めとする中常侍たちが、これまでの大将軍に対する数々の無礼や態度を悔い改めたいと、太后に涙ながらに訴えたと言う。
更には、大将軍の日頃の労を労う為のささやかな宴を用意してあるので、嘉徳殿までお越し願いたいと申し出た。
「罠なら、蹇碩と同じく、返り討ちにしてやれば良い。宦官など、恐るるに足らぬ。」
遂高は余裕の表情で、額に汗を浮かべる本初の顔を、見下す様な目付きで一瞥する。
それには本初もやや苛立ったが、このまま遂高を行かせる訳には行かない。
「では、私が護衛の者と同行致しましょう…!」
「それでは、余計に宦官たちに不審感を抱かせる事になろう。わし一人で行く方が良い。心配するな、奴らにわしを殺す勇気など有るものか!」
そう言って笑い声を上げる遂高に、本初は尚も食い下がる。
「大将軍、宦官を甘く見ない方が良い…!」
そう叫んだ時、本初は自分で言った言葉に、はっとして驚いた。
だが、遂高は彼の慎重さを嘲笑う様な目を向けている。
それでも、本初の顔を立ててやるか…という気になり、彼と袁術、字を公路と言う、彼の異母弟に率いさせた五百の精兵を護衛として、何太后と中常侍たちの待つ嘉徳殿へと向かう事を了承した。
遂高の命は最早、風前の灯である。だが、等の本人は全く危機感を抱いていない。
こうなっては、万が一の事態に備えておく必要がある。
「孟徳殿、そなたの不安は的中した…!大将軍はこれから、何太后と中常侍の待つ嘉徳殿へ向かうお積もりだ。共に大将軍の護衛として同行してくれまいか?!」
本初は急いで曹孟徳の元へ走り、共に大将軍の護衛として参内するよう願い出た。
青褪めて話す本初に強く頷くと、
「分かった。では、急いで参ろう!」
と、孟徳は直ぐに理解を示し、本初と共に遂高の元へと向かった。
遂高は本初と孟徳を左右に侍らせ、袁公路の五百の兵士と共に長楽宮の前までやって来た。
そこへ勅使が現れると、
「これより先は、大将軍の為の宴席であり、他の方々は門の外で待つように。」
と告げる。
「勅使の申し出では、致し方ない。本初殿、孟徳殿、此処で待っていてくれ。」
二人を振り返りながら言うと、不安な眼差しを向ける二人に、遂高は余裕を見せ付ける様に微笑んだ。
斯くして、遂高は一人何太后の待つ嘉徳殿へと向かう事となった。
遂高が嘉徳殿の門前までやって来た時、突然現れた何者かの黒い影が、彼の行く手を塞いだ。
見ると、それは中常侍の張譲である。
遂高は訝しがって、張譲を睨み付けた。
「何だ、わしを暗殺する積もりで来たのか?馬鹿め…門の外には、袁本初と五百もの兵が待機しておるのだぞ!わしを殺せば、お前も即刻、死ぬ羽目になる…!」
遂高は凄みのある声でそう言い放ち、怖じける様子は見せない。
それに対し、張譲は目を瞋らせて言い返した。
「何進、お前は我々宦官のお陰で、大将軍にまで出世する事が出来たのに…その恩を忘れる所か、仇で返そうとは、恥を知れ!」
その直後、伏せられていた兵たちが一斉に現れ、驚いた遂高を忽ち宦官段珪、畢嵐が率いた兵たちで取り囲むと、張譲は狼狽える遂高の背後から、一気に彼の体を剣で貫いた。
異変はやがて、門の外で待っていた本初と孟徳らにも伝わった。
本初は激しく門を叩き、門衛に門を開くよう怒鳴った。
すると、開かれた門の隙間から、首だけになった遂高が転がり出て来る。
「よくも、大将軍を…!!」
それを見た本初は目を吊り上げ、怒りを顕にすると、門をこじ開けて宮中へと突入した。
袁公路に率いられた五百もの兵たちも、次々とそれに続く。
嘉徳殿の門前まで来たが、既に張譲らは逃げ去った後だった。
本初は宦官と見ると全ての者を斬殺しながら、後宮へと押し入って行く。
髭の無い者は皆、宦官であろうと無かろうと、本初は容赦無く斬り捨てた。
「天子の身を確保するのが先決だ。俺は、陛下と太后を探し出して来る!」
孟徳はそう言いながら、そこで本初と別れ、皇帝と何太后の姿を探して回った。
やがて宮殿の一室で、何太后の姿を発見した孟徳は、彼女に走り寄った。
何太后は酷く取り乱し、孟徳の腕を強く掴むと声を上擦らせて泣き叫ぶ。
「弁を…!陛下を取り戻して!張譲たちに、連れて行かれた…!」
「大丈夫です、陛下は必ず連れ戻します。ご安心下さい!」
そこへ現れた袁公路の軍に何太后の身柄を預け、孟徳は皇帝を連れ出したと思われる張譲たちの後を追った。
張譲らは遂高を殺害した後、宦官側に昵懇していた少府の許相と太尉の樊陵を利用し、京師の兵を掌握しようと試みたが、偽造した詔を怪しまれ、遂高の部下たちに反撃を受ける形となった。
そこで彼らは、自らの保身の為、皇帝と弟の陳留王(劉恊)を奪い、城外へ逃れようとしたのである。
既に夕暮れに近付き、辺りは次第に薄暗くなって行く。
張譲らは、皇帝と陳留王を連れ出し、抜け道を通って宮殿から逃れると、城壁に梯子を掛けてそこをよじ登った。
「張譲、母は何処におられる?」
「母君の事はご心配に及びません…!さあ、陛下も早く!」
不安がる皇帝を、張譲は半ば強引に梯子へ押し上げる。
反対側には縄を垂らして、そこを降りるしか無いが、流石にその高さに尻込みをして、皇帝は中々降りられずにいる。
張譲は自ら皇帝を背負い、帯で強く互いの体を縛り付け、縄を伝って城壁を降り始めた。
残りの宦官たちも陳留王を背負い、同じように下へ降りて行く。
遂に城外への脱出に成功した彼らだが、次は城内での異変を察知し兵を率いて乗り込んで来た、呉匡、盧植らの兵に追撃される事になった。
彼らは徒歩で、皇帝と陳留王を引き摺るようにして走ったが、やがて洛水のほとり、小平津関の辺りまで来ると、遂に進退窮まり、張譲と宦官の残党たちは皆、皇帝の前に跪いて涙を流し歎いた後、次々に洛水へ入水して命を断った。
まだ十二歳の幼い皇帝である。
その壮絶な光景に恐怖し、どうすれば良いか分からなかった。
傍らには、座り込んで泣いている九歳の陳留王の姿がある。
皇帝は弟の手を引くと、裸足のままで洛水のほとりを彷徨い歩いた。
靴は、張譲らに引っ張られて逃げる途中で失ってしまっていた。
泣きべそをかいて歩く陳留王の手を握る皇帝は、自分も泣き出したいのを必死に堪えながら、一刻も早く母の元へ帰りたい一心で歩いた。
二人は、周りの大人たちが反目し合っている事は知っていたが、彼ら自身が決して仲が悪かった訳では無い。
寧ろ、皇帝は弟の劉恊をとても可愛がっていたし、劉恊は口数の少ない子であったが、兄には良く懐き、兄の前では笑顔を見せて話す事もあった。
やがて夕闇の中に、雒陽へ向かって進んで行く何処かの軍勢の姿が浮かび上がり、皇帝はこれで宮殿へ戻れると喜んで、陳留王の手を引っ張りながらそちらへ向かって走った。
「おい、何処の童子だ!あっちへ行け!」
駆け寄る皇帝と陳留王を見た兵士は、訝って二人を槍の柄で追い払おうとした。
二人は泥に塗れており、一見すると物乞いか何かの様に見える。
「待て、そこの二人を連れて来い!」
軍勢の先頭を進んでいた男が野太い声を上げ、部下に命じる。
二人の童子は兵士に腕を掴まれると、先頭に立つ男の前へと連れて来られた。
皇帝は大きな馬に跨がったその大男を、恐る恐る見上げた。
屈強な体格のその大男は、鋭い眼光で二人を見下ろしている。
暫し黙して、まじまじと二人を見ていたが、やがて低い声を発して言った。
「そのお姿は、皇帝陛下とお見受けした。何故、この様な場所におられるのか?」
男はその少年を皇帝と認めながらも、沸き上がった疑問を不躾に投げ掛ける。
怯えた皇帝がまごついていると、そこへ、
「陛下!!」
と、叫びながらこちらへ走り寄って来る、一騎の騎馬がある。
馬から飛び降りた人物が走って皇帝の側へ行こうとするのを、馬上の大男が部下に止めさせた。
戈や戟を携えた兵士たちが、その人物の前を塞ごうと駆け寄る。
だが、彼は素早く腰の剣を抜き放ち、兵士たちの戈や戟を目にも止まらぬ速さで弾き飛ばした。
それには兵士たちも度肝を抜かれ、慌てて武器を構えると、数名で遠巻きに彼を取り囲む。
兵士たちに取り囲まれながらも、その男は馬上の大男を鋭く睨み付け、
「董仲穎殿、陛下の御前で馬から降りぬとは、無礼であろう!?」
そう怒鳴り声を上げた。
生意気な…
そう思いながらも、仲穎はふてぶてしく跨がった赤兎馬から降りると、兵士に取り囲まれた人物に歩み寄った。
「誰かと思えば、曹孟徳殿ではないか…!わしは陛下を保護し、これから宮殿へお連れする積もりだったのだ…!」
仲穎はそう言って部下たちを下がらせながら、敵意が無い事を示そうとした。
「ならば、その役目は終わった。陛下は俺がお連れする。仲穎殿は、速やかに兵を率いて涼州へ還られよ…!」
だが、孟徳は仲穎を警戒している。
剣を構え、敵意を剥き出しにして彼を睨み付ける。
「わしは、大将軍に呼ばれて此処まで来たのだ。呼んでおいて還れとは、納得が行かぬ…!」
「大将軍は、宦官どもに騙し討ちをされ、命を落とされた。それに、宮殿内の宦官たちを袁本初が一掃し、雒陽は今混乱の坩堝と化している。今更行っても無駄である!」
孟徳は、何としても彼を雒陽へは入らせたく無いらしい。
だが、仲穎としては折角手に入れた皇帝を、みすみす手放したくは無い。
「では、尚更わしが必要であろう?天子はわしに助けを求めたのだ。今、天子を庇護しているのは、このわしだ。歯向かうなら…そなたを逆臣として誅殺せねば成らぬが…? 」
孟徳を見下ろしながら、仲穎は傲慢さを漂わせ、ふんっと鼻を鳴らして笑った。
「………」
孟徳はそっと首を動かし、皇帝と陳留王に視線を送った。
二人は仲穎の兵士たちに囲まれ、怯えながら体を寄せ合っている。
止むを得ぬ…
強く唇を噛み締めた後、孟徳は瞼を閉じながら、ゆっくりと剣を鞘へしまった。
「分かった…では、共に雒陽の宮殿までお供しよう…」
そう言うと、乗って来た馬に跨がり、仲穎の部隊を先導するように先頭を進みはじめた。
仲穎は部隊の兵士に指示を出し、皇帝と陳留王を馬に乗せると、先導する孟徳の後を付いて行かせた。
一足遅かったか…!
あと一歩の所で、皇帝を保護する事が出来なかったばかりか、選りに選って、最も会いたく無い相手に出会ってしまったものだ…
あと数歩でも早く辿り着いていれば、自分が皇帝と陳留王を保護出来ていた筈である。
だが、今更悔やんだ所でどうしようも無い。
皇帝は最早、董仲穎の手に握られてしまったのである。
すっかり闇に包まれ、僅かな星明かりの元、遠くにぼんやりと佇んで見える雒陽の城壁を見上げながら、孟徳は馬上で悔しさを噛み締めた。
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