ランゲルハンス島奇譚(3)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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四章

十二節

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 朝食を終え、膝にアメリアの左腕を乗せたシラノとメドゥーサはコーヒーを飲んでいた。窓の外から樹々のざわめきや小鳥の鳴き声が聞こえる。シラノがぼうっと樹々を眺めていると蹄の音が近付いて来た。どうやらアレイオーンが戻ったようだ。

「……で、何故こんな所まで来たの?」瞳を伏せたメドゥーサは問うた。

 窓から首を差し入れたアレイオーンを見遣るとシラノはランゲルハンスの手術から今までの経緯を搔い摘んで説明した。

「……ハンスさんが手術?」メドゥーサは問う。

「かつて反目し合っていた土の精霊を心臓から摘出したらしい。んでそいつが逃亡したから俺は追ってるんだ。そしたら道中エリニュスのティシポネに目をつけられてよ。命からがら逃げて来たんだ」

「復讐の女神に目をつけられたって……あなた、人殺し? しかも肉親の」

「記憶が戻ってねぇから何とも言えねぇがそうなんだろうな」シラノは脚を組む。

 メドゥーサは目の端で右を見遣り、考えを巡らす。

「……エリニュスが口を挟むって事は、この島の管轄神が変わったのかもね」

「あんだそれ?」

「あたしがこの島に来る以前……大昔の話なんだけど、当時の管轄神はヘカテだったの。それが死神タナトスの始祖であるローレンスと結託したハンスさんが問題を起こしてハデスに目をつけられた。ハデスはヘカテ抜きの裁判を起こして管轄権を取り上げたのよ。それからこの島の運営にハデスも噛むようになったの」

「ほう」

「ライル島とランゲルハンス島間の渡航の禁止、現代兵器の所持の禁止……色々禁止事項がハデスによって設けられた」

「……まるで反旗を翻されるのを恐れているようだな」

「良く言えば慎重、悪く言えば臆病よ。本来ならボスを務めるような器ではないわ。彼は政治にある程度口出しして己の身の安全を計っていたの。でも心優しい所もあるわよ。……この島には人を殺めた魂も存在する。エリニュスがこの島に来ないように計らっていたの」

「しかし管轄権が委譲されてエリュニュスが来るようになった、と」

 窓から首を差し入れていたアレイオーンが忙しなく耳を動かし、視線を彷徨わせ鼻を動かす。

「……んだよ。屁なんてこいてねぇぞ」シラノは鼻を鳴らした。

「雨の匂いがする」

 ソファから立ち上がったメドゥーサは窓から空を覗く。空は厚い雲で覆われ今にも泣き出しそうだ。耳を澄ますと遠雷が聴こえた。

「……息子が来るわ」

 アレイオーンとシラノは互いを見合わせた。メドゥーサは玄関へ向かい外に出る。シラノもアメリアの左腕を掴むと後を追う。

 ポーチを出るとシラノとメドゥーサの頭を雨粒が濡らした。パラパラと針先が当たる程度に降っている。いつの間にか遠雷は止んでいた。

「おい。雷止んじまったみてぇだぞ。本当に来るのか?」

「来るわ。あの子は優しい子だもの」

 メドゥーサは遠くを見据えた。すると視線の先に輝くものが現れた。光は徐々に大きくなる。どうやらこちらに近付いるらしい。

「家に入った方がいいんじゃねぇか? 雷運んでるなら打たれるだろ。黒焼きなんてごめんだぜ」シラノはメドゥーサを見遣る。

「大丈夫よ。私の許を訪れる時は荷を空にしてるもの」

「孝行息子だな」

 光の塊が目前に迫り、着地する。辺りは小雨が降っているのにも関わらず光に包まれる。光の中から金色の粒子を放つ白馬が現れた。白く逞しい翼を背に生やした天馬ペガソスだった。彼は黄色いカシアの花を咥えていた。

 メドゥーサは唇に微笑を浮かべるとペガソスに歩み寄り、目の下にキスを落とす。

「久し振りね」

「元気そうだな。笑っているのを久し振りに見た」ペガソスはメドゥーサの頬を鼻先で突ついた。

「息子に会ったんだもの。当然でしょ」

「この前は笑っていなかった」

「そうかしら?」

「俺以外に顔を見ても石化しない者達に出会えたからだろう」

 ペガソスはアメリアの左腕を掴んだシラノとアレイオーンを見遣った。シラノは片手を挙げ、アレイオーンは耳を動かした。

 アメリアの左腕をペガソスは見据える。

 メドゥーサは鼻を鳴らした。

「それで今日はどんな話を聞かせてくれるの?」

 ペガソスはメドゥーサの蛇頭にカシアの花を刺す。

「珍しく冥府で動きがあった。オリュンポスもその話題で持ち切りだ」

「何?」

「この島の管轄権がハデスからヘカテに委譲された」

「何故?」

「知らない。しかし急に返還されたらしい。その報告にヘカテがオリュンポスに来たんだ。俺は丁度、ゼウスの親爺の雷を積載している所で耳に挟んだ。現在この島の主であるランゲルハンスと連絡がつかないらしい」

「心臓の手術をしたらしいわ。体力も魔力も空だからそうそう起き上がれないでしょう」

「そうだったのか」ペガソスは鼻を鳴らした。

 母と息子の会話を眺めていたシラノは口を開く。

「よう。お前は何処から来たんだ?」

 ペガソスはシラノを見遣ると鼻を鳴らす。

「何処からって……オリュンポス山と言っただろう」

「いや、この島に雷を運んだんだろう? 何処を回ったんだ?」

「南の街だ」

 シラノとアレイオーンは互いを見合わせた。ヴルツェルは南へと逃亡した筈だ。

「道中ブロンドの男を見かけなかったか? 色白の美丈夫で耳がユリの蕾みてぇに尖ってる奴だ。そいつが悪魔のおっさんの心臓から引き剥がされて逃亡したんだ。俺達はそいつを追いかけてるんだ」シラノは問うた。

「色白……見かけたな。南の街で見た。あそこは気候が良いので浅黒い肌が多い。あの街じゃ白い肌は目立つ。男の顔なんざ興味はないから記憶はしてないがガタイが良くて耳が異様に尖っていたのは覚えている」

 南の街か。シラノは眉間に皺を寄せた。馬を走らせても幾日も掛かると言うのにヴルツェルはたった一日で遠方に身を潜めたと言うのか。普通の人間じゃ到底考えられない業だ。魔術か何かを使って辿り着いたのだろうか。

 思案するシラノをアレイオーンは見遣る。するとシラノは気付いた。男達は互いを見遣ると頷いた。

「サンキュな」シラノはペガソスに微笑んだ。

「助かる」アレイオーンは首を下げた。

 ペガソスはシラノに握られたアメリアの左腕に微笑んだ。

 挨拶も程々にアメリアの腕と共にアレイオーンに騎乗したシラノはメドゥーサの家を後にした。シラノ達の背を見送るとメドゥーサは小さな溜息を漏らした。

「嬉しそうな表情から一転、寂しそうだな」ペガソスは母を見遣る。

「うるさいわね。……ちょっとばかり楽しかったから」メドゥーサは唇を尖らせた。

「石化しないのは息子ばかりではないと希望を持てただろ? これを機に少し外界に触れてはどうだ?」

「やあよ」

「休暇を申請して島の空をお袋殿と共に駆け巡るのも乙だと想うのだがなぁ」ペガソスは苦笑した。

 メドゥーサは鼻を鳴らした。



 シラノとアメリアを乗せたアレイオーンは雑木林を抜け、集落を通り過ぎる。茜や風花の品種が棚から下がる広大なぶどう畑、ディオニュソスのワイナリーを通り過ぎる。久し振りに遠方まで走ったアレイオーンが疲れたので、せせらぎで休憩をとった。水がたゆたい流れ、単調なリズムを刻む。時折樹々の間から鳥が鳴き、長閑な静寂を破る。

 シラノはブーツを脱ぐとせせらぎに入り、伸びをする。そして屈んだ。清水をすくい、顔を洗おうとするが長い鼻が邪魔をしてまともに洗えない。

 それを横目にアレイオーンは水を飲む。少しふらつくようで蹄の音が幾度となく聞こえる。

「……そういや朝、散歩に出たようだが飯喰ったのか?」顔を洗い、袖で拭ったシラノが問いかける。

 せせらぎからアレイオーンは顔を上げる。

「……いや」

「馬って大飯喰らいだろ? 牧草地があるなら寄ろうぜ」

「なんだ? 俺の心配をしているのか?」

「悪ぃかよ」シラノは鼻を鳴らした。

「別に」

 鼻を鳴らしたアレイオーンは尾を振る。

「お前がそこまで言うのなら寄ってやっても良い」

 シラノは悪戯っぽく微笑む。

「……ありがとな。俺のわがままに付き合ってくれてよ」

「……ヴルツェルの潜伏先が分かったなら引き返してもいい所だが、お前は考えがあって追いかけているのだろう?」

「ああ。……屋敷で刃物を持ったヴルツェルに声を掛けた時、あいつはこう言って逃げたんだ。『ハンスが居れば救えたのに』ってな。刃物を持っていたが殺意は無い。アレはただの手段だ。あいつは何かを成そうとしているんだと瞬時に分かった。……俺は俺で成したい事がある。だから同じ境遇の奴を放って置けない。ヴルツェルは何かを救おうとしている。俺はそれを見届けたいんだ」

「……酔狂な奴だな」

 シラノは鼻を鳴らす。

「放っとけよ。……それでもお前は付いて来るか?」

「……アメリアがお前に付いて行くと言うんだ。なら俺も付き合ってやるしかないだろう」

「まーあ! 可愛くないお馬ちゃんでちゅねぇ」

「やめろ。気色悪い」

 岸辺の岩に座し、シラノとアレイオーンのやり取りを眺めていたアメリアは微笑んだ。

 ……良かった。シラノとアレイオーンが打ち解けて。

 口喧嘩に熱が入り水を掛け合う男達を眺めていると、アメリアの頭上に大きな影が差した。咄嗟に身構えようとするが苔むした岩に滑り、アメリアはバランスを崩した。彼女の首をティシポネが鞭で捕え、彼女を片腕で抱えた。

「昨日はよくもやってくれたな!」コウモリの翼を広げ凄まじい形相をしたティシポネは宙に舞い上がる。

 シラノとアレイオーンは振り返る。しかし誰もいない。シラノは辺りを見回す。

 アレイオーンは空を仰いだ。そこにはティシポネの片腕に首を絞められたアメリアがもがいていた。

「アメリア!」アレイオーンは耳を絞る。

「クソ! 降ろせ! 狙いは俺だろ!?」空を仰いだシラノは叫ぶ。

 苦痛に歯を食いしばり、ティシポネの片腕にアメリアは爪を立てる。しかしティシポネは涼しい顔でシラノを見下ろす。

「そうだ。吾が欲するのはお前だ。小娘とお前を交換すると言うのなら離してやっても良い」

 シラノは唇を噛み締めた。……志半ばで命尽きるのは嫌だ。しかし自分の所為で誰かが犠牲になるのはもっと耐えられない。

「お前は肉親殺しを罰する神さんなんだろ? お前の仕事は最もだと想う!」

 ティシポネは眉を顰めた。シラノは叫ぶ。

「記憶が戻っていないとは言え、殺人を犯した俺は罰せられるべきだ! 俺はお前に魂を委ねよう! だが少し待ってくれ!」

「馬鹿を言うな! 逃げるつもりだろう?」ティシポネは腕に力を掛け、アメリアの首を締め上げる。

「ステュクス河に誓って俺は逃げない! 俺は成さなければならない事がある!」

「何だと言うのだ?」ティシポネは睨む。

「俺は悪魔の心臓から引き剥がされ逃亡したヴルツェルの魂を救ってやりたい! 人と人、神と神が理解出来ないまでも互いを尊重する島にしたいんだ!」

 シラノはティシポネを見据えた。

 ティシポネは鼻を鳴らす。

 ……ステュクス河にも誓いを立てた。どうやら出任せを言っている訳では無さそうだ。信じてやっても良い。しかし昨晩のあの凄まじい臭気を放つ缶詰の件は忘れられない。未だに胸中に冷たい炎が燃え盛っている。あれは神とて許せぬ。

 シラノを睨んだティシポネは片腕をアメリアの首から離した。アメリアは音を立てて地に落ちた。

 シラノの視界の端でアレイオーンがアメリアの左腕に駆け寄る。

「アメリア! アメリア、大丈夫か!?」

 鼻を寄せるアレイオーンにアメリアは咳き込みながら頷いた。

「ありがとな」地に降りたったティシポネにシラノは笑みを向けた。

 しかしティシポネは鞭を振るい、シラノの首を捕える。そして状況を把握する暇を与えずシラノの顎を殴り飛ばした。舌を噛み、脳震盪を起こしたシラノは失神する。

 ──止めて!

 地に臥せったアメリアは立ち上がろうとするが首に激痛が走り立ち上がれない。

 しかしティシポネはシラノの蹂躙を止めない。首に巻き付いた鞭はティシポネが攻撃を加える度にピンと張り、唇から血を流すシラノが地に伏せる事も許さない。

 見かねたアレイオーンが前脚を上げてティシポネに飛びかかろうとする。ティシポネは何事か呟いた。アレイオーンは彫像のように固まって動けない。

「何をした!?」アレイオーンは叫ぶ。

「神力を使った。辺鄙な島で使いたくなかったがな」

 嘲笑したティシポネはシラノの首から鞭を離す。そして地に転がったシラノに跨がると殴打する。

 吐き気と痛みに呼び覚まされたシラノは瞼を開ける。するとティシポネが彼の長い鼻を殴り飛ばした。嫌な音と共に激しい痛みに襲われる。

 ティシポネは私刑を止めない。アメリアは泣き叫ぶ。アレイオーンは悔しさに空へ嘶く。

 それでもシラノが瞼を開けると二重三重にダブつくティシポネが見えた。それも束の間でまた殴打された。何事か叫んでいるようだがよく聴こえない。辺りがやけに眩しい。深い深い霧の中で大怪我を負いつつ彷徨っているような気分だった。

 ……俺、このまま死ぬのかな。いつだったかボッコボコにされたよな。仲間だったかな……親父だったかな。ああ畜生。死んじまえよクソ親父。

 眩しくも薄目を開けていると遠くで乙女の声が聴こえた。何事か叫んでいる。鞭が空気を裂いた音が聞こえた。そして金属が打ち合う音が聞こえたかと想えば、いつの間にか私刑が中断されていた事に気付いた。

 動けねぇ。

 今にも瞼が下りそうだ。

 それでも懸命に薄目を開いていると、誰かが覗き込むのが分かった。

 ティシポネか?

 頬に暖かい雫が当たる。懸命に焦点を合わせると美しい乙女が見えた。闇のような黒髪にツンと澄ました唇、そして青白く光る瞳から沢山の涙を流した、子猫のように愛らしい乙女だ。

 イポリトは恥ずかしそうに微笑むと瞼を下ろした。
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