ランゲルハンス島奇譚(3)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(下)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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四章

十一節

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 その日からアメリアとアレイオーンの暮らしは始まった。彼女は生活基盤よりも先にアレイオーンの身辺を整えた。彼女はランゲルハンスから魔術をある程度習っていた。遣い魔を呼び寄せ、破れ放題になっていた温室を壊すと馬小屋を設えた。

 建材の調達はアレイオーンを街へ遣いに向かわせた。街の人々の好奇の目に晒されるのは嫌だった。しかし自分の為に馬小屋を造る彼女の為だと己に言い聞かせ、材木屋で買い物をした。ケンタウロスのタクシー社員であるコードバンが偶々材木屋に居合わせていた。彼はディオニュソスに仕えるケンタウロスの孫で、ランゲルハンスやニエを頻繁に乗せていた。心優しいコードバンはアレイオーンの背に建材を載せてやった。アレイオーンが礼を述べると、コードバンは笑顔で『アメリア嬢ちゃんとニエちゃんに宜しく』と応えた。

 荒れ地に戻るとアレイオーンは遣い魔に荷解きさせ、馬小屋の建築を手伝った。アレイオーンと遣い魔に助けられ、三日目の晩にアメリアは馬小屋を完成させた。彼女は『これで休める所が出来たね。ずっと一緒にいられるよ』と微笑むと完成したばかりの馬小屋で眠ってしまった。

 寝息を立てる彼女に藁をかけてやるとアレイオーンは馬小屋から夜空を見上げた。心を砕き微笑みを向けるアメリア、冷静でありつつも奥底では優しいランゲルハンス、親切なケンタウロスのコードバン……そんなに悪い者ばかりではないようだ。未だに街では自分を嘲笑する者がいる。しかし心優しく接する者もいる。数は少ないだろうがそんな者の為に生きたい。

 しかし何故、自分は人間が嫌いなのだろうか? 熟考するが答えは見つからない。やはり現世で酷い目に遭い、人間嫌いになったのだろう。それを考えると記憶を取り戻したくなかった。酷い目に遭ったのならば現世に戻りたくない。彼は記憶の糸を無理に手繰り寄せるのをやめた。

 数週間が過ぎ、生活が落ち着いた。アメリアが暮らす元空き家は彼女の父の物だった。彼はそこで花屋を営んでいた。広大な庭は花畑として設えられていた。彼女は花畑の手入れをした。時折訪れる軽薄そうな長髪の男や叔父に剣術や武術を習い、アレイオーンに騎乗し海へ向かっては人魚に水泳を習っていた。

 アメリアが剣術や武術の稽古に励む間、アレイオーンは荒れ地を駆け回っていた。ある程度速度を出せるようになったが、それでも現役で働くケンタウロスには劣った。

 週末の昼にはユウが訪ねた。彼女は愛娘の為に料理し、お菓子を作りアレイオーンのブラッシングをする。彼はアメリアの母であるユウにも心を許した。きっと父のローレンスと言う男も優しいのだろう。

 慎ましく穏やかに暮らすアメリアとアレイオーンにも季節は幾度となく巡った。夏は海で水と戯れ、秋は中央部のワイナリーで収穫とブドウ踏みを手伝い、冬は白い息を吐きつつ馬小屋で本を読み聞かせるアメリアをアレイオーンは眺め、春は白く儚い花を咲かせるアーモンドの樹を見に行った。日に日にアメリアの背が伸びる。以前はアレイオーンの手助けが無ければあぶみに足をかける事も出来なかったのに今は軽々と騎乗する。すらりと背が伸び、程よく筋肉が付き、胸も豊かに膨らんだアメリアは少女から美しい乙女になった。彼女を背に乗せたアレイオーンが街へ向かうと好奇の視線ではなく、羨望や憧憬の眼差しを浴びた。美しい乙女の従者として街の男達はアレイオーンを羨ましがった。

 アレイオーンもアメリアに恋心を抱いていた。正義感が強くひたむきで、学問と芸術を愛し、花を愛し、武術や馬術をそつなくこなすアメリアを愛していた。しかし彼女はアレイオーンや街の男達の胸中など知らなかった。

 膝を折り、想いを打ち明ける者も多数居た。しかし彼女は『あたしまだ子供だし、アレイオーンと走るのが大好きだからその時間を大切にしたいの』と断った。アレイオーンは反感を買ったが、愛する女に選ばれたようで嬉しかった。

 ある日、街で用事を済ませようとアメリアがアレイオーンの背に揺られていた。するとケンタウロスのドロテオにアレイオーンは揶揄われた。『トロい癖に女乗せてヘラヘラ笑ってだらしねぇな』と。嘲笑され慣れていたアレイオーンは無視したが、アメリアは癇に障ったらしい。彼女はアレイオーンの制止を振り切り下馬するとドロテオに詰め寄った。

「聞き捨てならない。アレイオーンはとても傷つくわ。謝って!」アメリアはドロテオを見上げると睨んだ。彼は以前アメリアに振られた男だった。

「事実を言ったまでだろ」ドロテオは愛らしい顔で睨むアメリアに向かって口笛を吹いた。

「アレイオーンは誰よりも速いもの。穴に落ちたあたしを引っ張り上げて稲妻よりも速く駆けたわ」

 堪え切れんとばかりにドロテオは大声を上げて笑った。

「稲妻よりも速い? 嘘吐くなよ。ノロノロ常歩してる所しか見た事ねぇぜ」

「嘘吐いてない! 街の往来は人が居るから想い切り走れないもの。本当は速いわ!」

「そんなの知らねぇな」ドロテオは鼻を鳴らした。

 彼の不遜な態度がアメリアの正義感に火を点けた。彼女の性格を熟知するアレイオーンは襟首を咥えて制止を試みる。しかし頭に血が昇った彼女は振り払い、叫んだ。

「分かった! じゃあ競争しましょ! 三日後のこの時間、街の外れから中央部のワイナリーへ先に着いた方が勝ち。敗者は勝者の言う事を無条件に聞くって事でどう?」アメリアは睨む。

 ドロテオは鼻で笑う。

「は? 俺に利点がねぇな? 負馬に言う事を聞かせても面白くねぇな」

「じゃあ、もしアレイオーンが負けたらあたしが言う事を聞くわ」

 ドロテオはいやらしい眼付きでアメリアを見下ろす。ツンと澄ました小さな唇や豊かに実った胸、男を知らない下腹を蹂躙出来るのなら悪くはない。

「いいだろう。俺が勝ったらお前を好きにする」

「いいわ。アレイオーンが勝ったら彼に謝ってよ?」

「ステュクス河に誓えるか? そしてこの往来で!」ドロテオはアメリアの顔を覗く。

 アレイオーンは襟首を咥えて彼女を止める。しかし彼女は手を挙げると往来に向かって大声で宣誓する。

「ステュクス河に誓って負けたらドロテオの言う事を聞くわ!」

 ドロテオは嫌な笑みを浮かべる。突然大声を出した美しい乙女に驚き、往来の人々はドロテオと彼女を取り囲む。人々に一連の出来事をドロテオは説明すると、アメリアと同じく往来に向かって宣誓した。

 帰り道、アメリアを背に乗せトボトボとアレイオーンは常歩する。

「……お前は馬鹿だ」

「ごめんね、喧嘩に巻き込んで。でもアレイオーンが侮辱されるなんてどうしても許せなかったの」アメリアは眉を下げた。

「……あんなに速く疾駆したのは一度きりだ。あんな下衆な男にお前が処女を捧げるなんて俺は嫌だ」

「アレイオーンが負けるなんて想ってないわよ!」アメリアはアレイオーンの腹を蹴った。

「……あの時のように速く走れるかどうか分からない」

「大丈夫だよ」アメリアはアレイオーンの首に体を寄せると囁いた。アメリアの芳香が鼻腔をくすぐる。鼓動を高鳴らせたアレイオーンは立ち止まる。

「……何故、大丈夫だと?」

 アメリアは微笑む。

「だってアレイオーンにはあたしがいるから」

 帰宅したアメリアは待ち構えていたユウに三度も頬を打たれ、ランゲルハンスに溜め息を吐かれた。どうやら二人共、街での一件を聞き知っていたようだ。ユウは感情的になって喚き散らした。一方ランゲルハンスは『一度吐いた言葉は取り消せない。その上、神でも誓いを破れば恐ろしい目に遭うステュクス河に安い誓いを立てるなぞ呆れ返る』と呟いた。ニエに氷水で冷やしたタオルを頬に当てがわれ、アメリアはランゲルハンスの説教を聞いた。

 勝負の日、スタート地点の街の四辻にあるヘカテ女神像の周りは島民で賑わっていた。先日の一件が広まったようだ。皆、ステュクス河に誓った美しい乙女と彼女を奸計に嵌めた男を一目見ようと集まっていた。群衆の最前列にはユウが佇んでいた。小柄な彼女はスタートラインに着いた鞍上の娘を鋭い目つきで睨んでいた。

「母さん、睨んでる。まだ怒ってるみたい」横目で母を見遣り苦笑するアメリアは囁く。

「……『絶対に勝て』と念を送ってるのだろうな」アレイオーンは瞳を伏せる。

「そんな事されたらプレッシャーかかるわよ。ハンスおじさんみたいにゴールのワイナリーで待ってる方が、気が楽だわ」

 溜め息を吐いたアメリアにドロテオは声をかける。

「よう。今夜お前を喘がせるのを楽しみにしてるからな」ドロテオは彼女を舐め回すような眼付きで見遣る。

「アレイオーンはあなたなんかに負けない」アメリアはドロテオを見据える。

「どうだかな」ドロテオは鼻で笑った。

 睨み合う両者の間にコードバンが現れた。彼はランゲルハンスから頼まれたスターターだ。両者や群衆に向かって勝負の説明をする。フォスフォロとディオニュソスが待つ中央部のワイナリーへ先に着いた方が勝ち、また両者ともステュクス河に誓いを立てた勝負なので誓いは厳守するように、とコードバンは両者を見据えた。

 アメリアは頷くとゴーグルをかけ、ドロテオは早くしろと言わんばかりに蹄を踏み鳴らす。

 コードバンは手を天に上げる。群衆は彼の指先に注目する。ユウは唾を飲む。ドロテオはコースを見据える。アメリアは胸を高鳴らせる。

 手が振り下ろされた途端、両者は駆け出した。群衆は歓声を上げる。息をする間もなく街を抜け背高の家が建つ荒れ地を抜け、曲がり、ひたすら道なりにワイナリーを目指す。

 ドロテオは野卑な鼻歌を歌いつつ時折背後を振り返っては余裕を見せる。アレイオーンは遅れをとっていたがそれでもドロテオの尻から離れず、距離を置かれる事を許さなかった。

 アメリアは歯を喰いしばりつつ呟く。

「大丈夫。ワイナリーまで距離がある。バテた方が負けよ」

 アレイオーンは瞳を動かし背を見遣った。

「あたしを信じて」風を切りつつもアメリアは凛とした声を通す。

 アレイオーンは耳を立てた。

「あたしを信じて」

「……分かった」

 アレイオーンはアメリアに従った。距離が大きく開き、振り返ったドロテオはアレイオーンを小馬鹿にする。

「大丈夫。いつもみたいに行きましょ。あとで差せばいいだけ」アメリアはアレイオーンを宥めた。

 枯れたラベンダー畑を抜け、羊牧場を抜け、アレイオーンはひたすらに駆ける。時折、噂を聞きつけた集落の村人が道で彼らを見守っているのが見えた。見知らぬ子供に『お馬さん頑張れ』と声援を贈られると、少しだけ心が温かくなった。

 行程を三分の二程走ると道脇の森でバテて立ち止まるドロテオを見かけた。

「ほらね」アメリアは微笑む。

「成る程。お前の言った通りだ」

 アレイオーンがドロテオの真横を通り過ぎると、突如森から四、五人の男達が飛び出す。アメリアは手綱を強く引き停止を促した。驚いたアレイオーンは前脚を高く上げて嘶いた。寸での所で轢かずに済んだ。

 しかし様子がおかしい。男達はアメリアを見上げて嫌な表情を浮かべたり、遠方に居るドロテオに向かって目配せしたりしている。

「蹴散らすぞ。そこを退け!」アレイオーンは叫ぶ。

 しかし男達は退かぬばかりか鞍上のアメリアを引き摺り下ろそうとする。

 ドロテオの奸計に嵌められたか。アレイオーンは蹴散らそうとするが男達は器用に避け、抵抗するアレイオーンの手綱を樹に縛り付ける。

 男達はアメリアに暴行を働く。彼女は抵抗する。しかし得物も持たず、大勢の男に乱暴を働かれれば武術を習っていて行使出来ない。

 アメリアの横を嫌な笑みを浮かべたドロテオが通る。

「程々にしとけよ。抱けなくなったら元も子もない」

 彼は高らかに笑うと走り去った。

 殴られ蹴られ唇の端から血を流すアメリアを見て、アレイオーンの視界にある男の姿が重なった。現世で自分の騎手を務めていた男だった。

 彼は記憶を取り戻した。

 アレイオーンは生前、競走馬だった。名はペンドラゴンと言った。数多くの競走馬が一斉にゲートを駆け出し、鼻先を競う中、ペンドラゴンはいつも後方からレースを楽しんだ。黒い稲妻のような彼は先行する馬群を差し、先頭に躍り出た。スターだった。彼が出るレースは多くの観客で賑わった。ペンドラゴンは脚と瞬発力に恵まれていた。そして素晴しい騎手によって常に勝利へと導かれた。騎手は心優しく、そしていつもペンドラゴンの体調を察し、レースの流れを判断し的確に指示を出していた。

 騎手は如才無い男だった。ウイニングランの際、歓声を上げるファン達に向けてペンドラゴンを挨拶させた。一刻も早く帰りたい無愛想なペンドラゴンを指差し『こいつが勝ったんだ。こいつをもっと褒めてくれ』と言わんばかりに。大勢の人間の相手をする事にペンドラゴンは気疲れしたが、自分を立てる騎手の心意気を嬉しく想った。ペンドラゴンも騎手を愛し、彼が居るからこそ常勝し気持ちよく走れる、と信じていた。

 しかしあるレースで、体調が優れなかった騎手が落馬した。突然軽くなった背に驚いたペンドラゴンはコースを外れ振り返った。

 真横を数多くの馬が駆け抜ける。馬達が通り過ぎ遥か後方に見えたのは地に伏せた騎手だった。ペンドラゴンは駆け寄り、騎手の頬に鼻を近付ける。彼は唇から血を流し、浅い呼吸をしていた。『起きてくれ。死ぬな』とペンドラゴンは目を細め嘶く。しかし無二の友は起きない。

 為す術無く狼狽えていると、何処からともなく担架を抱えた人間が現れ、騎手を乗せて去った。それがペンドラゴンと騎手の最後のレースだった。

 騎手は一命を取り留めた。幸いな事に他の馬に踏まれなかったらしい。しかし騎手としての人生は断たれた。内臓に重傷を負い、後遺症を患った。これでは騎乗出来ない。

 退院した彼は辛い想いを押し殺してペンドラゴンのレースを眺めた。親友が楽しく走ってくれればいい。もう一度親友の姿をこの目で見たいと彼はスタンドシートに座した。

 ペンドラゴンは背に新しい騎手を乗せ、走った。しかし意思の疎通が巧くいかず、結果は散々な物だった。

 レースの度に成績は降下した。どんな騎手を乗せても意思の疎通が巧くいかない。やがてペンドラゴンは序盤からゴールまで最後尾を走るようになった。今まであれだけ走るのを楽しんでいたのに苦痛になっていた。

 早熟馬の烙印を押されたペンドラゴンは田舎の牧場で余生を送った。海の側の牧場だった。緊張から解放されたが寂しかった。側に親友が居ないのは寂しい。馬場から空を仰いで想いを馳せていると、背後から足音が聞こえた。ペンドラゴンは振り返る。無二の親友が佇んでいた。ペンドラゴンは駆け寄ると親友の鼻に鼻を寄せた。

「突然消えてごめんな。これからはずっと一緒だ」元騎手はペンドラゴンに微笑むと喉を撫でてやった。

 ペンドラゴンは尾を振ると頭を垂れて騎乗を促した。

「おいおい。体重増えたし足の調子も不充分だし、何よりもお前、裸馬じゃないか」騎手は苦笑する。

 しかし走らなくても良いからペンドラゴンは親友を背に乗せたかった。ペンドラゴンが見つめていると元騎手は小さな溜め息を吐く。そして『悪いな』と言い、たてがみを掴むと体を掛けて騎乗した。

 以前よりもしっかりした重みを感じる。ペンドラゴンは鼻を鳴らす。

「だから言ったろ。第一線を退いたんだ。年もとっちまった。自棄を起こして職を転々とした。しかしなテレビで馬面を拝む度に想うんだ。『親友の顔と違う』ってな。俺は職を放り出し、お前を探した。……やっと会えて良かったよ」

 ペンドラゴンの胸が暖かくなった。彼は歩み出す。元騎手がぎこちない扶助をしつつ海を目指した。

 浜に着くとペンドラゴンは水際を歩き水平線の彼方を眺める。押しては引く穏やかな波が砂を攫う。波の音はスタンドから上がる観客の歓声のようだった。ペンドラゴンが耳を横に倒していると、それに気付いた元騎手は話しかけた。

「……まるでスタンドみたいだな。ウイニングラン、お前無愛想だったけど目が笑っていたよな。皆に『よくやった。今日も良いレース見せて貰った』って感謝されて。……お前はスターだったよ。お客さんにとっても俺にとっても」

 ペンドラゴンは立ち止まった。

「……最後に会えて良かった。お前と駆け抜けていい人生だった」

 元騎手はペンドラゴンを海へと促した。ペンドラゴンは首を振り、嫌がる。

「……俺には最初からお前しか居なかったんだよ。お前も俺しか居ないんだ。……親友だろ? 分かってくれよ。これ以上生きるのが辛いんだ」

 ペンドラゴンは首を振る。嫌だ。親友を殺したくない。

「独りぼっちはもう堪えられないんだよ。頼むよ……最初で最後のお願いだ。あの世で……俺とお前でまた走ろう?」元騎手の声は涙で震える。

 ……想えば、いつもこの男は俺の体調や胸中を推し量ってばかりだった。心情を推し量り、最善策を瞬時に講じて勝利へとナビゲートした。勝利を治めても客の喝采を俺に譲っていた。心優しい男だった。そんな親友のたった一つの願いなんだ。聞くのが礼なのかもしれない。

 瞳を潤ませたペンドラゴンは後ろを見遣る。元騎手も瞳を潤ませていた。

 鼻を鳴らしたペンドラゴンは水平線に向かって歩み出した。海水が球節を濡らす。元騎手とペンドラゴンの影は浜から離れ徐々に小さくなる。膝を濡らしていた海水はペンドラゴンの腹を濡らし、肩を濡らす。数分も断たぬ内に彼らは海中へと姿を消した。

 記憶を取り戻したアレイオーンは瞳から涙を流す。現世で親友を殺し、この島でも親友を見殺しにするのか。何も出来ぬ自分に憤怒した。アレイオーンは幹に縛られた手綱を引き千切ると、男達を蹴散らした。

「俺の親友に狼藉を働く者は誰であろうと殺す!」

 前脚を上げて威嚇し、後脚で男達を想いきり蹴り上げアレイオーンは男達を追い払った。

「アメリア! アメリア!」

 気を失ったアメリアをアレイオーンは揺さぶり起こす。アメリアは薄目を開き、微笑する。

「大丈夫か? 動けそうか?」

「……クールな、アレイ……オーンがこんなに……慌てるなんて……初めて、見た」口の中を切った所為でまともに話せない。

「馬鹿野郎! 動けるのか? 動けないのか? どっちだ!?」

「うご……けるよ」痛む体を起こすとアメリアは歯を食いしばって立ち上がった。

「騎乗出来そうか?」アレイオーンは顔を覗く。

「だいじょう、ぶ」アメリアはあぶみに足をかける。バランスを崩しそうになったが何とか騎乗した。

 アレイオーンは前を見据える。

「……このレース、あとはしっかり騎乗するだけで良い。今までお前が気張った。今度は俺が気張る番だ。俺がお前を勝利に導く。お前の魂、預かったぞ」

「……アレイ、オーン?」

 アレイオーンは嘶く。

「……俺はペンドラゴンだ!」

 叫んだアレイオーンは襲歩で駆け出した。

 アレイオーンは駆け抜けた。レースで牛蒡抜きした時よりも黒い森でアメリアの髪を咥えて走った時よりも、そしてゼウスが放つ雷よりも速く駆け抜けた。彼は生きとし生けるものの中で一番速かった。森を駆け抜け、川を飛び越え、ブドウ畑を駆け抜けた。

 アレイオーンの背に体を預けたアメリアは瞳を見開いた。心臓が高鳴り喜びを禁じ得ない。今まで一度もこんなに凄まじい風圧を感じた事は無い。魂が疾風となり、体だけが置いて行かれるような感覚に捕われる。

 アレイオーンに勇気づけられると、アメリアは力を振り絞り低い姿勢をとって協力した。

 茜ブドウが実る広大な棚畑を駆け抜けると白亜の外壁のワイナリーが見えた。

 赤毛の女が手を振っている。きっとニエだ。隣には大男のランゲルハンスが紙のゴールテープを握り、そして道を挟んで巨漢のディオニュソスがその端を握っている。道の両端にはワイナリーで働く乙女や青年達が並び、馴染みであるアメリアとアレイオーンに声援を贈る。

 前方をドロテオが走る。ゴールまであと百メートルもない。

 背後から聞こえる凄まじい蹄の音にドロテオは振り返った。鬼神のような顔つきの馬が並んだかと想えば、風圧で頬を切り付け駆け抜けた。アレイオーンか? いや、まさか。足止めした。それに奴はトロ臭い筈だ。

 もう少し、あと少し。ゴールに辿り着く数秒が数時間のように想える。アメリアの頭の中で鼓動が鳴り響く。あぶみから鼓動が伝わる。自分と親友の鼓動が混ざり合う。共に生き、共に戦う事を証明する。

 どうか親友に勝利を。アメリアとアレイオーンは瞳を閉じた。

 アレイオーンの前脚がゴールテープを切った。

 ディオニュソスは巨大な腹から歓声を上げ、乙女達は喜んで飛び上がり、青年達はハイタッチする。ランゲルハンスは短い溜め息を吐き、ニエは盛大な拍手を贈る。

 減速するアレイオーンの背に身を任せつつアメリアは長い溜め息を吐いた。
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