ランゲルハンス島奇譚 外伝(1)「バンビとガラスの女神」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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 翌朝、ティコが歯を磨いているとノックの音が響いた。

 ドアスコープを覗いたティコは歯ブラシを咥えたままドアを開けた。

「おはよう。テーちゃん。朝食の時間だ」強面に満面の笑顔を咲かせたマルチェロが手を振る。

 苦り切った表情を浮かべたティコは『ちょっと待ってろ』と中へ促した。

 しかしマルチェロは満面の笑みを浮かべたまま佇む。

「今日も綺麗で嬉しいな。昨日と同じチョーカー着けてるんだ? 赤いガラスってテーちゃんらしくていいね。テーちゃんの為にあるみたいだ」

「お喋りはいいよ。早く入れ」チョーカーのガラスと同じ色に頬を染めたティコは外方を向いた。

「寝起きの女神を拝めてラッキーだったよ。ファインダイニングで待ってる。女性の部屋に入る訳にはいかない」マルチェロは首を横に振った。

 図々しくも上がり込むと想っていたティコは驚きのあまりに唾を飲み込んだ。ミントの香りのペーストが喉を下る。

 マルチェロは眉を下げる。

「あーあー。汚いな」

「うるさいな。……ホイホイ上がり込むとばかりに想っていたから驚いたんだ」

「そんなに軽い男に見える?」

「ああ」

 マルチェロは肩を落とす。

「酷いな」

「見た目も言動も軽いじゃないか。よくもまあ人の事『女神。女神』って。なんだい、今日も高そうなビーチスーツなんて着込んじまって」

「テーちゃんだってゴージャスじゃないか」

 ティコは服を見下ろした。量販店で買った黒いタンクトップに七分丈の白いパンツスタイルだ。この国の女性が描かれた紙幣を出せばお釣りが出る。

「何処が?」

 腕を組んでドアに背を凭れたマルチェロは悪戯っぽく笑う。

「短く刈り込まれててもゴージャスなブロンド、一等星のように輝く瞳、肌理が細かい肌、鎖骨の狭間で揺れる赤いガラスのティアドロップ……そんな気高く美しい女神が隣に居るんだから俺は霞むよ。だから少しでも釣り合うようにお洒落してもいいだろ?」

「分かった。ヘアカラーで黒く染めて、目潰しして、ビタミン摂取せずに皺を作ればペテン師は来なくなるんだね?」

「ねじ曲がってるな、テーちゃんは。そこが魅力的だ」

 鼻を鳴らしたティコはマルチェロの膝を蹴るとドアを勢い良く閉めた。

 朝食後、マルチェロの提案で離島へ足を延ばす事になった。ビーチでのんびりビールを飲んでいたいティコは渋ったが賭けに負けたので仕方なく付き合う事にした。レンタカーを借り、ラムネ瓶色の海を横断する。そして大橋を渡り、離島を散策した。

 多くは深い緑に囲まれた農地だったが、観光業にも力を入れているらしい。小さな博物館やリストランテ、ビーチがあった。

 蝉時雨を聴きつつ、太陽の照り返しを受ける白い砂の眩しさに眼を細め二人は佇んでいた。アイススタンドで買ったシュガーコーンのアイスを口にするティコにマルチェロは問う。

「どう? 来て良かった?」

「来て良かったも何も……同じ海じゃないか」ティコは苦笑した。

 困ったように笑うマルチェロは『失敗した。水族館の方が良かったかなぁ』と呟いた。そんな彼を尻目にティコは小さな溜め息を吐く。

「……でも酒抜きで過ごすにはいいかもね。誰かと陸から海を眺めるのはあまりなかったからな」

「……すると船に乗って海原を眺めるのはよく有る事だったのか。もしかして船旅慣れてる?」

 ティコは鼻を鳴らす。

「お前さん、勘が鋭くて嫌な奴だよ。昔はよく船に乗ったもんさ。……ま、海を突っ切った大橋を渡れたし、まあまあのデートコースかな。しかしあんなに視界良好なら車よりもバイクを転がしたかった」

「テーちゃん、ライダーなんだ?」

「ライダーだったんだ。……一時期仕事で乗ってたけどね。整理して兄貴に譲っちまったよ」

「勿体ない。俺もライセンスあるんだ。今度借りてツーリングしようよ。なんならタンデムでもいいよ」

「ヤなこった」

 苦笑するマルチェロを背にしたティコはアイスのカップを片手にビーチを歩む。すると旅行者と思しき水着姿の極東の男女カップルに拙い外国語で声を掛けられた。女の方はカメラを持っている。どうやら写真を撮って欲しいらしい。

「いいよ。貸しな」ティコは流暢な極東の言葉で承諾した。驚いたカップルは互いを見合わせると微笑んだ。

 追いかけて来たマルチェロにカップを突きつけ、ティコはカメラを渡されるとカップルを撮ってやった。『お礼に、そちらの写真を撮ります』とカップルがカメラを要求する。ティコは断ろうとした。しかしティコの肩を抱いたマルチェロが携帯電話をカップルに素早く差し出したので、ツーショットを撮られる羽目に陥った。

 嬉しそうなカップルと別れたティコはマルチェロを睨む。

「勝手な事をしてくれたね」

「いいじゃないか。だって向こうのツーショット撮ったんだから」マルチェロは肩をすくめた。

「写真なんて想い出に残るものは沢山だ」

「どうして?」

「どうしてもだ」

 鼻を鳴らしたティコは足速にビーチを進む。鎖骨の間で赤いガラスのティアドロップがちりりと揺れる。

 彼女は白木の看板に出くわした。細かい字が並び、何やら説明をしている。ティコは眼を通すが読めない。流暢に会話は出来てもこの国の言葉を読むのは難しい。遥か昔に学んだ字は読めるがここ百年程色んな字を使うので読めない。

 ティコが字面を追い理解に努めようとしていると、追いついたマルチェロが声に出して文章を読み上げた。

「……つまり極東版『失楽園』って話だね」ティコを見遣ったマルチェロは微笑んだ。

「流石、ペテン師。多種類の字を使う極東の言葉でも読めるんだね」

「まあね。それにしても神話ってのは何処の国も被るものだね。無垢で無知の男女が知識を得たり好奇心に負けたりして、神罰が当たり生の苦労を知るって。運命のようだね」

「……運命か」ティコは眉を下げる。

「テーちゃんと俺が出会ったのも運命?」

 ティコは鼻を鳴らす。

「馬鹿。それは単なる偶然だよ」

 マルチェロが肩をすくめると雨粒が肩を濡らした。ティコの肩やマルチェロの額を雨粒が突つく。針先が当たるような雨だったが、直ぐに雨脚が激しくなった。

「スコールだ! 車に戻ろう」マルチェロはジャケットを脱ぐとティコの頭に被せた。
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