ランゲルハンス島奇譚 外伝(1)「バンビとガラスの女神」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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παρελθόν 1(4)

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 教え子との別れの挨拶も程々に、ティコは次の任地へ向かうべく船に乗った。大陸間の移動なので長旅になる。船旅は好きじゃない。嫌な事を色々と考えそうだとうんざりした。

 毎度毎度、死神の子供を育てる度に多大な額の手当を得る。一時預かりの仕事とは言え、教育者に休みはない。妥当な金額と言えば妥当だが、他の死神からすれば贔屓にしか見えないだろう。

 カバンを客室係の船員に預けたティコは溜め息を吐く。

 他の死神から給金を羨ましがられても一番欲しい物が与えられた訳では無い。他の死神はティコにはなかなか与えられないご褒美が待っている。子孫さえ残せば死を許される。しかしその機能を持ち合わせていない彼女には死は許されない。

 太古からティコの他にも子孫を望めない死神は居た。他の冥府の神々よりも任が重いのにも関わらず、死を望めない死神を不憫に想ったハデスは救済措置をとった。苦役に出ている死神の子供を一定数育てる事により死を認めた。しかしノルマは気が遠くなる程に多い。従ってティコは一刻も早く死ねるよう、休暇を取らずに任を遂行していた。

 デッキへと続く狭い廊下を歩いていると、小さな丸窓に自分の顔が映る。

 男のようだ。……久し振りに髪を切ったからな。

 足を止め、髪を搔き上げ窓を凝視する。左耳朶に着けたルビーのピアスが揺れた。ペルセポネから下賜された物で、預かり子の居ない時に着けていた。

 ティコの脳裡でペルセポネの声が響く。

 ──休暇だけはちゃんと取って下さいね。貴女の体が心配です。……ハデスに内緒で余計に給金を振り込んでいるのですから、貯めてばかりではなく有効に使って下さい。

 ティコは鼻を鳴らす。ルビーのピアスが揺れた。

 分かってるよ。でも私にとっては無用の金だ。せめて長期間の移動を休暇代わりにして欲しいと、身分を貴族と詐称させて、一等船室をリザーブしてくれたんだよな。血が繋がっていなくとも、親馬鹿で優しくて笑っちまうよ。

 男物のコートを船室のクロークに仕舞い、シャツとベスト姿でデッキに出る。手すりに凭れて潮風に当たっていると『男の恰好をした頭のおかしい女がいる』と陰口を叩かれた。毎度の事だった。相手をする気もなく、船室に戻ろうと狭い廊下を歩いた。人が擦れ違うのにも苦労する程に狭いが往来がないので気にかけずに歩けた。

 すると向かいから薄汚れたバンビ……いや、身なりの汚い少年が息を切らし駆けて来る。何やら物々しい言葉を怒鳴る船員が少年を追いかけている。狭い廊下では避ける事が出来ずに少年はティコの腹に突っ伏した。軽い衝撃によりルビーのピアスが揺れ、ティコが纏っていたダマスクローズのオイルがふんわりと香った。

 少年は顔を上げた。眉を下げターコイズブルーの瞳に涙を溜め、今にも泣き出しそうな顔だった。子鹿のように愛らしい面立ちをしているが幾日も入浴してないのだろう。垢で汚れた服や肌からは酸っぱい臭いが立ち昇り、ティコの鼻腔を突き刺した。

 無賃乗船だな、とティコは瞬時に理解した。以前、生を受けた極東の島国を離れる際、やった事がある。見つかって袋叩きにされた。船の中では逃げ場が無い。要領の悪いこの少年もいい所寄港地で下ろされるか、半殺しにされるかだろう。

 少年は呆然とティコを見上げた。

 あの時、神々が手を差し伸べてくれたから……今の私がいる。少年を見下ろすティコは小さな溜め息を吐くと、彼の肩に手を置く。そして少年を寄越すよう、通告する船員に向かって口を開いた。

「私の連れだ。大層な風呂嫌いでね。今日こそ洗おうと想っていた所だ。風呂から逃げて探していた所戻ってきたみたいだね」

 船員は『チケットを持ってません』と訴えた。

「乗船代支払い忘れてすまないね。後で支払うよ。船室まで取りに来てくれ」ティコは微笑むと、一等船室のナンバーを述べた。

 男装の麗人が貴族と知り、船員は改まった態度をとると引き下がった。

 船員の背を見送るティコに少年は礼を述べる。

「あ……ありがとう」

 鼻をつまんだティコは少年を見下ろした。

「部屋に案内するから風呂に入りな。話はそれからだ」

 ティコは背を向け廊下を進む。少年は子鹿のようにたじろいでいたがティコの後に従った。

 部屋に招じ入れ浴室へ少年を放り込んだティコは溜め息を吐いた。

 どうしてあんな面倒な奴を引き取っちまったんだろう。独りで客船に潜り込むなんて大方孤児だろう。乗船している間はまだいい。問題は船を下りてからだ。苦役中の死神の子供を育てなければならない私は人間の子供の面倒なんてみられない。無責任にも引き受けちまって……自分のいい加減さが嫌になる。

 脚を組んでベッドに座したティコが頭を抱えていると、浴室のドアが開いた。立ち昇る湯気と共にバスタオルを頭から被った少年が出て来る。

 眉を下げた少年はその場に佇み、ティコを見つめた。

「ちゃんと洗ったかい?」

 少年はこっくりと頷いた。

 ティコはバスタオルを少年の頭から退けた。少年は頬を染める。彼女は溜め息を吐く。

「……やり直し。そこかしこに泥が付いてるよ」

 少年を浴室に押し戻したティコはシャツの袖とスラックスの裾をたくし上げると、彼の頭と体を想い切り洗った。頭皮を指の腹で押し洗われ、バスブラシで体表と言う体表を擦られ、少年は念入りに洗われた。

 体をブラシで擦られた少年は『痛い、痛い』と悲鳴を上げ、華奢な手足を想いきりばたつかせ抵抗する。しかし死神の子供を預かり慣れたティコにはそれは効かない。首の後ろ、指と爪の間、耳の中まで少年は洗われた。

 体表にこびり付いていた垢が落ち、色がすっかり白くなった少年はバスタオルに包まりベッドに座した。

 俯く少年を見遣りティコはカフスボタンを閉める。

「やっと見られるようになったね。さっきは薄汚れたバンビかと想ったよ」

 洟を啜る少年は恨みがましそうにティコを見上げた。

「文句があるなら出て行きな。後で船員が乗船代を取りに来るんだ。その時引き渡したらどうなるもんかね?」ティコは悪戯っぽく笑った。

 瞳に涙を浮かべた少年はぶっきらぼうに『洗ってくれてありがと』と礼を述べた。

 ティコは包帯が巻かれた右手で少年に水が満ちたグラスを渡す。

「私はティコって言うんだ。名前は?」

 少年は口をもぞもぞと動かしていたが『マーク』と答えた。

「マーク、お前さんは何処に行こうとしているんだい?」

「ノンノの所。マンマが死んだ。だけどパパは……仕事で世界中を回ってる。だからノンノの国へ行って面倒見て貰うんだ」

「じいさんの許まで旅をするのかい。チケットはどうしたんだ?」

「盗られた。……でもこの船乗らなきゃノンノに会えないから……こっそり乗った」

「じいさんが居る国は?」

 水を一口飲むとマークは欧州の島の名前を答えた。

 小さな溜め息を吐いたティコは刈り込まれた短髪を掻きむしる。マークと自分の行き先が違う。

「成り行きで匿まっちまった。私は仕事が控えていてね。無責任で申し訳ないけど最後までマークに付き合えない」

「……ティコは僕を助けてくれた。貴族は威張り散らしてヤな奴って教えられたけど、ティコはそんな事ない。ティコは良い貴族だ。ティコに会えただけでも神様の思し召しってやつなんだ。港に着いたら歩いてノンノの許まで行く」

「馬鹿。お前さんが想っているよりも遥かに遠い距離だよ、じいさんの許までは。……ここだけの話、私は貴族じゃないよ。港に着いたら金をやるから鉄道と乗り継ぎの船を使いな。今度は盗まれるんじゃないよ」

 マークはターコイズブルーの瞳を見開く。

「……どうして優しくするの?」

「さあね」ティコは鼻を鳴らした。

「ティコは貴族じゃなければ……女神様?」

 マークの問いにティコは噴き出した。大したお世辞だ。ませた子供だな。

 腹を抱えて笑うティコは小首を傾げるマークを見遣る。

「『女神様』なんて初めて言われたよ。『クソばばあ』は幾度となく言われたがね」

「ティコは女神様だよ。優しくて、綺麗で、強くて、良い香りで、素敵だ! 『クソばばあ』なんて言った奴、許さない!」憤ったマークは眉を吊り上げた。

 眉を下げて微笑を浮かべるティコはマークの頭を撫でる。

「大したモンだ。その年で女を褒め殺すとはねぇ。末恐ろしいな」

 相手にされないマークは唇を尖らせる。

「ティコは……先生?」

「……そんなモンさ。よく分かったな」マークの頭をティコは乱雑に掻き撫でた。

「だって……ティコは凄い人だから。先生は凄い人だってマンマが言ってた。いつか僕に学校に行かせたいって。マンマは学校に行けなかった。僕には学校で色んな事を勉強して役に立つ人になって欲しいって」

「ほーん」

 マークはティコの青白く光る不思議な瞳を見据える。

「ティコ。お願い。勉強を教えて」

 ティコは小さな溜め息を吐く。教え子を持つのは構わない。しかしマークは人間だ。死神の子に教えるのとは全く違う。何を教えてやればいいのか。

 しかし心を捕えるマークの切実な瞳にティコは心を揺らがせた。

「……勉強らしい勉強を教える事は出来ないよ? 私が教えられるのは生きる術だけだ。それでもいいかい?」

 ティコの問いにマークは深く頷いた。

 微笑んだティコはマークの頭を掻き撫でる。

「よし。じゃあ早速一つ目の勉強だ。『ありがとう』と『ごめんなさい』の勉強だ」

 マークは小首を傾げた。

 先程マークを追いかけていた船員が船室まで乗船代を取りに来た。乗船代を払うと言ったものの、銀行に金を預けていた上に小切手帳を持って来るのをティコは忘れた。余裕が無い。

 あまりやりたくなかった手だが仕方ない。ペルセポネ妃、どうかお許しを。ティコは左耳朶に着けていたルビーのピアスを外して船員の掌に乗せる。

「余計な持ち合わせが無くてね。これで足りるかい?」

「ありがとう御座います。確かに受取りました」

「すまないね」

 船員は風呂上がりのマークを一瞥し、踵を返す。ふてぶてしい視線を注がれたマークは勇気を出し、ティコに教わった通り船員の背に声を掛けた。

「……あの!」

 立ち止まった船員はマークを見遣った。船員の眼付きにマークは子鹿のように怯みそうになったが懸命に言葉を紡いだ。

「お金払わないのに乗ってごめんなさい。……あと、お金取りに来てくれてありがとう!」

 眉を下げ今にも泣き出しそうなマークを船員は見つめた。船員はフッと微笑を浮かべると屈み、マークと同じ目線になる。

「……もうバンビと追いかけっこはしませんよ?」

 船員が初めて浮かべる微笑にマークも破顔した。

「……うん!」
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