ランゲルハンス島奇譚 外伝(1)「バンビとガラスの女神」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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παρελθόν 2(5)

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 ティコの服を借り、マークは袖を通す。男物の服は大人の女性であるティコにとっても大きな物だった。そして十年程しかこの世で過ごしていないだろう少年のマークにとってはとても大きな物だった。シャツの袖に指先が隠れ、スラックスのウエストは紐で縛られ、裾は床を引きずった。

 少し歩こうとすれば裾を踏み、マークは頭からつんのめり床とキスをする。

 苦り切った表情を浮かべるマークを眺めたティコは苦笑する。

「その様じゃとても船内を歩くのは無理だねぇ。裾を折ったらどうだい?」

 マークは裾を折ったがスラックスの生地の重みで直ぐに元に戻ってしまう。ティコは船員を呼ぶと、スラックスを裁断するのでハサミを持って来て欲しいと頼んだ。

 三十分程待つと船員が戻って来た。腕に何か抱えている。船員は腰を屈め、マークに言葉を掛ける。

「これをあげよう」

 船員は美しい白い布の塊を差し出した。マークはお礼を述べると布を広げる。子供用の水兵服だった。

 ティコは眼を丸くする。

「心遣いをありがとう。幾らだい?」

 船員は首を横に振った。

「失礼かとは存じますが以前、一等船室をご利用になったお客様が置いて行った物です。幾度か袖を通されたようですが、宜しければお使い下さい。船上では仕立て屋が居りませんので」

「残しておいたって事は、大方港で払い下げようって想っていたんだろ? 幾らだい?」

「いいえ。これはこの子にあげたいと想ったのです」

 船員はマークを見下ろした。生まれて初めて上質な服を手にしただろうマークはターコイズブルーの瞳を輝かせていた。

 微笑しつつもティコは小さな溜め息を吐く。

「マーク、もう一度お礼を言いな。その服はお前さんがこの船で下働きしても買えない代物だよ」

 頷いたマークは満面の笑みを浮かべてお礼を述べた。微笑を浮かべた船員はマークの頭を撫でると部屋を退出した。



「船旅は大人社会だ。まずは行儀を覚えないとね」

 船内を歩かせる前にティコはマークに様々な礼儀作法や生活習慣を仕込んだ。言葉遣い、テーブルマナー、身繕いの仕方等々、マークを死神の預かり子と同様に扱った。

 部屋に運ばれた食事を前にマークは眉を下げる。

「どうして両手をテーブルに乗せて食べなきゃいけないの? どうしてスープを啜っちゃいけないの? どうして口を閉じて噛まなきゃいけないの?」

 次から次へと投げかけられる質問にティコは毅然と答える。

「腹が減ってると気が緩むだろ? 気に喰わない奴を殺すには食事は絶好の機会なんだ。『私は手に武器を隠してませんよ』って両手を出しておくのが礼儀なのさ。……スープはな、鼻風邪引いてると洟を啜るだろ? あの音を想い出すと飯が美味いか? 口の中でぐっちゃぐちゃになった物を見て食事が美味いか?」

「ううん……。不味くなるね」マークは苦笑する。

「そういうこった」

 勉強らしくない勉強にマークは初めの内は困惑した。しかし『生きる術』として食らいついて勉強した。彼は幼くとも、母を失い父方の祖父の許へ行くまではティコしか縋る者が居ないと言う事を理解していた。そして真摯に、根気強く物事を教えるティコに信頼を寄せていった。

 船旅二日目の昼にはマークはティコから船内を散策する許可を貰った。甲板に出ると柵に手を掛けて海原を眺める。

「わぁ! ……海しか見えない」生まれて初めての船旅に心を踊らせていたマークは落胆する。

 ポケットに手を突っ込み彼に追いついたティコは苦笑する。

「そりゃあと軽く七日は乗ってないといけないからね。陸地は遠いよ。何か見えると想ったのかい?」

 ティコを見上げたマークは瞳を伏せた。

「どうした?」

「マンマは……船に乗って来た。パパを追いかけて来たんだ。僕も一緒だったんだけど、マンマが妊娠中だったから僕は分からなかった」

 柵に凭れたティコは相槌を打つ訳でもなくマークの話を聞いた。どうやら彼の父親はマークを身籠った母親の許を去り、仕事で新大陸に渡ったらしい。不安に駆られたマークの母は夫を追いかけるべく移民として船に乗った。新大陸に無事に足を着けたが既に夫は消えていた。母親は移民街で仕事を見つけ、部屋を借りた。しかし生活苦に圧し潰され病み、亡くなったそうだ。

 母親が死に際に出した手紙をやっと受け取った父親は移民街を訪れた。父親に引き取られるまでマークは路上で生活をしていた。引き取ったは良いものの、父親は仕事の都合で世界中を旅しなければならない。そこで信頼の置ける友人にマークを預けた。数年程マークは世話になっていたが、仕事の都合で友人はマークの面倒を見られなくなった。そこで父は祖父に世話を頼んだらしい。

「……身なりの悪いチビっころが船に乗ってるものだから大方予想していたが大変だな」ティコは呟いた。

「……うん」

 洟を啜ったマークは瞼を拭う。

「ティコは……何処に行くの?」

 柵に凭れるティコは瞳を伏せると鼻を鳴らして笑う。

「……さあ? 何処に行くのだろうね?」




 マークは要領のいい子供で、マナーの基本を教えれば直ぐに理解し応用を利かせた。その上、船内の紳士達の振る舞いを眺め、ティコ相手に淑女のエスコートを見よう見まねでこなしていた。『私はレディなんかじゃないよ』と苦笑したティコは止めさせようとしたが、マークは首を横に振った。

 微笑んだティコは小さな溜め息を吐く。

 気取りたい年頃なのかね。そんな子供に当たった事がないから少し戸惑うよ。

 日が沈み、ティコとマークは食堂に向かった。

 ティコは昨夜仕込んだ作法をマークが忘れていないか眺めながら食事を摂った。多少ナイフの扱いがぎこちないものの、マークは肉を美しく食べようと懸命になっていた。しかし懸命になればなるほど眉間に皺が寄り、眼付きが鋭くなる。

「……美味しいかい?」ティコはワインを傾けつつ問う。

 ナイフを止めたマークは顔を上げる。

「美味しいよ!」

「……肩の力を抜いて、リラックスして食べな。作法に気を遣う事はいい事だ。でも折角美味しい物を食べているのに頭の中が作法でいっぱいになっていたら味わえないだろ?」

「……でも」マークは眉を下げた。

「何でもかんでも最初から器用に出来る奴はそうそういないんだ。他のテーブルに着いている紳士達だって昔は皆少年で不器用だったろうさ。大事なのは心構えを知っているか知らないかだ。知識があってそれなりに気を遣っていればその内上達する。そうやって大人になったんだ」ティコは微笑んだ。

「本当?」

「ああ」

 マークは破顔する。

「じゃあゆっくり食べる! 美味しいもん!」

 ティコは微笑んだ。他のテーブルに座し二人を横目で眺めていた客達もマークの愛らしい答えに破顔した。

 食事を済ませて部屋に戻るとティコはマークを風呂に入らせた。『面倒臭い』『昨日入ったから船下りてからでいいよ』と渋るマークを泡だらけのバスタブに無理矢理押し込む。ティコは袖と裾を捲るとマークの頭にお湯を掛けて念入りにシャンプーした。

 母親を失い独りぽっちだった少年としては珍しく、マークは人を信じ易い子供だった。ティコの言う事は素直に聞いた。しかし風呂ばかりは別だった。隙あらば逃げ出そうと躍起になった。

 ティコはそんな彼を押さえつけて頭を洗う。

「なんだってお前さんは毎回暴れるんだい!?」

 手を伸ばし、洗髪するティコの手を抑えようとマークは奮闘する。

「ヤだ! 離して! 痛い!」

「往生際が悪い!」ティコはマークの手から逃れつつも洗髪を続ける。

「離せったら!」

 マークは頭を振って子鹿のようにシャンプーを飛び散らした。それでもティコは動じない。苦り切ったマークは暫く眼と口を閉じ唸っていた。しかし眼を見開くと、体を想い切り右に逸らした。マークの支えを失ったティコはバランスを崩してバスタブに頭から突っ込んだ。

 顔を顰め湯から顔を上げたティコの横でマークが笑う。

「……よくもやったね」

 怒鳴られるかと思いきや、静かに憤るティコにマークは声を失った。しかしティコは表情を直様変えた。悪戯っぽく笑うと着の身着のままバスタブに入り、マークの体を脚で押さえつけ頭を洗う。ティコは自棄気味に大笑いする。大人のティコに体ごと押さえつけられたマークは為す術無く、洗われるしかなかった。

 頭を洗い終わったティコは長い溜め息を吐くと濡れた服を脱ぎ、バスタブに浸かった。

 泡の中から覗く豊かな胸に幼いマークは鼓動を跳ね上げる。噛まれたような傷があった。暫く凝視していたが、視線に気付いたティコが見遣ると視線を外した。

「なんだい? しょぼくれてると想ったらおっぱいか?」ティコは悪戯っぽく笑う。

 マークは顔を顰め、唇を尖らせた。

「私だって女だ。胸くらい出っ張るよ」ティコは肩をすくめた。

「……ティコとお風呂入るとドキドキする」

「なんで?」

 マークはもぞもぞと口を動かしていたが言葉を紡ぐ。

「……その……裸を見せ合うのは愛し合う時だけだって聞いたから……」

「ほーん。重要な事を知ってるんだな」

 眼のやり場に困ったマークは様々な所に視線を移す。バスタブの縁、シャワーヘッド、濡れたティコの服、天井……しかし胸が気になりどうしても視線が戻ってしまう。

「少年と言えども男だね」ティコは唇の片端を吊り上げた。

「うるさいな。……おっぱいついてるのが悪いんだ」

 ティコは天井を仰いで大笑いする。

「成る程! 確かに神話じゃパンドラの匣を開けたのはパンドラ、女だからねぇ。おっぱいは原罪なのかもねぇ」

 決まりが悪くなったマークは唇を尖らせた。視線をどうにかしようと彷徨わせていると、バスタブの縁にだらりと掛かったティコの右手に眼がとまった。彼女はいつも包帯をしている。昨日の風呂の時も包帯を外さなかった。何か理由があるのだろうか。

「……包帯取らないの?」

 右手を見つめるマークをティコは見遣る。

「取っちゃならないから取ってないだけだよ」

 マークの視線はティコの豊かな胸に戻る。

「……どうして男の恰好をしているの?」

「さあ? どうしてだろうね?」ティコは肩をすくめた。

「どうしておっぱいに傷がついてるの?」

「……昨日は比較的静かだったのに。お前さん本調子に戻ったね。『どうしてどうして』が矢鱈と多い」ティコは苦笑する。

 マークは眉を下げた。

「そんな顔しなさんな。『どうして?』『なんで?』を際限なく言えるのは子供の特権だよ」

「子供……」マークは唇を尖らせた。

「おや。風呂を嫌がる程に子供じゃないか。紳士は身だしなみにも気をつけるよ?」

「またそうやって子供扱いする!」

「子供扱いされたくなきゃ、ちゃんと風呂に入りな」

「じゃあ教えてよ」

「……気が向いたらね」小さな溜息を漏らしたティコは視線を逸らした。

「ティコは狡い。僕の事を色々聞いた癖に自分の事は何一つ教えてくれない」

「そうさ。狡いさ。狡いのは大人の特権だよ」

 ティコは悪戯っぽく微笑んだ。
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