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παρελθόν 12(17)
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苦役に出た死神の親から子供を幾柱も預かり、実績を重ねたティコの評判は良かった。
預けられた子供は親と離れた事により始めは皆表情に影が射していた。しかしティコと過ごしている内に笑みを取り戻した。幼き日に心に大きな傷を負ったティコは弟子である預かり子を第一に考えて行動した。彼らにやる気が無ければ死神としての勉強は教えなかった。本人のやる気が起こるまで辛抱強く待ったし、勉強以外の事に夢中になれるように様々な事に触れさせてやった。音楽、武術、料理、水泳、文学……全てヘカテ女神がティコに触れさせた事だった。弟子達は初めて触れる学問や芸術、生きる術に瞳を輝かせてのめり込んだ。
やがて生きる意欲を取り戻した弟子達にティコは死神としての勉強を教えた。初めの内は進捗に差異はあったものの、弟子達が苦役を終えた親の許に戻る頃には一柱の神として任に就ける程に成長させた。
親許を離れた弟子達はティコに教わった通り、命の期限が短い人間に敬意を払って頭に触れた。例え死の現場に居合わせなくとも、爛れた右手で触れれば死が訪れる。ティコは必ず一度は弟子達に触れた人間の死の現場を見せた。凄惨な現場、慟哭が響く現場、理不尽な現場……様々な死を見せた。人間が息を引き取り、死神タナトスに魂を体から切り離される所を弟子達は見守った。心優しい弟子は涙を流し、今まで人間を小馬鹿にしていた弟子は狼狽えた。しかし死を見つめ、弟子達は命や生物に敬意を払いつつ任に就くようになった。
これについてティコはハデスに直々に褒められた。しかし彼女は良い教育をしたとは一切考えていなかった。
冥府に呼び出され、玉座の前で膝を折りハデスの淡々とした賞讃の言葉を聞くティコは唇を引き結んだ。
私は褒められる事をした訳じゃない。全ては自分の為にやった事だ。じじ様、かか様、そしてノエルへの罪滅ぼしだ。……彼らにしてやれなかった『本質を見る』と言う事を実践してるに過ぎない。
ハデスは『報奨を与える。妃には反対されているがね。君が望む死が近くなる』と預かり子のノルマを減らそうと提案した。しかしティコは首を横に振った。
『折角だが受け入れられない。報奨をくれると言うならその分、弟子を増やして欲しい』とティコは更に弟子を受け入れた。
休暇を取らないティコは多くの時間を弟子達と共に過ごした。殆どが一、二年の付き合いだった。しかし長い付き合いをした弟子も居る。
それがイポリトだった。
彼が起こした事件は冥府を震撼させた。
イポリトは父親のヒュプノス神を殺した少年だった。彼は父親から虐待を受けていた。しかし自己防衛の為に父親を殺したのではない。同居するタナトス神の祖であるローレンスを守る為に父親を殺したのだ。
今でこそ人の世では魂の平等性は説かれているものの、当時親殺しは通常の殺人よりも重い罪だった。
親殺しを罰するエリニュス三女神はイポリトを罰しようと現世に出向こうとした。しかしヘカテ女神が『虐待を受けていたのにも関わらず、ローレンスの為に父を殺したイポリトがあまりにも哀れだ』と彼女達を止めた。
神としての務めを阻まれたエリニュス達は納得がいかず憤った。エリニュス達はヘカテの配下だったが血気盛んな女神達で指示を聞いてくれない。ヘカテはハデスに直々にエリニュス三女神に命を下すよう、頭を下げて頼んだ。
そのような経緯があり、エリニュス達の鞭から免れた幸運な子としてイポリトの話は有名だった。無論、その話はティコの耳にも入った。
その頃、ティコは預かり子と別れたばかりで通常の任に就いていた。ハデスはティコにイポリトの教育を頼んだ。『腕が良く、他者の痛みが分かる君にイポリトを任せたい。彼はローレンス付きのヒュプノス神の家系故に地獄耳も有している。君も地獄耳を有している。色々と教えてやって欲しい』と、ハデス直々の書面がティコの許に届いた。
通常なら陸路や船旅で任地へ赴く。しかし時間が切迫していた。ティコはトランク一つを提げてステュクスを介してイポリトとローレンスが居を構える管轄区へ出向いた。
「クソばばあ」
名前を教えたのにも関わらず、イポリトはティコをそう呼んだ。
弟子達に『先生』や『ティコ師』と呼ばれていたティコは彼の反応が新鮮だった。面白くて仕方が無かった。『私はばばあのつもりはない。クソじじいで結構だ』と窘めてもイポリトは『クソばばあ』と呼び続けた。自分を女扱いする優しいイポリトに心が暖かくなった。
イポリトは根性がひねくれていた訳では無い。口が悪くへそ曲がりなだけだった。心根はとても優しく、路地裏で出会った娼婦達や子猫に優しく接する愛らしい少年だった。快活で他者の為によく働き、弱き者に手を差し伸べ強き者に挑む逞しい少年でもあった。
父親にヒュプノス神としての仕事を叩き込まれていたようで、一柱の神としても任をそつなくこなした。彼は路地裏では破落戸に絡まれないように、市場では目標を見失わないように、機転を利かせたり地獄耳を駆使したりして難局を乗り越えた。今まで教育を施して来た弟子とは違うタイプの少年だった。
しかし実地は出来ても座学はからきしダメだった。管轄区の字や死神文字すら読めず、神話や他神族思想の学問も全くだった。
イポリトの引き継ぎ書に目を通したティコはアプローチを考えた。
決して馬鹿ではない。それどころかイポリトは非常に賢い少年だ。興味を持った事と学問を関連づけて引き込んだ方が良い。しかしあまりあの手この手で興味を惹こうとすると勘付くだろう。警戒されるのは困る。相手は私よりも賢い少年だ。勝負は一発だな。
ティコは同居人のローレンスからイポリトの過去を聞いた。どうやら人間の母親が赤子のイポリトに歌を歌ってやるのが日課だったらしい。母親は貧しい娼婦故に学はなかったが、精一杯愛情を注いで彼を育てたようだ。街角で聞き覚えた興行芝居の宣伝歌をイポリトに聞かせていたようだ。その所為なのだろう、イポリトは掃除や洗濯の際に良い声で歌っていた。国家を揶揄する低俗な歌も歌えば、見世物小屋の宣伝歌も歌い、労働歌も歌う。そして歌詞が分からないピアノ曲を鼻歌で頻繁に歌っていた。
音楽が好きなのか。だったら管轄区に置いたままのあのピアノに触れさせたい。
ティコはハデスに『ローレンスとイポリトの次の任地は私の管轄区にして欲しい。そこで教育を施したい』と頼み込んだ。
船旅で幾日も掛けて海を渡り、ティコはイポリト達と共に新大陸の管轄区へ戻った。大量の荷物をティコはローレンスと共に部屋へ運んでいると、イポリトの姿が見えない事に気付いた。さっきまで愛猫を小脇に抱えて荷物を引きずっていたのに。働き者がサボるとは珍しい。
部屋の中を探しまわるとリビングに彼は居た。ノエルのピアノに向かいティコに背を向けるイポリトは気配に気付いていない。彼の肩は小刻みに震えていた。泣いているのか笑っているのか寒いのか恐ろしいのか……どうして震えているのか。きっと彼自身にも分からないだろうし、震えている事すら気付いてないのかもしれない。
イポリトは鍵盤に触れる。
すると弦がハンマーに叩かれて音が鳴った。
彼の両肩が瞬時に上がった。
ティコは足音を忍ばせ、イポリトの真後ろに佇む。
「ピアノに興味があるのかい?」
「……ピアノ?」イポリトは振り返る。
ティコは悪戯っぽく微笑むとピアノに近付く。椅子に積まれていた楽譜を開き、譜面板に立てる。そして『退いてな』とイポリトを後ろに下がらせ椅子に座した。彼女は軽く一呼吸すると鍵盤に指を走らせ『英雄ポロネーズ』を弾いた。
演奏中に幾度もイポリトはティコの隣に立とうとした。演奏の邪魔になる、と想いつつもティコは目の端でイポリトを見遣った。
彼は瞳を輝かせていた。肉料理にがっつく時よりも愛猫を戯らす時よりも、真剣で美しい表情をしていた。
ピアノを語ったノエルと同じ表情だな。
美しいものを間近で見たティコは唇に微笑みを湛え、様々な曲を立て続けに弾いてやった。
久し振りにピアノに触れたティコは椅子の背に凭れて溜め息を吐いた。
「すげぇ! すげぇな! ティコってすげぇ! 箱を歌わせれるんだな!」イポリトは手放しで賞賛を贈った。
箱……? ピアノの事か? ティコは椅子の背凭れに頭を預けたまま、イポリトを見遣る。
「……坊主もピアノを歌わせてみたいかい?」
イポリトは瞬時に頷いた。
身を起こしたティコは譜面板に立てかけられた楽譜をイポリトに渡した。イポリトは五本の平行線に並んだオタマジャクシの化け物を渋い顔で見つめた。
「何これ?」腕を組んで脚を広げるティコをイポリトは見上げた。
「ピアノの歌の字だ。読めるか?」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。
「読めねぇ」
「ピアノの歌の字も、死神文字もギリシャ文字もこの国の言葉も覚えなきゃ何も出来ない。何をするにもまず『言葉』ありきだ。歴史を知るのにも音楽を知るのにも、演劇を知るのにも人の心を知るのにも『言葉』が必要だ。『言葉』があれば昔を知り、今を見つめ未来を紡ぐ事が出来る」
イポリトは楽譜を見つめた。
眉を下げる彼をティコは見下ろした。賢い彼はどうやら気付いたようだ。
「な、ティコ。頼みがあんだけどよ……」イポリトはティコを見つめた。
鼻を鳴らしたティコは悪戯っぽい笑顔を向ける。
「紙とペンを持って来な。死神文字もギリシャ語もピアノの歌の字も全部教えてやる」
ティコが考えていた通り、イポリトは賢い少年だった。一度教えた事は直ぐに覚えたし、基礎を教えた直後に応用をやらせると機転を利かせて正解を導いた。
仕事にものめり込み、芝居にも傾倒し、よく学びよく遊びよく仕事をこなした。ピアノの練習は毎日欠かさずした。ピアノを弾く彼は常に笑っていた。美しい笑顔だった。生を謳歌し、美しい物を慈しむ尊い笑顔だった。
そんな彼の笑顔にティコは視線を奪われた。
ある日、ティコは気まぐれで幻想即興曲をイポリトに聴かせた。
曲が終わり背後を振り返ると、佇んで聴いていた彼は涙を流していた。どうやら心を奪われたらしい。『この曲教えてくれよ! 弾けるようになりたい!』と、せがんで来た。書類仕事が溜まっていたので断ろうかと想ったが『惚れちまったんだ!』と彼は食い下がった。
涙を流し真剣な……情熱を注ぐ瞳をイポリトはしていた。彼はピアノに情熱を注いでいた。ピアノに恋をしていた。
ノエルと同じ瞳……いやそれ以上に綺麗な瞳をしてるな。
眉を下げ、少年のイポリトを見下ろすティコの胸が甘く疼いた。
ティコは小さな溜め息を吐き、自らを戒めると話を逸らしイポリトを揶揄いつつも、幻想即興曲を紐解いてやった。
恋に落ちた、とティコに自覚はあった。相手は教え子であったし、父も母も失った天涯孤独の身でもあった。例え胸の内を明かしても、逃げ場の無い相手を怯えさせるだけだ。それは船上で自分が犯された事と等しい。ならばこの想いは素振りにも出してはならない。
いつまでもイポリトが少年で居てくれれば良い。いつか『男』になってしまったら私は離れなければならなくなる。それまで……せめてそれまで、愛した者に、誰よりも尊い者に自分の持て得る限りの物を注ぎ込みたい。ティコはイポリトの教育に心血を注いだ。
しかし少年の成長は残酷で背は日々若竹のように天を目指し、愛らしい顔つきから精悍な顔つきへと変わる。声変わりが始まり、イポリトは男らしく変貌する。鍵盤に添えていた華奢な手は大きく武骨になり、逞しい腕からは血管が浮き出、力仕事をこなす背は筋が浮き出た。
ティコは愛弟子の成長を喜ぶ半面、焦燥感に駆られていた。
イポリトが少年の頃から度々『教育過程を速やかに終了しなさい。君にしては時間が掛かり過ぎだ』とハデスから通達が来たが、彼女はそれを無視した。
イポリトに武術を教え、酒も、喧嘩の仕方も仕込んだ。
青年になったイポリトは笑う事は少なかったが、二柱で街を歩くといつも何処か楽しそうだった。そんな彼の隣でティコは寂しそうに笑う。いつも彼を見下ろしていたのに関わらず、視線は並び、あっという間にティコはイポリトを見上げるようになった。
ここまで成長すればもうハデスも自分も誤摩化せないな。そろそろお別れだ。
ティコは密かな恋心を隠した自分を褒め、また死神の教育者として教え子に心を奪われた事を恥じ、静かに笑った。
憂いを含んだ微笑を浮かべるティコをイポリトはいつも案じていた。
イポリトもティコを愛していた。師としてではなく、出会った時から女性として見ていた。自分に惜しみなく美しい物を与える彼女を、気高く美しく居るのにも関わらず気取らない彼女を、男と対等に渡り合う彼女を、何処か寂しげに自分を垣間見る彼女をイポリトは愛していた。愛を打ち明け彼女を優しく引き寄せ抱きしめたい。小さな唇の暖かさを知りたい。甘い疼きともどかしさを分かち合い、夫婦として朝を迎えたらどんなに幸福だろうかと考えていた。
切ない瞳で自分を見つめるイポリトの視線にティコは気付いていた。彼女は彼の心の内を知っていた。しかし突き放すしかなかった。
私は子を宿せない。次世代を残せない死神は教育者になるしか死ぬ方法が無い。
夫婦になれば優しいイポリトは私に気を遣って、他の女を抱かないだろう。操を立てた彼は子を残さないだろう。
私が死んだら彼は独りぽっちだ。……永遠に独りぽっちだ。
ランゲルハンス島でイポリトを待つ母親が居る。自分のかか様を裏切るばかりか、愛しい者の母親まで裏切る事は出来ない。
私が『もっとイポリトの側に居たい』とグズグスしていたからこんな事になったんだ。早く彼の許を去らねば。
ティコの心情を知ってか知らずかハデスから最終通告の書面が届いた。『次の教え子が控えている。可及的速やかに教育過程を終了させ、新しい任地へ赴くように。然も無ければ苦役を課す』と。
いいタイミングだった。イポリトが仕事に出ている間、ティコは荷物を纏めた。自室の必要な荷物をまとめ終え、一息吐こうとリビングへ向かう。するとノエルのピアノが視界に入った。
……そういえばまだパンドラの匣に納めてなかったな。
ティコはピアノに近寄ると腕木を撫でて、鍵盤を軽く叩く。
職人を呼び、ノエルのピアノは幾度か修理や改良を重ねていた。そのお蔭か幾度の引越しにも耐え、そして楽器として数百年に渡り美しい音色を響かせて来た。外装は変わっても本質は変わっていない。ティコが望んだ物が、ノエルが深く愛したピアノに詰め込まれていた。
私以上にこのピアノを愛するイポリトに、このピアノを託そう。
ティコはピアノをそのままにすると、想い出に浸りつつイポリトの帰宅を待った。
帰宅した彼と共にステュクスで一杯引っ掛けた。カウンターに凭れて酔って寝た振りをした。律儀にも彼は嘘寝を決め込むティコを負ぶって帰宅した。ティコを部屋まで運ぶと静かにベッドに下し、暫く髪を撫でていた。
大きく武骨な手が髪や柔肌を滑る。小鳥の雛を愛しげに、慈しむようにティコに触れる。
……紳士だな。犯そうと想えば犯せられるし、私もその心づもりでいたのに……。
ティコは瞼を動かすと徐に瞳を開いた。
その途端、イポリトは手を引っ込める。
「酔って寝ちまったんだ。家まで運んで来た」イポリトは鼻を鳴らした。
「……ご苦労さん」ティコは瞼を擦った。
立ち上がったイポリトは部屋を後にしようとした。
ティコは眉を下げた。据え膳喰わぬ男だね。無理矢理抱かれれば私も諦めがついたし、こんな手を使う汚い女だと分かればイポリトも諦めがついただろうに……。
「襲わないのか?」ティコは問うた。
振り返らずにイポリトは答える。
「襲って欲しいなら襲うぜ。……どうする?」
ティコは笑う。
「それを聞くたぁ、まだまだお前さんも坊やだね」
「うっせ」イポリトは鼻を鳴らした。
ティコは小気味良く笑い、溜め息を吐くと明日この国を発つ旨を伝えた。
話を聞いたイポリトの声は微かに震える。
「……もう一緒に居られねぇのか?」
「居られる訳ないだろ、夫婦じゃねぇんだから。男同士でもお前さんとローレンスは特別なんだよ。監視役と対象なんだから」ティコは笑った。
イポリトは歩み寄るとベッドの前に屈み、ティコの手を取り掌にキスを落とす。
「じゃあ夫婦になれば良い」
声を失ったティコはイポリトを見つめた。頷きたかった。この男に身を委ね、共に笑い共に歩み、共に死にたかった。しかしそれは永遠に叶わない。
ティコは瞳を伏せて首を横に振る。
「……ダメだ」
「愛してる」イポリトは彼女の手を強く握り締めた。
ティコは唇を噛んだ。
やめてくれ。引き止めないでくれ。美しい想い出を美しいままにさせないでくれ。全てを台無しにして、お前に嫌われて……軽蔑されて別れれば苦しまずに生きていけたのに。これ以上胸を甘く疼かせて苦しませないでくれ。
自らを戒め、長い溜め息を吐いたティコは虚空を見上げ、作り話を紡ぐ。
「以前、言っただろ。生き物は大人になったら次の世代を作るって。私はそれが出来ない。女の機能が備わっていない。生家でも私が男じゃないと落胆され、次世代を生めない体だと死神の親父に知られると哀れまれた。私は男でも女でもない。だから……せめて独りでいるんだ」
「それでも俺はお前と居たい!」
ティコは微笑むとイポリトの手を退ける。
「……互いに不幸になるのはやめよう。私はヒュプノスの育て屋として生きて死ぬよ。気が遠くなるけれどもノルマをこなせば死は認められる。早く死ねるように祈っててくれ」
イポリトは大きな肩を震わせつつティコの部屋を後にした。ティコは長い溜め息を吐くと、瞳を閉じた。瞼から一筋の涙を頬に伝わらせた。
預けられた子供は親と離れた事により始めは皆表情に影が射していた。しかしティコと過ごしている内に笑みを取り戻した。幼き日に心に大きな傷を負ったティコは弟子である預かり子を第一に考えて行動した。彼らにやる気が無ければ死神としての勉強は教えなかった。本人のやる気が起こるまで辛抱強く待ったし、勉強以外の事に夢中になれるように様々な事に触れさせてやった。音楽、武術、料理、水泳、文学……全てヘカテ女神がティコに触れさせた事だった。弟子達は初めて触れる学問や芸術、生きる術に瞳を輝かせてのめり込んだ。
やがて生きる意欲を取り戻した弟子達にティコは死神としての勉強を教えた。初めの内は進捗に差異はあったものの、弟子達が苦役を終えた親の許に戻る頃には一柱の神として任に就ける程に成長させた。
親許を離れた弟子達はティコに教わった通り、命の期限が短い人間に敬意を払って頭に触れた。例え死の現場に居合わせなくとも、爛れた右手で触れれば死が訪れる。ティコは必ず一度は弟子達に触れた人間の死の現場を見せた。凄惨な現場、慟哭が響く現場、理不尽な現場……様々な死を見せた。人間が息を引き取り、死神タナトスに魂を体から切り離される所を弟子達は見守った。心優しい弟子は涙を流し、今まで人間を小馬鹿にしていた弟子は狼狽えた。しかし死を見つめ、弟子達は命や生物に敬意を払いつつ任に就くようになった。
これについてティコはハデスに直々に褒められた。しかし彼女は良い教育をしたとは一切考えていなかった。
冥府に呼び出され、玉座の前で膝を折りハデスの淡々とした賞讃の言葉を聞くティコは唇を引き結んだ。
私は褒められる事をした訳じゃない。全ては自分の為にやった事だ。じじ様、かか様、そしてノエルへの罪滅ぼしだ。……彼らにしてやれなかった『本質を見る』と言う事を実践してるに過ぎない。
ハデスは『報奨を与える。妃には反対されているがね。君が望む死が近くなる』と預かり子のノルマを減らそうと提案した。しかしティコは首を横に振った。
『折角だが受け入れられない。報奨をくれると言うならその分、弟子を増やして欲しい』とティコは更に弟子を受け入れた。
休暇を取らないティコは多くの時間を弟子達と共に過ごした。殆どが一、二年の付き合いだった。しかし長い付き合いをした弟子も居る。
それがイポリトだった。
彼が起こした事件は冥府を震撼させた。
イポリトは父親のヒュプノス神を殺した少年だった。彼は父親から虐待を受けていた。しかし自己防衛の為に父親を殺したのではない。同居するタナトス神の祖であるローレンスを守る為に父親を殺したのだ。
今でこそ人の世では魂の平等性は説かれているものの、当時親殺しは通常の殺人よりも重い罪だった。
親殺しを罰するエリニュス三女神はイポリトを罰しようと現世に出向こうとした。しかしヘカテ女神が『虐待を受けていたのにも関わらず、ローレンスの為に父を殺したイポリトがあまりにも哀れだ』と彼女達を止めた。
神としての務めを阻まれたエリニュス達は納得がいかず憤った。エリニュス達はヘカテの配下だったが血気盛んな女神達で指示を聞いてくれない。ヘカテはハデスに直々にエリニュス三女神に命を下すよう、頭を下げて頼んだ。
そのような経緯があり、エリニュス達の鞭から免れた幸運な子としてイポリトの話は有名だった。無論、その話はティコの耳にも入った。
その頃、ティコは預かり子と別れたばかりで通常の任に就いていた。ハデスはティコにイポリトの教育を頼んだ。『腕が良く、他者の痛みが分かる君にイポリトを任せたい。彼はローレンス付きのヒュプノス神の家系故に地獄耳も有している。君も地獄耳を有している。色々と教えてやって欲しい』と、ハデス直々の書面がティコの許に届いた。
通常なら陸路や船旅で任地へ赴く。しかし時間が切迫していた。ティコはトランク一つを提げてステュクスを介してイポリトとローレンスが居を構える管轄区へ出向いた。
「クソばばあ」
名前を教えたのにも関わらず、イポリトはティコをそう呼んだ。
弟子達に『先生』や『ティコ師』と呼ばれていたティコは彼の反応が新鮮だった。面白くて仕方が無かった。『私はばばあのつもりはない。クソじじいで結構だ』と窘めてもイポリトは『クソばばあ』と呼び続けた。自分を女扱いする優しいイポリトに心が暖かくなった。
イポリトは根性がひねくれていた訳では無い。口が悪くへそ曲がりなだけだった。心根はとても優しく、路地裏で出会った娼婦達や子猫に優しく接する愛らしい少年だった。快活で他者の為によく働き、弱き者に手を差し伸べ強き者に挑む逞しい少年でもあった。
父親にヒュプノス神としての仕事を叩き込まれていたようで、一柱の神としても任をそつなくこなした。彼は路地裏では破落戸に絡まれないように、市場では目標を見失わないように、機転を利かせたり地獄耳を駆使したりして難局を乗り越えた。今まで教育を施して来た弟子とは違うタイプの少年だった。
しかし実地は出来ても座学はからきしダメだった。管轄区の字や死神文字すら読めず、神話や他神族思想の学問も全くだった。
イポリトの引き継ぎ書に目を通したティコはアプローチを考えた。
決して馬鹿ではない。それどころかイポリトは非常に賢い少年だ。興味を持った事と学問を関連づけて引き込んだ方が良い。しかしあまりあの手この手で興味を惹こうとすると勘付くだろう。警戒されるのは困る。相手は私よりも賢い少年だ。勝負は一発だな。
ティコは同居人のローレンスからイポリトの過去を聞いた。どうやら人間の母親が赤子のイポリトに歌を歌ってやるのが日課だったらしい。母親は貧しい娼婦故に学はなかったが、精一杯愛情を注いで彼を育てたようだ。街角で聞き覚えた興行芝居の宣伝歌をイポリトに聞かせていたようだ。その所為なのだろう、イポリトは掃除や洗濯の際に良い声で歌っていた。国家を揶揄する低俗な歌も歌えば、見世物小屋の宣伝歌も歌い、労働歌も歌う。そして歌詞が分からないピアノ曲を鼻歌で頻繁に歌っていた。
音楽が好きなのか。だったら管轄区に置いたままのあのピアノに触れさせたい。
ティコはハデスに『ローレンスとイポリトの次の任地は私の管轄区にして欲しい。そこで教育を施したい』と頼み込んだ。
船旅で幾日も掛けて海を渡り、ティコはイポリト達と共に新大陸の管轄区へ戻った。大量の荷物をティコはローレンスと共に部屋へ運んでいると、イポリトの姿が見えない事に気付いた。さっきまで愛猫を小脇に抱えて荷物を引きずっていたのに。働き者がサボるとは珍しい。
部屋の中を探しまわるとリビングに彼は居た。ノエルのピアノに向かいティコに背を向けるイポリトは気配に気付いていない。彼の肩は小刻みに震えていた。泣いているのか笑っているのか寒いのか恐ろしいのか……どうして震えているのか。きっと彼自身にも分からないだろうし、震えている事すら気付いてないのかもしれない。
イポリトは鍵盤に触れる。
すると弦がハンマーに叩かれて音が鳴った。
彼の両肩が瞬時に上がった。
ティコは足音を忍ばせ、イポリトの真後ろに佇む。
「ピアノに興味があるのかい?」
「……ピアノ?」イポリトは振り返る。
ティコは悪戯っぽく微笑むとピアノに近付く。椅子に積まれていた楽譜を開き、譜面板に立てる。そして『退いてな』とイポリトを後ろに下がらせ椅子に座した。彼女は軽く一呼吸すると鍵盤に指を走らせ『英雄ポロネーズ』を弾いた。
演奏中に幾度もイポリトはティコの隣に立とうとした。演奏の邪魔になる、と想いつつもティコは目の端でイポリトを見遣った。
彼は瞳を輝かせていた。肉料理にがっつく時よりも愛猫を戯らす時よりも、真剣で美しい表情をしていた。
ピアノを語ったノエルと同じ表情だな。
美しいものを間近で見たティコは唇に微笑みを湛え、様々な曲を立て続けに弾いてやった。
久し振りにピアノに触れたティコは椅子の背に凭れて溜め息を吐いた。
「すげぇ! すげぇな! ティコってすげぇ! 箱を歌わせれるんだな!」イポリトは手放しで賞賛を贈った。
箱……? ピアノの事か? ティコは椅子の背凭れに頭を預けたまま、イポリトを見遣る。
「……坊主もピアノを歌わせてみたいかい?」
イポリトは瞬時に頷いた。
身を起こしたティコは譜面板に立てかけられた楽譜をイポリトに渡した。イポリトは五本の平行線に並んだオタマジャクシの化け物を渋い顔で見つめた。
「何これ?」腕を組んで脚を広げるティコをイポリトは見上げた。
「ピアノの歌の字だ。読めるか?」ティコは悪戯っぽく微笑んだ。
「読めねぇ」
「ピアノの歌の字も、死神文字もギリシャ文字もこの国の言葉も覚えなきゃ何も出来ない。何をするにもまず『言葉』ありきだ。歴史を知るのにも音楽を知るのにも、演劇を知るのにも人の心を知るのにも『言葉』が必要だ。『言葉』があれば昔を知り、今を見つめ未来を紡ぐ事が出来る」
イポリトは楽譜を見つめた。
眉を下げる彼をティコは見下ろした。賢い彼はどうやら気付いたようだ。
「な、ティコ。頼みがあんだけどよ……」イポリトはティコを見つめた。
鼻を鳴らしたティコは悪戯っぽい笑顔を向ける。
「紙とペンを持って来な。死神文字もギリシャ語もピアノの歌の字も全部教えてやる」
ティコが考えていた通り、イポリトは賢い少年だった。一度教えた事は直ぐに覚えたし、基礎を教えた直後に応用をやらせると機転を利かせて正解を導いた。
仕事にものめり込み、芝居にも傾倒し、よく学びよく遊びよく仕事をこなした。ピアノの練習は毎日欠かさずした。ピアノを弾く彼は常に笑っていた。美しい笑顔だった。生を謳歌し、美しい物を慈しむ尊い笑顔だった。
そんな彼の笑顔にティコは視線を奪われた。
ある日、ティコは気まぐれで幻想即興曲をイポリトに聴かせた。
曲が終わり背後を振り返ると、佇んで聴いていた彼は涙を流していた。どうやら心を奪われたらしい。『この曲教えてくれよ! 弾けるようになりたい!』と、せがんで来た。書類仕事が溜まっていたので断ろうかと想ったが『惚れちまったんだ!』と彼は食い下がった。
涙を流し真剣な……情熱を注ぐ瞳をイポリトはしていた。彼はピアノに情熱を注いでいた。ピアノに恋をしていた。
ノエルと同じ瞳……いやそれ以上に綺麗な瞳をしてるな。
眉を下げ、少年のイポリトを見下ろすティコの胸が甘く疼いた。
ティコは小さな溜め息を吐き、自らを戒めると話を逸らしイポリトを揶揄いつつも、幻想即興曲を紐解いてやった。
恋に落ちた、とティコに自覚はあった。相手は教え子であったし、父も母も失った天涯孤独の身でもあった。例え胸の内を明かしても、逃げ場の無い相手を怯えさせるだけだ。それは船上で自分が犯された事と等しい。ならばこの想いは素振りにも出してはならない。
いつまでもイポリトが少年で居てくれれば良い。いつか『男』になってしまったら私は離れなければならなくなる。それまで……せめてそれまで、愛した者に、誰よりも尊い者に自分の持て得る限りの物を注ぎ込みたい。ティコはイポリトの教育に心血を注いだ。
しかし少年の成長は残酷で背は日々若竹のように天を目指し、愛らしい顔つきから精悍な顔つきへと変わる。声変わりが始まり、イポリトは男らしく変貌する。鍵盤に添えていた華奢な手は大きく武骨になり、逞しい腕からは血管が浮き出、力仕事をこなす背は筋が浮き出た。
ティコは愛弟子の成長を喜ぶ半面、焦燥感に駆られていた。
イポリトが少年の頃から度々『教育過程を速やかに終了しなさい。君にしては時間が掛かり過ぎだ』とハデスから通達が来たが、彼女はそれを無視した。
イポリトに武術を教え、酒も、喧嘩の仕方も仕込んだ。
青年になったイポリトは笑う事は少なかったが、二柱で街を歩くといつも何処か楽しそうだった。そんな彼の隣でティコは寂しそうに笑う。いつも彼を見下ろしていたのに関わらず、視線は並び、あっという間にティコはイポリトを見上げるようになった。
ここまで成長すればもうハデスも自分も誤摩化せないな。そろそろお別れだ。
ティコは密かな恋心を隠した自分を褒め、また死神の教育者として教え子に心を奪われた事を恥じ、静かに笑った。
憂いを含んだ微笑を浮かべるティコをイポリトはいつも案じていた。
イポリトもティコを愛していた。師としてではなく、出会った時から女性として見ていた。自分に惜しみなく美しい物を与える彼女を、気高く美しく居るのにも関わらず気取らない彼女を、男と対等に渡り合う彼女を、何処か寂しげに自分を垣間見る彼女をイポリトは愛していた。愛を打ち明け彼女を優しく引き寄せ抱きしめたい。小さな唇の暖かさを知りたい。甘い疼きともどかしさを分かち合い、夫婦として朝を迎えたらどんなに幸福だろうかと考えていた。
切ない瞳で自分を見つめるイポリトの視線にティコは気付いていた。彼女は彼の心の内を知っていた。しかし突き放すしかなかった。
私は子を宿せない。次世代を残せない死神は教育者になるしか死ぬ方法が無い。
夫婦になれば優しいイポリトは私に気を遣って、他の女を抱かないだろう。操を立てた彼は子を残さないだろう。
私が死んだら彼は独りぽっちだ。……永遠に独りぽっちだ。
ランゲルハンス島でイポリトを待つ母親が居る。自分のかか様を裏切るばかりか、愛しい者の母親まで裏切る事は出来ない。
私が『もっとイポリトの側に居たい』とグズグスしていたからこんな事になったんだ。早く彼の許を去らねば。
ティコの心情を知ってか知らずかハデスから最終通告の書面が届いた。『次の教え子が控えている。可及的速やかに教育過程を終了させ、新しい任地へ赴くように。然も無ければ苦役を課す』と。
いいタイミングだった。イポリトが仕事に出ている間、ティコは荷物を纏めた。自室の必要な荷物をまとめ終え、一息吐こうとリビングへ向かう。するとノエルのピアノが視界に入った。
……そういえばまだパンドラの匣に納めてなかったな。
ティコはピアノに近寄ると腕木を撫でて、鍵盤を軽く叩く。
職人を呼び、ノエルのピアノは幾度か修理や改良を重ねていた。そのお蔭か幾度の引越しにも耐え、そして楽器として数百年に渡り美しい音色を響かせて来た。外装は変わっても本質は変わっていない。ティコが望んだ物が、ノエルが深く愛したピアノに詰め込まれていた。
私以上にこのピアノを愛するイポリトに、このピアノを託そう。
ティコはピアノをそのままにすると、想い出に浸りつつイポリトの帰宅を待った。
帰宅した彼と共にステュクスで一杯引っ掛けた。カウンターに凭れて酔って寝た振りをした。律儀にも彼は嘘寝を決め込むティコを負ぶって帰宅した。ティコを部屋まで運ぶと静かにベッドに下し、暫く髪を撫でていた。
大きく武骨な手が髪や柔肌を滑る。小鳥の雛を愛しげに、慈しむようにティコに触れる。
……紳士だな。犯そうと想えば犯せられるし、私もその心づもりでいたのに……。
ティコは瞼を動かすと徐に瞳を開いた。
その途端、イポリトは手を引っ込める。
「酔って寝ちまったんだ。家まで運んで来た」イポリトは鼻を鳴らした。
「……ご苦労さん」ティコは瞼を擦った。
立ち上がったイポリトは部屋を後にしようとした。
ティコは眉を下げた。据え膳喰わぬ男だね。無理矢理抱かれれば私も諦めがついたし、こんな手を使う汚い女だと分かればイポリトも諦めがついただろうに……。
「襲わないのか?」ティコは問うた。
振り返らずにイポリトは答える。
「襲って欲しいなら襲うぜ。……どうする?」
ティコは笑う。
「それを聞くたぁ、まだまだお前さんも坊やだね」
「うっせ」イポリトは鼻を鳴らした。
ティコは小気味良く笑い、溜め息を吐くと明日この国を発つ旨を伝えた。
話を聞いたイポリトの声は微かに震える。
「……もう一緒に居られねぇのか?」
「居られる訳ないだろ、夫婦じゃねぇんだから。男同士でもお前さんとローレンスは特別なんだよ。監視役と対象なんだから」ティコは笑った。
イポリトは歩み寄るとベッドの前に屈み、ティコの手を取り掌にキスを落とす。
「じゃあ夫婦になれば良い」
声を失ったティコはイポリトを見つめた。頷きたかった。この男に身を委ね、共に笑い共に歩み、共に死にたかった。しかしそれは永遠に叶わない。
ティコは瞳を伏せて首を横に振る。
「……ダメだ」
「愛してる」イポリトは彼女の手を強く握り締めた。
ティコは唇を噛んだ。
やめてくれ。引き止めないでくれ。美しい想い出を美しいままにさせないでくれ。全てを台無しにして、お前に嫌われて……軽蔑されて別れれば苦しまずに生きていけたのに。これ以上胸を甘く疼かせて苦しませないでくれ。
自らを戒め、長い溜め息を吐いたティコは虚空を見上げ、作り話を紡ぐ。
「以前、言っただろ。生き物は大人になったら次の世代を作るって。私はそれが出来ない。女の機能が備わっていない。生家でも私が男じゃないと落胆され、次世代を生めない体だと死神の親父に知られると哀れまれた。私は男でも女でもない。だから……せめて独りでいるんだ」
「それでも俺はお前と居たい!」
ティコは微笑むとイポリトの手を退ける。
「……互いに不幸になるのはやめよう。私はヒュプノスの育て屋として生きて死ぬよ。気が遠くなるけれどもノルマをこなせば死は認められる。早く死ねるように祈っててくれ」
イポリトは大きな肩を震わせつつティコの部屋を後にした。ティコは長い溜め息を吐くと、瞳を閉じた。瞼から一筋の涙を頬に伝わらせた。
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