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παρελθόν 13(18)
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閉じた瞳から一筋の涙を頬に伝わらせたティコは小さな溜め息を吐く。
「……だから私は弱いんだ。運命の前で恐れて震えるしか出来ないんだ。この間マークが『女神様だ。優しくて、綺麗で、強くて、素敵だ』って言ってくれたけど、私にあの賛辞は見合わない。臆病で、計算高くて、弱くて、醜いちっぽけな」
「そんな事ない!」ティコの胸に抱きついていたマークは両手を彼女の頭の側に突き、覆い被さるような体勢で声を荒げた。彼の瞳は潤んでいた。
マークは言葉を続ける。
「ティコは気が遠くなる時間を独りで歩んできたんだ。どんなに辛くても悲しくても苦しくても耐えて……前に進んで来たんだ。例え死ぬ事をひたすら望んでいたとしてもだ! そんな強い人を誰が貶して良い? ティコ、もう僕のティコの悪口なんて言わないで……僕のティコを苛めないで……。ガラスみたいなティコが割れちゃう。ティコが苦しいと僕も苦しいんだ」
マークの涙がティコの頬に滴り落ちた。堰を切った涙は次から次へとティコの頬を濡らす。
「マーク……」
嗚咽を上げるマークの頬にティコは触れた。
「ごめん、マーク。そんなに泣かないでくれ。マークが悲しいと私も悲しい」
「……ど、うして?」しゃくりあげつつマークは問うた。
マークの背に腕を回したティコは彼を抱き寄せる。
「マークを愛してるから。愛する者が悲しいと私も悲しい」
「……どうして? だって僕はイポリトには敵わない」
ティコは首を横に振った。
「確かに私はイポリトを愛していた。優秀な教え子ではなく、一柱の男として愛した。彼も私を女として愛し敬ってくれた。……でもマーク、お前さんは違ったんだ。私を……私自身として愛してくれたんだ。夕食の時、守ってくれたのが本当に嬉しかった。『ティコはティコだ』って。私を女としてではなく私として愛して守ってくれたんだと感じたんだ」
「でも……僕、ティコを女性だとも想ってるよ?」マークは洟を啜った。
「ああ、知ってるよ。それも嬉しい。でもそれ以上に私を私として愛してくれる事が嬉しいんだ。さっきも……『ティコ、もう僕のティコの悪口なんて言わないで』って言ってくれただろ? そうやってマークは私を愛して守ってくれているんだ」
「うん……」
「正直、マークがそこまで私を想ってくれてるんだなんて考えてなかった。ませた子供だなって想ってたんだ。だけど違った。眠る事無く、真摯に身の上話を聞いてくれた。そしてこうやって私の痛み一つ一つに涙を流してくれる……」
ティコはマークを強く抱きしめた。するとベッドが軋んだ。
「……ティコ」
「うん?」ティコはマークの髪に顔を埋める。
「僕だって男だよ? 子供扱いされると本当に困る。僕に抱きしめさせて? 僕はティコの旦那さんでティコは僕の奥さんなんだよ?」
腕の力をティコは抜いた。するとマークがベッドに手をつき彼女を見下ろす。
薄闇でもマークのターコイズブルーの瞳ははっきりと見えた。涙で潤み、そして愛しい者に情熱を注ぐ瞳だった。ひたすらに美しく尊い瞳だった。
ティコは微笑む。
「そうだな。……私達は夫婦だな」
「……死ぬまで……ずっと?」
「ああ」ティコは頷いた。
マークは微笑み返すとティコの唇にキスを落とした。
マークの柔らかい唇に触れられ、ティコは身を委ねていた。心地良かった。ノエルに抱かれた時よりもイポリトに求められた時よりも、じじ様やかか様と食事をした時よりも、とと様に撫でられた時よりも……。かけがえないパートナーに愛されている、と言う事実はティコがティコである事をどんな言葉よりも肯定する事だった。
陶酔に浸っているとマークの熱っぽい唇が唇を離れ、首や鎖骨、胸を押し付けているのをティコは感じた。腹も何だかくすぐったくて心地がいい。じらされ撫でられてるようで官能的だった。
……まさか。
眉を顰めたティコは顔を上げる。
「……マーク!」
マークは唇をティコの胸から離さず手の甲で腹を撫で続け、返事の代わりに彼女に視線をやった。
「お前さん、何て事してるんだい!?」
視線を豊かな胸に戻したマークはティコの古傷を愛おしそうに舐める。
「何って……夫婦だったら愛し合うでしょ? 『女神様をこうやって悦ばせな』ってマリアが話して聞かせてくれたんだ。僕、ティコに沢山気持ちよくなって欲しい」
「馬鹿! 精通もしてないケツの青いガキがファックだなんて早いよ!」
「うるさいな。また子供扱いする」
マークはティコの胸の先端を舌で突つき転がした。
「馬鹿!」
瞬時に上半身を起こし、頬を染めたティコはマークの頭を叩いた。
翌朝からマークは食事を真面に楽しめなかった。昨夜、ティコを舌で愛撫していたら想い切り頭を叩かれ、舌を噛んだ。喋れるものの、塩気のある物や熱い物を口にすると痛みが走った。
食堂で牛乳がたっぷり入った食後のコーヒーを飲んだマークは痛みに顔を顰める。
「ティコ、ベロが痛いよ」
「自業自得だよ」機嫌の悪いティコは瞳を伏せ、ブラックコーヒーに唇を付ける。
「酷いな。……ティコはテーブルでもベッドでもシャイなんだな。可愛い」
コーヒーを気管へ誤飲させたティコは噎せた。
「ティコ、大丈夫?」席を立ったマークはティコの背を撫でた。
「……お前さん、そんなに大人びていたか? もう少し子供らしくしたらどうだい?」ティコは瞳に涙を浮かべつつもマークを見遣る。
「ヤだよ。『子供っぽくした方が女神様のウケがいいよ。でも紳士らしくもすること。ベッドではオオカミになりな』ってマリアに教えて貰ったんだ。母さんをマンマなんて、じいちゃんをノンノなんて言うの、ガキ臭くて耐えられなかったよ」マークは溜め息を吐いた。
「……マリアの素晴しい教育の賜物と言う事もあるだろうが、お前さんの生来の性格も要因の一つかもしれないね。オオカミがバンビの振りをしているとは想わなんだ」
マークは唇を尖らせる。
「また『お前さん』だなんて呼ぶ」
苦り切った表情を浮かべるマークにティコは微笑んだ。
朝食後、二人は甲板に出ると、サマーベッドに座した。
ティコは人目につかない所に自然と足を向けた。それが当然であるかのように。きっと彼女が遭遇した事や経験がそうさせたのだろう。言わずとも分かっていた。心を結んだ伴侶であろうとも、年の差を世間が許さないと言う事が。
ティコとマークは体を寄せ海風を感じつつ日向ぼっこをする。食後の甲板は人がおらず、広い海にたった二人きりになったようで気持ちがよかった。
マークは色んな話をティコに聞かせてやった。マリアから聞いた女優の恋の話、移民街の祭りの話、いつか父のような商人になってティコを連れて世界中を旅し、マリアに会いに行く話……。ティコはマークの輝く瞳を見つめ、微笑しつつも傾聴した。
未来の話になるとティコは一抹の不安を覚え、胸の奥が僅かに痛んだ。ティコの寂しそうな微笑に気付いたマークは彼女の手を握る。そして潤みかかった不思議な色の瞳を覗き込み『大丈夫だよ』と言わんばかりに二人寄り添う希望に満ちた話ばかりを紡いだ。
それでもイポリトを突き放した時と同じくまた別離しなければならない。それを想うとティコの唇は悲しみに震えた。
そんな彼女の唇にマークは唇を重ねた。
「……ねぇティコ」唇を離し、マークは頬を寄せる。
「なんだい?」
「いつか……ルビーのピアスをプレゼントさせてね? 大事な物だったろうに僕の為に手放してくれたから……。同じ物を用意する事は出来ないけど、大切にしてくれたら嬉しいな」
ティコは微笑む。
「……ありがとう、マーク。楽しみにしてる。絶対に大切にするよ」
アダムとイヴ、デウカリオンとピュラのように、夫婦のように仲睦まじく寄り添う二人を周囲の者達は訝しんだ。
しかしマークに寄り添うティコは気高くとも、今までになく柔和で嫋やかな表情をしていた。優しい眼差しの一つ一つがマークに注がれる。船内を歩く時は差し出されたマークの手に優しく手を重ね、二人座せば視線を絡め合い微笑み合った。女性としてティコは大輪の花を咲かせていた。誰が見ても彼女は美しかった。
そんなティコに若い紳士達は目をつけていた。
サマーベッドに座し、アフタヌーンティーを楽しんでいると白いジャケットを着こなした美しい青年にティコは声を掛けられた。ティコの忘れ物を取りにマークが船室へ戻っている時の事だった。
「こんにちはレディ。日光浴がお好きなのですね」
ティコに声を掛けた青年はティコが許してもいないのに彼女の隣に座した。
なんて無礼な男なのだろう。ティコが眉を顰めると、青年はすかさず謝りティコの手の甲にキスを落とす。
「どうかお許しを。貴女がお連れの少年が席を外す所をずっと見計らっていたんです。美しい貴女の隣に座せるなんて光栄だ。煌々しい貴女の前ではアプロディテもプシュケも恥じらって隠れてしまう」
「……何か?」
ティコのつれない問いに青年は苦笑を浮かべると、デッキを見遣る。ティコも青年の視線の先を見遣った。四人の若い紳士達がこちらを窺っていた。
「抜け駆けしたんです。彼らとは友人です。でも恋のライバルです。ずっと互いに牽制していました。貴女を知りたくて、知りたくて仕方が無かった」
「……知りたいって、見ての通りだよ。男の恰好をした頭がイカれた女だ」
ティコは瞳を伏せる。ナンパか。久し振りだから揶揄っても良かった。しかしマークと言う掛け替えの無いパートナーを得た今は鬱陶しくて仕方が無い。追い払うにしても本物の貴族様が相手じゃ無碍にも出来ない。
「謙遜なさらないで。僕には分かっているんです。その姿もその言葉も仮初めだと言う事が。夕食を一緒に如何ですか? あの少年と同じように貴女と同じテーブルに着く光栄に与りたい。勿論少年もご一緒に」
「残念だが淑女が着るようなドレスを持っていなくてね。男物の外套を着たままの貧乏貴族さ。言葉遣いも行儀もなってない。きっと恥をかかせちまうよ」ティコ首を横に振った。
「ご安心を。貴女の声は穏やかで美しい。いつまでも耳を傾けていたくなる。そよ風に揺らされる樹々のようだ。それに当家が抱えるお針子や召使いも連れて旅をしているんです。今ならまだ間に合う。採寸さえすれば夕食までに女神のお召し物を仕立てさせますよ」
ティコは苦笑する。一夜の慰み相手を口説くのにしては随分と粘ってくれる。どうせ着せた服を脱がすのに何故そこまで熱意を注ぐ? このお坊ちゃんはなかなか断らせてくれないものだ。
「私は遊びをしないものでね」
「本気です! 貴女の美しさを一目見て運命を感じました!」青年はティコの瞳を覗いた。
瞳を伏せたティコは小さな溜め息を吐く。
「そんなに易々と『運命』だなんて口にしちゃならないよ。運命なんてそうそう変えられる物じゃないんだ。それにお前さん……専属のお針子や召使いを抱えて旅する程の大貴族様だ。育ちの悪い私なんかと居たら聞こえが悪くなるよ。止めておきな」
ティコはサマーベッドから腰を上げた。すると青年も腰を上げ、彼女の手を握った。
ティコは唇を噛む。青年は怯まない。
「貴女の家柄なんて気にしない! 貴女は美しいレディだ!」
「私はお前さんが想っているような女じゃない! ……私は私だ!」
ティコは青年を睨んだ。
「……手を離してよ。僕のティコが怖がってる」
ティコに縋る青年と彼女の間にマークが割って入った。
突然の闖入者に驚いた青年はティコの手を離す。マークは不躾な青年を見上げる。
「マーク」ティコは胸を撫で下ろした。
振り返りティコを見上げたマークは『大丈夫だよ』と微笑むと、青年の方へ向き直る。マークは無表情で青年を見上げた。しかし彼の瞳は獣の瞳だった。大事なパートナーと居心地の良い巣を奪われそうになって死闘を挑む獣の瞳だった。
小さな獣が漂わせる殺気に青年は背筋を凍らせた。
「女性である前にティコはティコだ。お兄さんの周りには色んな綺麗な女性がいるかもしれない。それこそ大きな鳥籠の中で沢山綺麗な飼い鳥が跳ね回っているように。でもティコはその中の一羽じゃない。ティコは自由だ。ティコは空を飛ぶ鳥だ」
マークの瞳を青年は見つめた。そして長い溜め息を吐くと眉を下げ、瞳を伏せる。
「……レディティコ、貴女の気持ちを考えずに失礼致しました。数々の非礼をお詫び申し上げます。貴女には小さくとも理解に富んだ素晴しいパートナーがいるのですね」
マークの肩に手を添えていたティコはこっくりと頷いた。
「でもどうかお気を付けて下さい。船内で貴女方が噂になってます。世間は貴女方の純然たる愛を認めたがらないのです。どうか目立たないよう……」
「……教えてくれてありがとう。私も迂闊だった。気付かれていたなんて、人に見られていたなんて……。どうか貴方にも素敵な出会いがありますように」眉を下げたティコは会釈した。
青年は寂しそうに微笑み会釈すると、友人達の許に戻って行った。
「ティコ、待たせてごめんね。恐くなかった? もう船室に戻ろう?」マークはティコを見上げると手を差し伸べた。
唇を震わせるティコは頷くと、差し伸べられた手を取らずにマークの背を軽く押して促した。
「ティコ?」マークは眉を下げた。
「……だから私は弱いんだ。運命の前で恐れて震えるしか出来ないんだ。この間マークが『女神様だ。優しくて、綺麗で、強くて、素敵だ』って言ってくれたけど、私にあの賛辞は見合わない。臆病で、計算高くて、弱くて、醜いちっぽけな」
「そんな事ない!」ティコの胸に抱きついていたマークは両手を彼女の頭の側に突き、覆い被さるような体勢で声を荒げた。彼の瞳は潤んでいた。
マークは言葉を続ける。
「ティコは気が遠くなる時間を独りで歩んできたんだ。どんなに辛くても悲しくても苦しくても耐えて……前に進んで来たんだ。例え死ぬ事をひたすら望んでいたとしてもだ! そんな強い人を誰が貶して良い? ティコ、もう僕のティコの悪口なんて言わないで……僕のティコを苛めないで……。ガラスみたいなティコが割れちゃう。ティコが苦しいと僕も苦しいんだ」
マークの涙がティコの頬に滴り落ちた。堰を切った涙は次から次へとティコの頬を濡らす。
「マーク……」
嗚咽を上げるマークの頬にティコは触れた。
「ごめん、マーク。そんなに泣かないでくれ。マークが悲しいと私も悲しい」
「……ど、うして?」しゃくりあげつつマークは問うた。
マークの背に腕を回したティコは彼を抱き寄せる。
「マークを愛してるから。愛する者が悲しいと私も悲しい」
「……どうして? だって僕はイポリトには敵わない」
ティコは首を横に振った。
「確かに私はイポリトを愛していた。優秀な教え子ではなく、一柱の男として愛した。彼も私を女として愛し敬ってくれた。……でもマーク、お前さんは違ったんだ。私を……私自身として愛してくれたんだ。夕食の時、守ってくれたのが本当に嬉しかった。『ティコはティコだ』って。私を女としてではなく私として愛して守ってくれたんだと感じたんだ」
「でも……僕、ティコを女性だとも想ってるよ?」マークは洟を啜った。
「ああ、知ってるよ。それも嬉しい。でもそれ以上に私を私として愛してくれる事が嬉しいんだ。さっきも……『ティコ、もう僕のティコの悪口なんて言わないで』って言ってくれただろ? そうやってマークは私を愛して守ってくれているんだ」
「うん……」
「正直、マークがそこまで私を想ってくれてるんだなんて考えてなかった。ませた子供だなって想ってたんだ。だけど違った。眠る事無く、真摯に身の上話を聞いてくれた。そしてこうやって私の痛み一つ一つに涙を流してくれる……」
ティコはマークを強く抱きしめた。するとベッドが軋んだ。
「……ティコ」
「うん?」ティコはマークの髪に顔を埋める。
「僕だって男だよ? 子供扱いされると本当に困る。僕に抱きしめさせて? 僕はティコの旦那さんでティコは僕の奥さんなんだよ?」
腕の力をティコは抜いた。するとマークがベッドに手をつき彼女を見下ろす。
薄闇でもマークのターコイズブルーの瞳ははっきりと見えた。涙で潤み、そして愛しい者に情熱を注ぐ瞳だった。ひたすらに美しく尊い瞳だった。
ティコは微笑む。
「そうだな。……私達は夫婦だな」
「……死ぬまで……ずっと?」
「ああ」ティコは頷いた。
マークは微笑み返すとティコの唇にキスを落とした。
マークの柔らかい唇に触れられ、ティコは身を委ねていた。心地良かった。ノエルに抱かれた時よりもイポリトに求められた時よりも、じじ様やかか様と食事をした時よりも、とと様に撫でられた時よりも……。かけがえないパートナーに愛されている、と言う事実はティコがティコである事をどんな言葉よりも肯定する事だった。
陶酔に浸っているとマークの熱っぽい唇が唇を離れ、首や鎖骨、胸を押し付けているのをティコは感じた。腹も何だかくすぐったくて心地がいい。じらされ撫でられてるようで官能的だった。
……まさか。
眉を顰めたティコは顔を上げる。
「……マーク!」
マークは唇をティコの胸から離さず手の甲で腹を撫で続け、返事の代わりに彼女に視線をやった。
「お前さん、何て事してるんだい!?」
視線を豊かな胸に戻したマークはティコの古傷を愛おしそうに舐める。
「何って……夫婦だったら愛し合うでしょ? 『女神様をこうやって悦ばせな』ってマリアが話して聞かせてくれたんだ。僕、ティコに沢山気持ちよくなって欲しい」
「馬鹿! 精通もしてないケツの青いガキがファックだなんて早いよ!」
「うるさいな。また子供扱いする」
マークはティコの胸の先端を舌で突つき転がした。
「馬鹿!」
瞬時に上半身を起こし、頬を染めたティコはマークの頭を叩いた。
翌朝からマークは食事を真面に楽しめなかった。昨夜、ティコを舌で愛撫していたら想い切り頭を叩かれ、舌を噛んだ。喋れるものの、塩気のある物や熱い物を口にすると痛みが走った。
食堂で牛乳がたっぷり入った食後のコーヒーを飲んだマークは痛みに顔を顰める。
「ティコ、ベロが痛いよ」
「自業自得だよ」機嫌の悪いティコは瞳を伏せ、ブラックコーヒーに唇を付ける。
「酷いな。……ティコはテーブルでもベッドでもシャイなんだな。可愛い」
コーヒーを気管へ誤飲させたティコは噎せた。
「ティコ、大丈夫?」席を立ったマークはティコの背を撫でた。
「……お前さん、そんなに大人びていたか? もう少し子供らしくしたらどうだい?」ティコは瞳に涙を浮かべつつもマークを見遣る。
「ヤだよ。『子供っぽくした方が女神様のウケがいいよ。でも紳士らしくもすること。ベッドではオオカミになりな』ってマリアに教えて貰ったんだ。母さんをマンマなんて、じいちゃんをノンノなんて言うの、ガキ臭くて耐えられなかったよ」マークは溜め息を吐いた。
「……マリアの素晴しい教育の賜物と言う事もあるだろうが、お前さんの生来の性格も要因の一つかもしれないね。オオカミがバンビの振りをしているとは想わなんだ」
マークは唇を尖らせる。
「また『お前さん』だなんて呼ぶ」
苦り切った表情を浮かべるマークにティコは微笑んだ。
朝食後、二人は甲板に出ると、サマーベッドに座した。
ティコは人目につかない所に自然と足を向けた。それが当然であるかのように。きっと彼女が遭遇した事や経験がそうさせたのだろう。言わずとも分かっていた。心を結んだ伴侶であろうとも、年の差を世間が許さないと言う事が。
ティコとマークは体を寄せ海風を感じつつ日向ぼっこをする。食後の甲板は人がおらず、広い海にたった二人きりになったようで気持ちがよかった。
マークは色んな話をティコに聞かせてやった。マリアから聞いた女優の恋の話、移民街の祭りの話、いつか父のような商人になってティコを連れて世界中を旅し、マリアに会いに行く話……。ティコはマークの輝く瞳を見つめ、微笑しつつも傾聴した。
未来の話になるとティコは一抹の不安を覚え、胸の奥が僅かに痛んだ。ティコの寂しそうな微笑に気付いたマークは彼女の手を握る。そして潤みかかった不思議な色の瞳を覗き込み『大丈夫だよ』と言わんばかりに二人寄り添う希望に満ちた話ばかりを紡いだ。
それでもイポリトを突き放した時と同じくまた別離しなければならない。それを想うとティコの唇は悲しみに震えた。
そんな彼女の唇にマークは唇を重ねた。
「……ねぇティコ」唇を離し、マークは頬を寄せる。
「なんだい?」
「いつか……ルビーのピアスをプレゼントさせてね? 大事な物だったろうに僕の為に手放してくれたから……。同じ物を用意する事は出来ないけど、大切にしてくれたら嬉しいな」
ティコは微笑む。
「……ありがとう、マーク。楽しみにしてる。絶対に大切にするよ」
アダムとイヴ、デウカリオンとピュラのように、夫婦のように仲睦まじく寄り添う二人を周囲の者達は訝しんだ。
しかしマークに寄り添うティコは気高くとも、今までになく柔和で嫋やかな表情をしていた。優しい眼差しの一つ一つがマークに注がれる。船内を歩く時は差し出されたマークの手に優しく手を重ね、二人座せば視線を絡め合い微笑み合った。女性としてティコは大輪の花を咲かせていた。誰が見ても彼女は美しかった。
そんなティコに若い紳士達は目をつけていた。
サマーベッドに座し、アフタヌーンティーを楽しんでいると白いジャケットを着こなした美しい青年にティコは声を掛けられた。ティコの忘れ物を取りにマークが船室へ戻っている時の事だった。
「こんにちはレディ。日光浴がお好きなのですね」
ティコに声を掛けた青年はティコが許してもいないのに彼女の隣に座した。
なんて無礼な男なのだろう。ティコが眉を顰めると、青年はすかさず謝りティコの手の甲にキスを落とす。
「どうかお許しを。貴女がお連れの少年が席を外す所をずっと見計らっていたんです。美しい貴女の隣に座せるなんて光栄だ。煌々しい貴女の前ではアプロディテもプシュケも恥じらって隠れてしまう」
「……何か?」
ティコのつれない問いに青年は苦笑を浮かべると、デッキを見遣る。ティコも青年の視線の先を見遣った。四人の若い紳士達がこちらを窺っていた。
「抜け駆けしたんです。彼らとは友人です。でも恋のライバルです。ずっと互いに牽制していました。貴女を知りたくて、知りたくて仕方が無かった」
「……知りたいって、見ての通りだよ。男の恰好をした頭がイカれた女だ」
ティコは瞳を伏せる。ナンパか。久し振りだから揶揄っても良かった。しかしマークと言う掛け替えの無いパートナーを得た今は鬱陶しくて仕方が無い。追い払うにしても本物の貴族様が相手じゃ無碍にも出来ない。
「謙遜なさらないで。僕には分かっているんです。その姿もその言葉も仮初めだと言う事が。夕食を一緒に如何ですか? あの少年と同じように貴女と同じテーブルに着く光栄に与りたい。勿論少年もご一緒に」
「残念だが淑女が着るようなドレスを持っていなくてね。男物の外套を着たままの貧乏貴族さ。言葉遣いも行儀もなってない。きっと恥をかかせちまうよ」ティコ首を横に振った。
「ご安心を。貴女の声は穏やかで美しい。いつまでも耳を傾けていたくなる。そよ風に揺らされる樹々のようだ。それに当家が抱えるお針子や召使いも連れて旅をしているんです。今ならまだ間に合う。採寸さえすれば夕食までに女神のお召し物を仕立てさせますよ」
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「本気です! 貴女の美しさを一目見て運命を感じました!」青年はティコの瞳を覗いた。
瞳を伏せたティコは小さな溜め息を吐く。
「そんなに易々と『運命』だなんて口にしちゃならないよ。運命なんてそうそう変えられる物じゃないんだ。それにお前さん……専属のお針子や召使いを抱えて旅する程の大貴族様だ。育ちの悪い私なんかと居たら聞こえが悪くなるよ。止めておきな」
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「貴女の家柄なんて気にしない! 貴女は美しいレディだ!」
「私はお前さんが想っているような女じゃない! ……私は私だ!」
ティコは青年を睨んだ。
「……手を離してよ。僕のティコが怖がってる」
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「マーク」ティコは胸を撫で下ろした。
振り返りティコを見上げたマークは『大丈夫だよ』と微笑むと、青年の方へ向き直る。マークは無表情で青年を見上げた。しかし彼の瞳は獣の瞳だった。大事なパートナーと居心地の良い巣を奪われそうになって死闘を挑む獣の瞳だった。
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「……レディティコ、貴女の気持ちを考えずに失礼致しました。数々の非礼をお詫び申し上げます。貴女には小さくとも理解に富んだ素晴しいパートナーがいるのですね」
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「……教えてくれてありがとう。私も迂闊だった。気付かれていたなんて、人に見られていたなんて……。どうか貴方にも素敵な出会いがありますように」眉を下げたティコは会釈した。
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「ティコ、待たせてごめんね。恐くなかった? もう船室に戻ろう?」マークはティコを見上げると手を差し伸べた。
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