ランゲルハンス島奇譚(2)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(上)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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二章

十一節

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「ヤダ! 行かない!」

 アメリアの声が街中に響く。

 やっぱり駄々をこねやがった。

 ティコと再会した翌日、イポリトは嫌がるアメリアを歯医者まで引っ張って行った。案の定、診察台で暴れかけたのでイポリトは医者にアメリアの固定を頼まれた。幸いにも虫歯は一カ所で、その日の内に歯石の掃除もして通院を心配する事はなかった。

 帰宅する途中、イポリトは彼女に問うた。

「……なぁ、お前どうやって魔術で治療されていたんだよ。魔術ったっても少しは痛いだろ?」

 隈がついた眼の周りを腫らしたアメリアは洟をすする。

「……アレイオーンが付き添ってくれたの。だから恐くなかった」

「アレイオーン?」

「アレイオーン。あたしの初めての親友。大切な家族」

 イポリトは彼女の話を聞いた。荒れ地の家で彼女は幼い頃から一人暮らしをしていた。父の後を継ぎ、死神になりたいとランゲルハンスに相談した所、『先ずは自立しなさい』と諭されたらしい。その折に青毛の馬アレイオーンに出会い、親友になって共に暮らしたそうだ。アメリアが剣術や武術で怪我を負うと、アレイオーンが彼女を背負って向かいのランゲルハンス宅を訪ねる。苦しみつつも治癒魔術を受けている間、窓から首を入れたアレイオーンがずっと付き添ってくれたらしい。恐くても痛くてもアレイオーンが一緒なら乗り越えられた、と。

 イポリトは小さな溜め息を吐く。

「……良い家族がいたんだな。しかしな、バイクも転がせるし酒も飲めるし霊も捕まえたしいい大人だろ。少しは我慢しろ」イポリトはアメリアの頭を掴むと軽く回した。

 アメリアの手を引いたイポリトが近道をしようと路地に入る。すると馴染みの売春婦に会った。

「よう」イポリトは片手を挙げる。

「久し振り」壁に寄り掛かった売春婦は微笑んだ。彼女は彼が極東から帰国した日に家に連れ込まれた売春婦だった。

 アメリアはイポリトから手を離すと彼女に会釈した。売春婦はアメリアに微笑んだ。

「……あたし、先帰ってるね」アメリアは踵を返す。

「表で待ってろ」イポリトは引き止めた。

「……でも」アメリアは渋った。

「……先に帰ったらもう病院付き添わねぇからな」

「……分かったわよ」

 アメリアは唇を尖らせると表へ出た。

 イポリトが頬を人差し指で掻いていると売春婦は笑う。

「女の子待たせて一発……なんて訳じゃなさそうね」

「当たりめーだ。……その内話そうと想ってたけどよ、今話すわ。時間あんだろ?」

「今日はボウズでさ。時間なら幾らでもあるよ。で、何? 水色髪の座敷童の事かい? アレは妖精かい?」

「違ぇよ。真面目な話だよ」

「おちゃらけたあんたが真面目な話をするなんて……明日はハリケーンが来るね」売春婦は豪快に笑った。

 イポリトは鼻を鳴らす。

「……俺、遊ぶのやめるわ」

 売春婦はイポリトを見遣ると微笑んだ。

「んだよ、笑うんじゃねぇよ」イポリトは眉をしかめた。

「さっきの可愛い娘だろ? 腹膨らませちまったかい? おめでとさん、ダッド」

「手さえつけてねぇよ。俺の主義に反するわ。とにかくもうやめたんだ。他の奴らに伝えてくれ。別れがこんなんですまんな」

 煙草を取り出した売春婦は咥えると火を点ける。

「皆に伝えておくよ。……幸せになりなよ」彼女は眼を伏せた。

 踵を返したイポリトは片手を挙げて返事をした。それを横目で見遣った売春婦は路地から覗く狭い空を仰ぐと煙を吐き微笑んだ。

 イポリトが路地から出るとアメリアが背を向けて佇んでいた。彼女は携帯電話のゲームアプリに夢中だ。ガムを噛んでいるようで口をもぞもぞ動かしている。

「待たせたな」イポリトは彼女の肩を叩いた。

 アメリアは携帯電話を尻ポケットにねじ込む。

「随分早いね。早漏?」

「小憎たらしい事言える程に元気じゃねぇか」

「うん。痛くなくなったから大分落ち着いた。ガムも噛めるよ。付き添ってくれてありがとう、イポリト」アメリアは微笑んだ。

 鼻を鳴らしたイポリトはアメリアに手を差し出す。しかし彼女はそれに気付かずに歩き出した。イポリトは肩をすくめる。そしてジーンズのポケットにやり場の無くなった手を突っ込むと後を追った。



 その夜は暑かった。

 仕事に復帰する為に生活のリズムを整えようと日付変更前にはイポリトはベッドに就いた。しかしあまりの暑さに眠れない。彼はベッドサイドのランプを点けて本を読む。十年程前にローレンスがユウとリュウの為に買った童話だ。興味が湧かない物を読むなら手っ取り早く眠くなるだろう。

 しかしこれがなかなかどうして面白い。小鳥の心臓を食べて特異能力を得る話や石灰で作られた娘の話などアクの強い話だ。子供が聞いても面白いだろうがこれは文学者が額を寄せて討議するだろう。

 ノックの音が聞こえた。

 んだよ、こんな夜中によ。

「入れ」イポリトは入室を促した。

 枕を抱いたアメリアが部屋に入る。彼女の眼の隈は昼間よりも濃くなっていた。白地に黒猫柄のキャミソールワンピースを着た彼女は無言でイポリトを見据えた。

 イポリトは視線を手許の本からアメリアに移す。

「……また悪夢を見るのか?」

 眉をしかめ瞳を潤ませたアメリアは頷いた。

「もう面倒見ねぇぞ。金玉蹴られたくねぇしな」鼻を鳴らしたイポリトは視線を本へ戻す。抱きもしないのに愛する女を自分のベッドに上げるのは主義に反している。嫌だ。

 アメリアは洟をすすった。

「ダメだ。帰ぇれ」

 アメリアは洟をすすった。

「俺はお前の母ちゃんじゃねぇんだよ」

 ポタポタと涙が床に落ちる。アメリアは踵を返した。

「おい、待て」

 溜め息を吐いたイポリトがベッドから起き上がる。彼はアメリアが眠れるようにベッドを整えてやった。

 あーあ。ベッドに上げないって決めてたのによ……主義一つ曲げちまったな。

「おら。とっとと寝ろ」

 抱いていた枕をベッドに乗せるとアメリアも横たわった。鼻を鳴らしたイポリトは腕を枕にして床に寝そべった。

「……イポリトは寝ないの?」アメリアは擦れた声で問いかけた。

「あ?」イポリトは本から視線を外し、アメリアを見上げた。

「寝ないの? ……ベッドで」

 イポリトは鼻を鳴らす。

「何? お前はまた俺とベッドで寝たいの?」

「ううん」アメリアは首を横に振った。

 ……即答されると傷つくな。イポリトは鼻を鳴らした。

「イポリトって優しいよね」微笑んだアメリアはタオルケットを掛ける。

「……俺は主義を曲げたくないだけだ」

「また主義だ」アメリアはくすりと笑った。

「んだよ。悪ぃかよ」イポリトは鼻を鳴らした。

「あたし、そんなイポリト大好きだよ。家族だもん」

 ……そりゃどーも。

「……主義、一つ曲げさせてごめんね。イポリトと一緒に居ると悪夢見ないから安心して眠れるの。家族だから安心するんだと想う」アメリアはちょろっと舌を出して笑う。

「ああ。……家族だな」

「アレイオーンも家族。イポリトも家族。あたしって馬と相性がいいのかも」

「あんだよ、馬って?」

「昼は馬車馬、夜は種馬、これだーれだ?」

「あ?」

「答えはイポリトだよ」

 イポリトが舌打ちするとアメリアは『おやすみっ』とタオルケットを被った。

 明け方、イポリトは喉の乾きを覚えて目を醒ました。遮光カーテンの隙間から光が射し、瞼を突き刺す。瞼を開こうとするとこびり付いた目ヤニが邪魔をする。それでも懸命に瞼をこじ開ける。すると腕の中にアメリアがいるのが見えた。

 彼は瞬時に鼓動を跳ね上げた。しかし冷静になる。アメリアは純粋に自分と共に眠りたかっただけだろう。
 ……なんだよ。気ぃ使って床で寝たのによ。

 アメリアの顔を覗く。頬に涙の跡が幾筋もついていた。あれから悪夢を見たのだろう。床に降りて側で体を横たえたようだ。今は安らかに眠っていた。

 イポリトは溜め息を吐いた。

 ……人の気も知らねぇでいい気なモンだぜ。俺は親友の馬じゃねぇっての。

 規則正しく呼吸しているアメリアを眺めると、瞳を伏せて彼女の頬にキスを落とした。そして黒髪を撫でた。

 窓の外でスズメが鳴いている。

 車のエンジンの始動音が響く。

 しかし二柱の夜はまだ明けない。
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