ランゲルハンス島奇譚(2)「シラノ・ド・ベルジュラックは眠らない(上)」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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三章

一節

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 イポリトは苛立っていた。

 コンラッドの一件以来、寝付けないアメリアが枕を抱いて毎晩部屋を訪れる。何回窘めても彼女は聞かない。仕方が無いのでベッドを空けてやる。彼女がベッドで寝息を立てるのを聞いてからイポリトは床で眠った。大戦中に固い地面で眠っていたので慣れっこだった。

 しかし折角ベッドを譲ってもアメリアは裏切る。イポリトが寝付くと、人恋しさに彼女は起きて彼の腕の中に潜り込む。明け方には床に寝そべるイポリトの腕の中でアメリアは安らかに眠っている。それが毎晩の儀礼だった。

 イポリトの我慢はそろそろ限界だった。

 明け方には愛しい女が腕の中に居るのだ。彼女から漂う芳香や柔らかい感触に悩まされ彼は目覚める。一度目覚めると胸の奥が熱っぽくなりぐんにゃりと溶け出したようで寝付けない。意識と血流が下腹部に集中し、彼は腰を引いた。自室に籠って自らを慰めようにも、独りぽっちを怖がるアメリアに付きまとわられて精を吐き出せない。

 彼女の唇を無理矢理塞ぎ、精を吐き出し、欲を満たすのは簡単だろう。しかし理性を捨て獣と化す事だけはプライドが許さなかった。無理矢理犯せば今度こそ彼女は壊れる。イポリトは誠実にアメリアに向き合いたかった。彼は同じ志を抱く彼女の心が一番好きだった。神々や人々が互いを理解出来なくとも互いの存在を認める世界を望むアメリアを、同じ風景を見つめるアメリアを愛していた。

 しかし彼女はイポリトの胸中なぞ知る由もない。

 アメリアは手先が器用なイポリトに人形の服の制作を頼み、休日が重なると彼を捕まえて二柱でツーリングを楽しんだ。彼に料理を教えて貰い、バスルームで髪を切って貰い、ソファで寄り添ってDVDを鑑賞し、共に『シラノ・ド・ベルジュラック』を読んで様々な役を演じた。アメリアはイポリトを家族だと想った。兄として慕っていた。

 イポリトはそれが苦しかった。自分は兄であって男として見られていない。歯痒かった。しかしその状態が理想的であると自分に嘘を吐いていた。『男』として側に居てはいけない。無二の相棒のローレンスから託された大事な娘なのだ、アメリアは。

 床に横たわりアメリアを抱きしめたイポリトは犬歯で唇を噛み締める。苛立つと噛み締める癖があった。唇は赤黒いかさぶたと血で腫れていた。

 彼女の柔肌がイポリトに纏わりつく。彼は唇を更に噛み締めた。腕に力が入る。強く抱きしめられたアメリアが寝惚けて鼻に掛かった声を出す。

 鼓動を速めたイポリトは深い溜め息を吐いた。

 彼の我慢はそろそろ限界だった。



 ネイサンの容疑が晴れた。

 深夜のニュースを見ていたアメリアは拍手をした。

 釈放され、報道陣に囲まれたネイサンがテレビに映る。少し痩せたようだが微笑んでいた。逮捕拘留された彼はTシャツを着ていた。今はその上から薄手のトレンチコートを羽織っている。両親の差し入れだろう。季節は夏から秋に変わっていた。

 アメリアはハデスからメールで事情を知らされていた。コンラッドは生前の姿の器に閉じ込められ現世に送られ、人間に裁かれるらしい。死後の魂は彼が信仰していた神族の許へ送られ魂達を閉じ込めた罪を裁かれるそうだ。

 革張りの黒いソファでアメリアは溢れる涙を拭った。隣に座して楽譜に眼を通していたイポリトはそれを横目に見る。

「良かったじゃねぇか」

「うん! これでネイサン、家に帰ってお芝居が出来る!」アメリアは微笑んだ。

「芝居?」

 コーヒーテーブルに置いていたアメリアの携帯電話が振動した。彼女はそれを取ると液晶画面を見る。

「……ネイサンからメールだ」

「噂をすればってやつか」

 微笑みを浮かべたアメリアは返信する。

 五分経ってもアメリアが携帯電話から顔を上げる気配がないのでイポリトはテレビの電源を切った。楽譜に視線を落とすも横目でアメリアを見遣る。彼女は両口角を吊り上げ、幸せの絶頂のような表情でメールを打つ。

 ……隣に居る男としちゃ面白くはねぇが、あいつの場合本当に他意はねぇもんな。感情と表情が直結してるもんな。

 イポリトは小さな溜め息を吐いた。

 三十分経ちアメリアは顔を上げた。満面の笑みだ。

「ネイサンの釈放お祝いの会やるの!」

「いいじゃねぇか」

「ここで」

「え!?」イポリトは楽譜から視線を上げた。

 アメリアとイポリトは互いを見合わせた。

「ダボ! なんで了承したんだよ!? 死神の家に人間を上げちゃいけねぇの!」イポリトは眉をしかめた。

「イポリトが言わないでよ! 娼婦さん連れ込んでファックしてるくせに!」アメリアはイポリトを睨んだ。

「薄っぺらい付き合いだったからいーんだよ! とにかく断れ!」

 アメリアは唇を尖らせる。

「ヤダ! 料理作るって約束したし、ネイサンはイポリトに会うの楽しみにしてるんだもん!」

「あ? 野郎が野郎に会う事の何が楽しいんだよ?」

 アメリアはネイサンが芝居小屋で働いている事やイポリトの映画コレクションを見てみたいと言った事を説明した。

「……だったら外で会えばいいじゃねぇか。俺も何本か円盤持って行くからよ」イポリトは溜め息を吐いた。

「お友達を家に呼んでみたいの! イポリトばっかり狡い!」

「お前は子供か!」

「子供だもん!」

「んじゃ酒飲むな!」

「……ふうん。じゃあいいよ。ハデス様にチクるから。イポリトが家に娼婦さん上げてファック三昧だって」

 イポリトは唇を噛んだ。それをやられたら掟破りで減給どころでは済まなくなる。

「……分かったよ。一度だけだからな?」



 当日、苦労して作ったミートローフを褒められてアメリアの機嫌は良かった。イポリトとネイサンは芝居や映画の話に花を咲かせた。アメリアの膝には普通の人形の振りをしたユーリエが座していた。

 芝居の引き出しが多い友を得たネイサンは水を得た魚のように嬉々とし話をする。釈放後、芝居小屋に戻ると次の公演でいい役に抜擢されたらしい。逮捕と釈放の際、芝居小屋に多くの報道陣が詰め寄った。座長はネイサンを客寄せに使えると判断し、役を与えたらしい。才能を認められた訳では無い、と複雑そうにネイサンは微笑んだ。

「演目は?」イポリトは問うた。

「『シラノ・ド・ベルジュラック』です。クリスチャンに抜擢されました。……でも正直悔しいです。僕はクリスチャン同様、ただのお飾りだ」

 イポリトは唇の片端を吊り上げて笑う。

「『ただのお飾り』ね。一度の舞台で散るか、座長や観客をギャフンと言わせるかはお前次第だぜ?」

「そうです。痛い程分かってます。でも悪役の真似は出来てもクリスチャンのような当て馬であり二枚目である役なんて難しくて荷が重過ぎます」

「役者不足ってか?」

「……はい」

 二人を眺めていたアメリアは会話に加わる。

「ねぇ、ネイサン。イポリトに稽古つけて貰いなよ? 三幕のロクサーヌ接吻の場じゃ、シラノとクリスチャン、ロクサーヌを一人で演じ分けて驚いたもの。きっと座長や観客をギャフンと言わせられるよ」

「おい。勝手に話進めんなよ」イポリトは鼻を鳴らした。

「いいじゃない! イポリト名優だもん! ネイサンの才能もイポリトの才能もここで燻るのは勿体ないよ!」アメリアは唇を尖らせた。

 二柱のやり取りを眺めていたネイサンは席を立つと頭を下げた。

「どうかお願いします! 一世一代のクリスチャンを演じたいんです!」

 アメリアもネイサンの隣に立つと頭を下げた。

 深い溜め息を吐いたイポリトは髪を掻き回す。

「……んじゃ台本読みからすっか。今度台本持って来い。」

 食事が終わるとネイサンはイポリトの部屋を見たがった。既に廃盤になった映画のDVDや大物俳優が使った小道具があるらしい。非常に興味を引かれたようだ。

 男達がリビングを離れると唇を尖らせたアメリアはユーリエとコルクを転がして遊んだ。

 イポリトってば狡い! ネイサンはあたしの親友なのに独り占めしちゃって。……でもネイサンが楽しそうで良かった。釈放されたのに浮かない顔してたから心配しちゃった。大役任されて不安だったなんて。イポリトがちょくちょく稽古に付き合えば大丈夫だよね。イポリトってシラノみたいに多才だもん。

 アメリアはユーリエに手の甲を突つかれた。どうやらコルクを握ってぼぉっとしていたらしい。

「ごめんごめん。転がすね」

 微笑んだアメリアはコルクを弾いた。
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