5 / 46
一章
五節
しおりを挟む
クチバシ医者は瞳を閉じた。
ここは夢の島、と聞いたけど夢なんて見るのだろうか。胡散臭い程に大きな悪魔に、元気なパーン、無邪気なドラゴネットの双子、心優しい眼無しのニエ……全てが懐疑的だが居心地の悪い世界ではない。しかし気疲れの所為かベッドに横たわると睡魔に襲われる。
悪魔から借りた家には予め家具が設えてあった。ベッドをはじめテーブル、椅子、ピューロ、食器棚、小さな本棚等生活必需品や文化的な物は揃っていた。酔狂な者以外誰も住まない荒れ地にこれだけの家具が揃う空き家があるなんて変な話だ。
しかしこれ以上考えまい。どうせあの悪魔が設えたんだ。深く考えると気持ち悪いだけだ。愛らしいニエや無邪気なユウを想っているとクチバシ医者は夢へと誘われた。
沢山の花に囲まれた空間にクチバシ医者は居た。ユリやバラ、ガーベラを始めスイートピー、アネモネ、フリージア、ラナンキュラスが一面を彩る。花々の茎は冷たく光るステンレス缶に身を埋め、冷えた空間で互いの美しさを競うように咲く。
鼻先が冷たい。どうやらマスクをつけていないようだ。クチバシ医者は自身を見下ろした。黒いエプロンを着ている。胸許には『ギルロイ』と白い字が記されていた。
周囲を見渡すと花々の他には作業台やレジカウンター、水場がある。花屋のようだ。そしてレジ側にはクリーム色のインコが居た。頬をオレンジ色に染めた長い鶏冠のインコだ。スタンドから吊るされた黒い鳥かごにインコは居た。スタンドの足許ではヒーターが温風を吐く。冷えた店内でインコが寒がらないようにと店主が気遣ったようだ。
クチバシ医者がインコを眺めるとインコは鶏冠を立て紅い瞳で見つめ返す。瞳の奥に人が映る。自分では無い。……しかし誰なのか想い出せない。
背後で鼻歌が聴こえた。いつもなら咄嗟に顔を伏せようと思うが不思議とそんな気持ちにならない。振り返ると女が居た。女は小さな鉢植えに霧吹きを掛けていた。燃えるような茜色の髪を一つに纏め、エメラルド色の瞳が美しい女だ。彼女もクチバシ医者と同じエプロンをしている。店内には女しか居ない。
するとこの女性は店員なのだろうか。クチバシ医者が赤毛の女を眺めていると視線に気付いた女が顔を上げた。
「疲れた? 休む? お客さん居ないし紅茶淹れようか?」女は霧吹きを作業台に置く。
「……え、あ、うん」
間の抜けた答えに女はクスクスと笑うとエプロンを外す。それを丸めて作業台に置きバックヤードへ向かった。
「え、あ……僕が淹れるよ!」クチバシ医者は慌てて女の後に従った。
振り返った女は肩をすくめ悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあお願いしようかしら? 私が淹れるよりもあなたが淹れた方が美味しいから」
「う、うん」クチバシ医者は頬に熱を帯びるのを感じるとバックヤードへ姿を消した。
紅茶を淹れたクチバシ医者がマグを二つ持って店内に戻ると女は木の椅子に座し鼻歌を歌っていた。彼女の肩にはインコが乗っている。
「あれ? 出したの?」クチバシ医者は彼女にマグを渡す。
「うん。昨夜遊んであげなかったから少し寂しそうだったもの、この子」
「毎晩遊んでるの?」
「ええ。籠から出すとご機嫌なの。よく歌っているわ」女はマグに口をつける。
するとインコは歌を口ずさむ。優しい透明感のある歌だった。
クチバシ医者は耳を澄ました。聴いた事がある曲だ。
「……これ確か『精霊の踊り』じゃない? 歌劇オルフェウスで演奏される」
「歌劇なんて知ってるの? 博識ね!」
「え……いや、まあ」クチバシ医者は居心地のいい、居心地の悪さを感じた。
「歌劇は見た事ないけれども粗筋は知ってるわ。オルフェウスって確か竪琴の演奏者よね? 死に別れた奥さんを求めて地下の死者の国へ下っていくって話だっけ?」
「うん。彼はとても可哀想なんだ」
「え? 最後は愛の女神の力によって奥さんと幸せになるんじゃなかったの?」
「歌劇ではハッピーエンドだけど実際は悲劇だよ。オルフェウスは冥府の神に許しを得て背後を従う無言の奥さんを連れ帰るんだ。でも神との約束を破ってしまう。『地上に戻るまで決して振り向いてはならない』って。奥さんが付いて来ているのかって、大好きな奥さんの顔を早く見たいからって振り向いてしまった。その瞬間に奥さんは消えた」
「……悲しい話ね」女は瞳を伏せた。
「うん。とても悲しい話だ」
二人は黙り込んだ。
歌が二人の間に流れていた。しかし飽きたインコは歌を止めて女の服を齧る。
「ご、ごめん……。暗い話をして」クチバシ医者は頭を下げた。
「え? なんで謝るの? 素敵な歌だったじゃない」女は笑みを向けると服を齧るインコを引き離して籠へ戻した。
「ねぇ。あなたは神様との約束を反故にする程に人を愛した事はある?」
クチバシ医者は暫く足許を凝視していたが唇を割った。
「……あるよ」
「素敵ね。どんな人?」
クチバシ医者は甘く疼く胸に包帯を巻いた右手を添える。
「……小さな愛の塊のような人だった。こんな僕にただひたすら愛を与えてくれるんだ。あったかくていい香りでふにゃふにゃと柔らかくて……子猫のようだったよ」
「素敵な人だったのね」
「うん。とても愛していた。……今でも愛してる」
「……そう」
クチバシ医者の唇や左手が小刻みに震える。小さな溜め息を吐くと木の椅子に座して湯気が立ち昇るマグに口をつけた。悲しみに冷えた胸を紅茶が温める。落ち着きを取り戻したクチバシ医者はただひたすら愛を与えてくれた彼女に想いを馳せて瞳を閉じた。
ここは夢の島、と聞いたけど夢なんて見るのだろうか。胡散臭い程に大きな悪魔に、元気なパーン、無邪気なドラゴネットの双子、心優しい眼無しのニエ……全てが懐疑的だが居心地の悪い世界ではない。しかし気疲れの所為かベッドに横たわると睡魔に襲われる。
悪魔から借りた家には予め家具が設えてあった。ベッドをはじめテーブル、椅子、ピューロ、食器棚、小さな本棚等生活必需品や文化的な物は揃っていた。酔狂な者以外誰も住まない荒れ地にこれだけの家具が揃う空き家があるなんて変な話だ。
しかしこれ以上考えまい。どうせあの悪魔が設えたんだ。深く考えると気持ち悪いだけだ。愛らしいニエや無邪気なユウを想っているとクチバシ医者は夢へと誘われた。
沢山の花に囲まれた空間にクチバシ医者は居た。ユリやバラ、ガーベラを始めスイートピー、アネモネ、フリージア、ラナンキュラスが一面を彩る。花々の茎は冷たく光るステンレス缶に身を埋め、冷えた空間で互いの美しさを競うように咲く。
鼻先が冷たい。どうやらマスクをつけていないようだ。クチバシ医者は自身を見下ろした。黒いエプロンを着ている。胸許には『ギルロイ』と白い字が記されていた。
周囲を見渡すと花々の他には作業台やレジカウンター、水場がある。花屋のようだ。そしてレジ側にはクリーム色のインコが居た。頬をオレンジ色に染めた長い鶏冠のインコだ。スタンドから吊るされた黒い鳥かごにインコは居た。スタンドの足許ではヒーターが温風を吐く。冷えた店内でインコが寒がらないようにと店主が気遣ったようだ。
クチバシ医者がインコを眺めるとインコは鶏冠を立て紅い瞳で見つめ返す。瞳の奥に人が映る。自分では無い。……しかし誰なのか想い出せない。
背後で鼻歌が聴こえた。いつもなら咄嗟に顔を伏せようと思うが不思議とそんな気持ちにならない。振り返ると女が居た。女は小さな鉢植えに霧吹きを掛けていた。燃えるような茜色の髪を一つに纏め、エメラルド色の瞳が美しい女だ。彼女もクチバシ医者と同じエプロンをしている。店内には女しか居ない。
するとこの女性は店員なのだろうか。クチバシ医者が赤毛の女を眺めていると視線に気付いた女が顔を上げた。
「疲れた? 休む? お客さん居ないし紅茶淹れようか?」女は霧吹きを作業台に置く。
「……え、あ、うん」
間の抜けた答えに女はクスクスと笑うとエプロンを外す。それを丸めて作業台に置きバックヤードへ向かった。
「え、あ……僕が淹れるよ!」クチバシ医者は慌てて女の後に従った。
振り返った女は肩をすくめ悪戯っぽく微笑んだ。
「じゃあお願いしようかしら? 私が淹れるよりもあなたが淹れた方が美味しいから」
「う、うん」クチバシ医者は頬に熱を帯びるのを感じるとバックヤードへ姿を消した。
紅茶を淹れたクチバシ医者がマグを二つ持って店内に戻ると女は木の椅子に座し鼻歌を歌っていた。彼女の肩にはインコが乗っている。
「あれ? 出したの?」クチバシ医者は彼女にマグを渡す。
「うん。昨夜遊んであげなかったから少し寂しそうだったもの、この子」
「毎晩遊んでるの?」
「ええ。籠から出すとご機嫌なの。よく歌っているわ」女はマグに口をつける。
するとインコは歌を口ずさむ。優しい透明感のある歌だった。
クチバシ医者は耳を澄ました。聴いた事がある曲だ。
「……これ確か『精霊の踊り』じゃない? 歌劇オルフェウスで演奏される」
「歌劇なんて知ってるの? 博識ね!」
「え……いや、まあ」クチバシ医者は居心地のいい、居心地の悪さを感じた。
「歌劇は見た事ないけれども粗筋は知ってるわ。オルフェウスって確か竪琴の演奏者よね? 死に別れた奥さんを求めて地下の死者の国へ下っていくって話だっけ?」
「うん。彼はとても可哀想なんだ」
「え? 最後は愛の女神の力によって奥さんと幸せになるんじゃなかったの?」
「歌劇ではハッピーエンドだけど実際は悲劇だよ。オルフェウスは冥府の神に許しを得て背後を従う無言の奥さんを連れ帰るんだ。でも神との約束を破ってしまう。『地上に戻るまで決して振り向いてはならない』って。奥さんが付いて来ているのかって、大好きな奥さんの顔を早く見たいからって振り向いてしまった。その瞬間に奥さんは消えた」
「……悲しい話ね」女は瞳を伏せた。
「うん。とても悲しい話だ」
二人は黙り込んだ。
歌が二人の間に流れていた。しかし飽きたインコは歌を止めて女の服を齧る。
「ご、ごめん……。暗い話をして」クチバシ医者は頭を下げた。
「え? なんで謝るの? 素敵な歌だったじゃない」女は笑みを向けると服を齧るインコを引き離して籠へ戻した。
「ねぇ。あなたは神様との約束を反故にする程に人を愛した事はある?」
クチバシ医者は暫く足許を凝視していたが唇を割った。
「……あるよ」
「素敵ね。どんな人?」
クチバシ医者は甘く疼く胸に包帯を巻いた右手を添える。
「……小さな愛の塊のような人だった。こんな僕にただひたすら愛を与えてくれるんだ。あったかくていい香りでふにゃふにゃと柔らかくて……子猫のようだったよ」
「素敵な人だったのね」
「うん。とても愛していた。……今でも愛してる」
「……そう」
クチバシ医者の唇や左手が小刻みに震える。小さな溜め息を吐くと木の椅子に座して湯気が立ち昇るマグに口をつけた。悲しみに冷えた胸を紅茶が温める。落ち着きを取り戻したクチバシ医者はただひたすら愛を与えてくれた彼女に想いを馳せて瞳を閉じた。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
主人公の恋敵として夫に処刑される王妃として転生した私は夫になる男との結婚を阻止します
白雪の雫
ファンタジー
突然ですが質問です。
あなたは【真実の愛】を信じますか?
そう聞かれたら私は『いいえ!』『No!』と答える。
だって・・・そうでしょ?
ジュリアーノ王太子の(名目上の)父親である若かりし頃の陛下曰く「私と彼女は真実の愛で結ばれている」という何が何だか訳の分からない理屈で、婚約者だった大臣の姫ではなく平民の女を妃にしたのよ!?
それだけではない。
何と平民から王妃になった女は庭師と不倫して不義の子を儲け、その不義の子ことジュリアーノは陛下が側室にも成れない身分の低い女が産んだ息子のユーリアを後宮に入れて妃のように扱っているのよーーーっ!!!
私とジュリアーノの結婚は王太子の後見になって欲しいと陛下から土下座をされてまで請われたもの。
それなのに・・・ジュリアーノは私を後宮の片隅に追いやりユーリアと毎晩「アッー!」をしている。
しかも!
ジュリアーノはユーリアと「アッー!」をするにしてもベルフィーネという存在が邪魔という理由だけで、正式な王太子妃である私を車裂きの刑にしやがるのよ!!!
マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
神は激怒した
まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。
めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。
ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m
世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。
婚約破棄された翌日、兄が王太子を廃嫡させました
由香
ファンタジー
婚約破棄の場で「悪役令嬢」と断罪された伯爵令嬢エミリア。
彼女は何も言わずにその場を去った。
――それが、王太子の終わりだった。
翌日、王国を揺るがす不正が次々と暴かれる。
裏で糸を引いていたのは、エミリアの兄。
王国最強の権力者であり、妹至上主義の男だった。
「妹を泣かせた代償は、すべて払ってもらう」
ざまぁは、静かに、そして確実に進んでいく。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる