ランゲルハンス島奇譚(1)「天使は瞳を閉じて」

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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三章

五節

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 自宅へ戻ったランゲルハンスは調剤を終えて夕食の支度をした。ニエは散らかった仕事道具や書籍を片付ける。

 キルケーが倒れて以来、心の中の会話は無くなった。製剤や事務的な会話はするが心を通わせたものは無かった。ニエがランゲルハンスに対して怒りを覚えたからだ。ランゲルハンスは彼女が何故怒りを覚えているのか察しはついた。しかし放置した。仮に彼女が意見したとて妥協したくなかった。時が経てば理解を示すだろうと甘んじていた。

 テーブルを拭いたニエは陶器のレストにナイフとフォークを並べる。島に来て以来、毎日の仕事だったがカトラリーを並べる手は少し乱暴だった。

「大皿を二枚取り給え。キルケーから祝いで貰った白地にミル打ちの皿だ」

 背を向けたランゲルハンスはジャガイモの皮むきをする。

 ニエは棚から皿を二枚取り出すと運ぶ。しかし手を滑らせ落とした。皿が割れ、陶器が形を失った音がリビングに響く。ランゲルハンスは作業を続ける。

 ニエの胸中で何かが割れる音がした。

 ──何も……何も話してくれないんですね。

 ランゲルハンスの心の中で久し振りにニエの声が聞こえた。

「だから何だと言うのかね?」ランゲルハンスは振り向きもせず問う。

 胸許で両手を握り締めたニエは唇を噛む。

 ──アロイスが話すと信じて今日まで待ちました。キルケーと二人で大切な事を隠してますよね? あの日倒れたキルケーがアロイスと視線で会話をするのが分かりました。本当に過労ですか? もっと重篤な病気ではないのですか?

「それを知った所で何が出来ると? 余計な心配は掛けたくない」

 ──心配するのが家族です。キルケーはクチバシ医者に言いました。アロイス、私はあなたとキルケーの家族ではないのですか? あなたの妻ではないのですか?

 歩み寄ったニエはランゲルハンスの黒いルパシカの裾を握った。しかし作業を続ける夫は黙する。ニエは手を離し床に血の涙を滴らせた。

 ジャガイモの皮を剥く音だけが絶え間なく響く。

 玄関に掛けていたモスグリーンのコートを乱暴に取り上げるとニエは家を飛び出た。

 ランゲルハンスは作業を続ける。背後ではキルケーから貰った二枚の皿が割れていた。

 コートを抱えたニエは荒れ地をひた走った。白い息が視界を阻む。既に日が沈み毎夜星が出ていた空は、今日は暗い。走り疲れて立ち止まると涙を拭う。

 魔力が底を付き、術を使って移動出来ず、ニエは荒れ地の道を歩いて街へ向かう。ワンピースのポケットをまさぐると銀貨が触れる。今日はアロイスに会いたくない。街の宿泊施設に泊まろう。コートを羽織るとひたすら歩んだ。

 華やかな街に着いたニエはベンチに座す。そしてショップのウィンドウや道行く人々を眺めた。街はクリスマスの化粧を施す。ウィンドウはプレゼントのディスプレイや白いトナカイの置物が飾られ暖かい光に包まれる。人々は微笑を浮かべ、夫婦に手を繋がれた子供ははしゃぎ、仕事帰りに逢瀬をする恋人達はショッピングを楽しむ。その光景は今のニエに眩し過ぎた。拭った筈の頬に涙が伝い視界が潤み、店の灯火がやけに輝く。

 白い息を吐いて鼻を赤らめ、洟をすすっていると背後から誰かに声を掛けられた。

「また困っているの?」優しい女性の声だった。

 涙を拭ったニエは振り返る。プワソンとケイプがいた。ニエはプワソンに抱きついた。プワソンは少し驚いたがニエを抱きしめ頭を優しく撫でた。

「街角で会うとかならず泣いているわね」

 プワソンはニエが落ち着くまで思う存分泣かせてやった。

 ニエはプワソンとケイプの家に招かれた。仕事を終えたプワソン達は着飾って外食するつもりだった。華やかな街を歩き、リストランテの目星をつけた所に泣きながら街を眺めるニエに出くわしたのだ。不憫に思った彼らは外食を延期した。惣菜やつまみを買い込み、ニエを夕食に招いた。

 黄色や黄緑色の魚が描かれた壁紙に囲まれ夕食が始まる。夫婦の小さな肖像画や成長して家を出た子供達や子孫の写真が壁に飾られていた。

 プワソンは花冷えブドウのワインをニエのグラスに傾ける。食いしん坊のケイプは総菜に手を付けずに、ニエを元気づけようと冗談を飛ばす。二人の気遣いにニエは微笑で応えようとした。しかし頬に力が入らない。プワソンは視線でケイプにリビングを出るよう促した。夕刊を取りに行く振りをしたケイプは白いコートを片手に家を出る。

 ドアが閉まる音と共にニエの涙が食卓にこぼれ落ちた。

 プワソンはニエの背を撫でる。ニエは彼女の手を取ると掌に字を綴って経緯を伝えた。キルケーの件は伏せた。

「うーん……それは初めての夫婦喧嘩ねぇ」

『喧嘩? 私、アロイスと喧嘩したの?』ニエは字を綴る。

「喧嘩よ喧嘩。先生と弟子から夫婦って対等な関係になったから喧嘩になったのよ。弟子なら先生の意向に沿わなければならないでしょ?」

『先生と弟子の方が平和だったかも。喧嘩したくない』

「馬鹿ね。今回はハンスが悪いの。ハンスの『食べちゃいたいくらい可愛い妻には余計な心配掛けたくない』って気持ちは分かるけどね。何でも一人で抱え込むなって思うわよね」

 ニエは頷いた。

「旦那が悩んでるのに自分は何も知らず過ごしてるなんて分かったら怒るわよ。話を聞いても力になれないかもしれない。悲しみや苦しみを全て理解出来る訳じゃない。でも苦楽を共に感じるからこそ家族な訳でしょ。互いを信じ結ばれた夫婦なら尚更よ」

『私もそう思う。でも喧嘩は辛いの』

「喧嘩ねぇ。……出来る内はしておきなさいな。どんなに愛したって他人だもの。人を知るには時間が必要よ。何百年も夫婦をやると喧嘩の種も元気も無くなるわよ。喧嘩してお互いが歩み寄れた分、思いやりと愛情に変わるわ」プワソンは微笑んだ。

『ありがとう。……でもどんな顔して帰ればいいのか分からないの』

「何事も無かったような顔すればいいのよ。気不味いなら一緒に楽しめる物を買って帰れば? お酒とかお菓子とか。でも今日は泊まりなさいな。のろけ話をゆっくり聞きたいし」

 心が軽くなったニエはプワソンの手を握り微笑んだ。

『ありがとう。……そう言えばケイプは何処に?』

 プワソンは微笑んだ。

「多分、家に向かったわ。ハンスに会いに」



 家を出たケイプは小雪と共に空を舞う。荒れ地の道をなぞるように飛ぶ。そしてランゲルハンスの家に着くとドアをノックした。少し間を置いてから重厚な木のドアは勝手に開く。気兼ねせずにケイプは入る。沢山のまじない道具を避けつつ大きなカウチへ近寄った。

「邪魔するぜ」

 カウチでは目許に包帯を巻いたランゲルハンスが本を読んでいた。いつもよりも小柄で本を持つ手が華奢だ。大きなルパシカの中で豊かな胸が美しいラインを描く。

「なんでぇ。サキュバスに戻れるようになったんかい」

「感情が高ぶった時だけだ。心臓に貴奴はいる。内密にし給え」

 口笛を吹いたケイプは丸椅子に座す。

「おぅ。泣いてやがったな。だから包帯なんざ巻いて赤い眼を誤摩化してんだろ?」

 ランゲルハンスは返事の代わりに鼻を鳴らした。

「可愛いかみさん泣かして冬の街角にほっぽり出して、家でぶすっと膨れてる野郎は気に喰わねー。しっかし人目忍んで泣くたぁ、可愛げあるじゃねぇか!」

「わざわざ笑いに来たのかね?」本を閉じたランゲルハンスは眉根を寄せる。

 ケイプは肩をすくめる。

「いんや。経緯を聞きに来たのさ。夫婦喧嘩するなんざ、ちっとはニエちゃんをかみさんとして認めてるんだろ?」

「君の家でニエを預かっているのだろう。夕食くらい食べて行け」

 髪を二、三度掻き回すとランゲルハンスは立ち上がる。キッチンへ向かい背を向けて経緯を話す。ケイプは勝手にワインを開けて脚を組む。

「ふーん。そりゃお前さんが悪い」ケイプは空になったグラスに赤ワインを注ぎ足した。

 英字の縁装飾の皿にローストビーフを盛り付けたランゲルハンスはカウチに座す。感情が落ち着いたのか男の姿に戻っていた。

 ケイプはグラスを回す。

「問題抱えたニエちゃんがお通夜みてぇな顔してたらどうするって話だよ。心配すんだろ? 問題を取っ払いてぇだろ? 可愛い笑顔を見てぇだろ?」

「問題解決能力はニエよりも私の方が高いがね。悪魔の私に解決出来ない事はニエも出来ない」頬杖を突いたランゲルハンスは長い脚を組む。

「そーゆー問題じゃねぇ。『心配するのが家族だ』って言われてんだろ? かみさんは心配したがんの! ニエちゃんはお前さんが好きで好きでしょーがねぇから心配したいの! 阿呆か!」白熱したケイプはテーブルを叩く。

「悲しい想いをさせるだけでも?」

「それでも分かち合いたいってのが夫婦ってもんだろ。沢山心配させてやれ、そして沢山心配しろ、このド阿呆!」

「……そうか。甘やかすだけではダメなのだな」

 鼻を鳴らしたケイプはワインを呷るとナイフとフォークを持つ。すると外から蹄の音が聞こえた。家に近付いているようだ。

 ランゲルハンスはドアを開けた。ポーチにはケンタウロスから下馬したニエが佇んでいた。ラッピングされたボトルを赤子のように抱えている。

 ニエは夫を仰ぐと心の中で語りかけた。

 ──家出してすみません。スパークリングワインを買いました。二人で飲もうと思って。

 ランゲルハンスはニエを引き寄せると耳許で囁いた。

「……悪かった」

 ニエは夫の顔に触れた。頬に触れ目許に触れると湿った包帯が巻かれていたので笑った。

 ──心配して泣いてくれたんですね。嬉しいです。

「夫婦だからな」ランゲルハンスは妻の背に手を添えた。そして二人で家へ入った。

 外壁ではいつの間にか外に出たケイプが身を隠していた。ドアが閉まるのを見届けた彼は表へ出て通りを歩いて独りごちた。

「さぁーてと、あっしも帰って可愛いかみさんの顔でも拝むかな」

 地を蹴り空に舞ったケイプはある事に気が付く。

「そーいや総菜もローストビーフも喰い逃した! クソッなんて日だ!」

 小雪が舞う夜空からケイプの叫びが荒れ地に響き渡った。
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