(短編)夢魔

乙訓書蔵 Otokuni Kakuzoh

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夢魔

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 腹に大男が乗っていた。

 寝苦しさに瞼を持ち上げた男の腹に筋肉質な大男が乗っていた。

 しかし瞼が開いても男の頭は覚醒しない。

 何だ。近くの幹線道路をどっかんどっかん走るトラックの地響きかと想った。アレは腰にクる。筋肉の塊が乗っていれば道理で重い訳だ。致し方ない。どうせ浅い夢を見ているのだろう。悪夢より今は深い眠りに寄り添いたい。寝惚けた頭でぼんやり想いつつ、闇に響く秒針を子守唄に男は再び瞼を閉じる。

 こちこちこちこち。

 すると喉を小さく鳴らすような忍び笑いが響いた。

 低い忍び笑いに男は起こされた。

 手を突き、すわ上半身を起こした男は腹を見遣る。下腹部で大男が忍び笑いしているではないか。灰色の球体一つ、棗球だけが点いた橙の薄闇で瞬きする。男は瞬時に解した。随分と高い位置に眼玉があるので大男なのだろう。

「お目醒めかね」大男の声が築十五年のアパートに響いた。

 男はひぃ、と短い悲鳴を上げる。

 また物盗りか。しかし半年前に就寝中に入った輩とは違うらしい。奴らは仕事をするのにわざわざ起こす危険は犯さない。残業続きで泥のように眠っていた所為で金品は奪われたが命を取り留めた。……じゃあ何だ? 起こして刺すつもりなのか?

 掌で口を抑え、瞳をぐるり動かし無い頭で考える男に大男は鼻を鳴らす。

「やはり異形が見える性質であったか。……叫ばないとは人間にしては賢明だ。例え起床時の頭の回転は鈍くともな。確かに私は低俗な犯罪者ではない」

 どうやら大男は危害を加える気はない模様。男は安堵の溜め息を漏らす。

「……退いてくれよ。息苦しい」

「それは無理な相談だ」

「……何でだよ」抗おうと男は腹に力を入れる。しかしびくともしない。

「夢魔は腹に乗る」

「夢魔? ……お前は夢魔なのか?」

「如何にも」

「莫迦にデカい男にしか見えないが。……知らない奴が腹に乗っている時点で問題だがな」

 夢魔と名乗った大男は鼻を鳴らす。すると闇に明かりが灯った。大男の指先に……いや爪の先に火が揺らめいていた。

 男は唖然とする。夢魔は唇の片端を吊り上げ笑む。

 小さな光源はぬらり揺らめいた。

「信じて頂けたかな?」

 夢魔の低くも穏やかな声に、鯉のように口を開けて惚けていた男は心を引き戻される。爪に火を灯すなんて尋常ではない。

「……お前が悪魔なのは分かった。だが暗い。電気を点けろ」男は夢魔の灰色の瞳を睨め付けた。

「臆病なのか剛胆なのか判別し難いな。……ああ、莫迦なのか」

 鼻を鳴らした夢魔は火を吹き消した。するとパッと部屋の明かりが点く。同時に男の腹も軽くなった。夢魔が腰をあげた所為だ。

 重圧から解放された男は咳をすると目前を覆う大きな影に気付いた。男は顔を上げる。木目がヤケに不気味な天井から下がる黄ばんだペンダントライトを影は覆っていた。その大きさに男は声を失った。

 いつか上野で見たギリシア彫刻のように莫迦に大きい。

 駅前の量販店で揃えたペンダントライトがきいきい鳴く。ライトに背が当たった大男は身を屈めた。

 大男の屈強な背が光を反射する。後光が射す。しかしそれは神像や仏像の聖なる光ではない。精悍で美男子であるが痩けた頬、静脈が透ける程にきめ細やかで儚い肌、荒れ狂う厳冬の海を偲ばせる大男の瞳が神々しさを打ち消していた。理知的で物鬱げな右眼は幽玄としている。正にこの世の者ならざる悪魔的な美しさだった。

 ぞくり腕に粟が立つのを男は覚えた。

 同性ながらも夢魔の美しさに当てられていると男はある事に気付いた。この大男……左眼がない。

 夢魔の左眼窩を黒い眼帯が覆っていた。

 自らを見詰める男に夢魔は鼻で笑う。男は現実に引き戻される。

「夢魔が……何しに来たんだ? 夢魔ってアレだろ? 寝てる男に跨がってその姿でスケベな夢見させて子種奪うんだろ? 夢魔って女じゃないのか?」

「莫迦の癖に妙に博識だな。それは雌の方……スクブス『下に寝る者』だ。今の私はインクブス、つまり『上に伸し掛かる者』……雄だ」

「今の?」男は眉を顰めた。

「インクブスもスクブスも同一の夢魔だ。夢を見させる人間によって雌雄を変える」

「……俺、ストレートだけど」

「君の精を奪いに来た訳では無い」

「じゃあ何しに来た?」

 夢魔は壁に咲いた大きなシミを横目で見遣る。

「この家はこの地区の通勤路でね。通勤路故に通りすがった次第だ。見給え、あのシミを。アレが魔界と現世を繋ぐ通勤路だ。今しがた仕事を終えたので戻ろうとしていた所だ」

 こっ。

 男は舌打ちする。終電に間に合った俺は一月振りに家で眠れると言うのにこいつはついさっきまでセックスを楽しんでいたと言うのか。忌々しい。

 奥歯を噛み締めこちらを睨め付ける男に夢魔は喉を小さく鳴らし笑う。

「恨むな、恨むな。私とて仕事で致したまでだ」

「道を変えろ」

 夢魔は無視する。

「この地区の当分の担当は私でね。暫く世話になる」

 長い溜め息を吐いた男は頭を掻きむしる。

「……しかしだな。一番の疑問は襲う気もなかったのに何故俺の腹に乗っていたかって事だ!」

 夢魔は喉を小さく鳴らし笑う。

「面白いからに決まっているだろう」

 男は長い溜め息を吐いた。



 壁のシミを利用し、部屋を通りすがる夢魔を男は度々見かけた。

 勤めに向かう夢魔はたわわに実った胸を揺らす官能的な女の姿、魔界へ戻る夢魔はギリシア彫像のように筋骨張った大男の姿だった。女の姿でふらり現れても男が『あの夢魔だ』と気付いたのは隻眼の所為だった。

 仕事も繁忙期を抜け、漸くまともな時間に帰宅出来るようになった頃、男は夢魔について調べた。

 閉店セールの酒屋で安く買えたスコッチウィスキーをちびりちびり嗜む。良い買い物をした。常連と言うだけであんな高価な物を安く買えたのだから。ボトルはなみなみ入っているが大切に飲まなくては……。

 頭の片隅でケチを想いつつパソコンのモニタをとっくり見詰める。

 ショットグラスを舐め、ホイールボタンを回す。こりこりこりこり。静かな部屋に音が響く。画面をスクロールし字面を追う。

「調べるなら私に聞けば良いものを」

 耳朶に吐息を吹き掛けられた。両肩を跳ね上げた男は瞬時に悪魔の仕業と察する。

「な……何だよ! 急に声を掛けるな!」

 男は振り向いた。すると大男姿の夢魔が喉を小さく鳴らして笑っていた。

 耳朶をねぶねぶ弄りつつも男は壁にかけた時計を見上げる。女姿の夢魔を見かけてから一時間も経っていない。

「……仕事が早いな」

 夢魔はペンダントライトに気を遣いつつその場に胡座を掻く。

「退勤が早いと私も助かる。……早漏ってヤツだ」

「お前が?」

「冗談を」

 男は鼻を鳴らす。

「まあ、お疲れさん」

「ほう。労ってくれるとはね」

「働く者に上も下もないからな」

「いい心掛けだ。では一労働者の私もバッカスの恩恵に預かろう」

「小賢しい奴だ」男は悪態を吐いた。しかし人間と同様にあくせく働かなければなければならない悪魔に同情した。人も夢魔も同じならワンショットくらい飲ませてやってもいいじゃあないか。

 鼻を鳴らした男は腰を上げるとミニキッチンまでグラスを取りに行く。

 ショットグラスを摘まんでパソコンデスクへ戻ると夢魔の姿は無かった。余暇を邪魔しては悪いと魔界へ戻ったのだろう。

「帰ったのか。……一口くらい飲めばいいものを」

 独りごちた男はふ、と微笑む。次は気持ちよく飲ませてやろう。

 男はモニタの前に腰を下ろすと空のショットグラスにスコッチを注ぐ。

 しかし幾ら傾けようともボトルから酒が一滴も出ない。

「あの悪魔め!」

 男は舌打ちした。



 数週間が経った。

 仕事は繁忙期に差し掛かり、男は帰宅すら出来ない日々が続いた。

 そんな折り、男の勤務先にアルバイトの大学生が入った。愛らしい女だった。

 男は大学生の教育係として面倒を見てやった。彼女はよく質問し、よく仕事を覚え、よく気が利く。彼女の年に似合わぬ利口さと年相応の無邪気さに男の胸も股間も甘く疼いた。

 常に微笑み愛らしく気だてのいい彼女はモテた。悪魔のように周囲を魅了した。社員や他のアルバイトから恋の標的にされたが身持ちが堅かった。しかし一方で男にはよく懐いた。一人前に業務をこなせるようになっても後輩の教育係になっても、持ち場に現れた男を捕まえては質問したり雑談したり親しんでいた。

 男は得意になった。彼女の自らへの反応と周囲の男への反応の温度差は誰が見ても明らかであった。

 彼女は俺に気がある。俺の何処が良いのか分からないがアレは絶対に気がある。落とせる。あんないい女落とさなければなるまい。

 あれ以上の女は早々現れるまい。

 彼女をどうやって落とすか男は莫迦なりに考える。しかし隻眼の夢魔……胸をたわわに実らせた女姿の夢魔がふと脳裡を過る。

 夢魔を想い出した男は慎重に事を運んだ。

 席を外した間にスコッチのボトルを空けた悪魔だ。寝ている間に『面白いから』と腹に乗った悪魔だ。隻眼を魔術で隠し悪だくみして俺を困らせているのかもしれない。物陰で忍び笑いしているのかもしれない。……いや、可能性があるだけだ。彼女があの夢魔ではなく人間の女だって可能性もある。見極めなければなるまい。

 仕事の切れ間を見つけては、男は積極的に彼女に近付いた。

 ある晩、終電を逃した男は仮眠をとる前に脂の浮いた顔を洗いに行った。

 じいころじいころ。

 巨大なフリーザーが暗闇の中で低く唸る。

 赤いネットにぶら下がった石鹸を泡立てつつも洗い場で溜め息を吐いていると、彼女がふらり現れた。

「あれ? 誰かと想ったら先輩だー」

 深夜だと言うのに彼女の笑顔は燦々と降り注ぐ。眼を細めた男は喰い付きたい所をグッと我慢し賢振り、大人の余裕を演じる。

「よく会うね。タイムカード押した?」

「はい。これから帰ります。今日は原チャリで来たんですよー。やっと憧れのマイカー通勤です」

 彼女は瞳を春の海のように輝かせる。とてつもなく嬉しいようだ。箸が転げても可笑しい年齢だ。そんな少女の殻を破ったばかりの年齢の女がなけなしのアルバイト代で初めて原付を買ったのだ。今日の笑顔は男の疲れを一層癒した。

 無邪気な彼女に男はくすり、と笑む。

「それはおめでとう。夜道は気を付けて帰りなよ」

「はーい。先輩はどうするんですか?」

「今から仮眠」

「わぁ大変。お疲れさまです」眉を下げて微笑した彼女は軽く頭を下げた。

 男は苦笑を浮かべる。

「……給料に反映されてるからその分我慢するさ。繁忙期なら仕方ない。家になかなか帰れないから趣味らしい趣味も無いのがアレだけどさ」

「あー。先輩、お給料いいんだぁ」彼女は携えていた化粧ポーチと細長いケースをカウンターに置くとポーチを開く。

「そりゃ社員だからね」

「じゃあ美味しいものご馳走してもらおうかなー。原チャリ買って素寒貧だもん」

 ポーチから小さなケースを取り出した女は瞼をこじ開け、親指と中指で眼球に触れる。眼球に乗せていたレンズをぺろり摘まんだ。

 男は石鹸を泡立てる手を止め、両眼のコンタクトレンズを取る彼女を見詰めた。

 視線に気付いた彼女は赤いセルフレーム眼鏡を掛けると微笑む。レンズ越しに鳶色の瞳が男を映す。

「……へへへー。本当は眼鏡派なんですよー。原チャリ乗る時は眼にゴミが入りそうだからレンズ外すんです」

 口を開き惚けた男は彼女を見詰める。……左眼も義眼では無さそうだし、コンタクトレンズで虹彩を誤摩化している訳では無い。虹彩が鳶色だ。彼女は悪魔ではない。

「……先輩?」眉を下げた彼女は小首を傾げた。

 男は我に返る。

「あ……ああ。ごめん。眼鏡も似合うなぁって」

「本当? じゃあレンズ辞めて眼鏡にしよっかなー」

「それがいい。着脱するの手間だろうに」

「そうしまーす!」彼女はきゃらきゃら笑んだ。

 化粧ポーチと眼鏡ケースを持った彼女は洗い場を後にする。しかし暗い廊下でひらり振り向くと『食事の約束、忘れないで下さいね!』と満面の笑顔咲かせ、手を振った。



 彼女と休日に食事をする運びとなった。

 繁忙期故に忙殺される日が続いていた。食事の日……いやデート当日に休みを取ったが男は朝まで帰れなかった。始発に乗ると散らかり放題の部屋に帰宅した。

 約束は夜だ。夕方まで眠ってさっと支度すれば良い。

 脱いだ靴下を足の踏み場も無い床に放った男は万年床に就く。しかし疲れていてもなかなか寝付けない。

 ざりざり。

 ざりざりざり。

 安物のそば殻の枕が鳴く。

 眠い筈なのに興奮している。幾度も寝返りを打っては溜め息を吐く。

 瞼をぎゅっと瞑った男は莫迦なりに考える。

 もし事が上手く運び、彼女とセックス出来そうな雰囲気になったらどうしようか。そりゃ据え膳喰わぬは男の恥と言うし、喰えるものなら喰いたい。ラブホテルはダメだ。あそこは行った事が無い。システムが分からないし受付窓口でばばあと顔を合わせるのも嫌だ。『あんたも助平ね』と含み笑いされると勃っていたモンが萎えてしまう。ちっぽけなプライドがガラガラ崩れてしまう。……だったら選択肢は部屋しか無い。しかしこの部屋で抱くのはどうだろう。これでは彼女が余りにも不憫だ。雑誌に載ってる男前部屋は無理でも、整理整頓された部屋でなくてはなるまい。初めてセックスを致すのだ。初めての御馳走だ。いい状態で喰い付きたい……いや、誠実に臨みたい。

 ぎゅっと瞑っていた瞼をカッと仁王のように見開いた男は万年床から出るとシーツを剥ぎ取り、洗濯機を稼動させる。天気が良かったので布団を干し、部屋を片付け、生臭い空気を入れ替え、溜まっていたゴミを捨てた。家事をこなしている内に眠気は飛んだ。軽く肩を回すとママチャリに跨がり駅前の量販店を目指す。コンドームとマムシドリンクを一本買った。



 一人帰宅した男はパソコンデスクに突っ伏し、口を開けて惚ける。頬の唾液腺が圧迫された所為でデスクには涎の水たまりがじわりじわり広がった。

 男が惚けていると男姿の夢魔が現れ、魔界へ繋がる壁のシミへと戻ろうとした。しかし久し振りに男の姿を見たので夢魔はふらりデスクへ寄る。

「随分と久しいな」

 久方ぶりに聞く低い声に男は力なく返事する。

「……あー。その声はお前か」

「どうした? ヤケに威勢がない」

「そんな時もあるさ……」男は長い溜め息を吐いた。

「威勢の良さを莫迦から取り上げたら何が残ると言うのかね」

「莫迦で悪かったな。莫迦だから派手に失敗するんだよ。いっそ莫迦も取り上げろ」

「さすれば君に何が残ると言うのかね? 生ける屍だ。君はまだ生きている。それだけで幸運ではないか」

「……励ましてるのか?」ぎょろり、男は瞳を動かした。白眼が充血している。

「そう捉えても構わん。何、泣く程に辛かったのだろう。悔しかったのだろう。話くらい聞いてやろうではないか」

 思いがけない優しさに男の視界はじくりじくり涙でぼやける。起き上がった男は手鼻をかむとぽつりぽつり話を紡いだ。

「……成る程。雑誌に載っていた人気フレンチとやらで食事し、序でに女にも食らいつこうとした。しかし女に友人を六人も呼ばれ『良い先輩』『良い人』を連呼されタダ飯を奢らされた、と。結局、恋心と下心を利用され手玉に取られていただけではないか」夢魔は喉を小さく鳴らし笑んだ。

「……ああ。莫迦にすれば良いさ。大莫迦なんだからよ」

 夢魔はふ、と笑む。

「遠慮なく莫迦にしてやろう。こんな喜劇、ここ何百年とんと聞いた事が無い」

「喜劇って……そりゃ無いぜ。俺にとっては悲劇だぞ?」男はじろり、夢魔を横目で睨め付ける。

「ちょんの間から伺えば悲劇、人生と言う長い芝居を俯瞰すれば喜劇だ。いつかは糧になる。覚えておき給え」

「ご高説どーも」

「立腹出来るようなら大丈夫だ」

「悲劇でも喜劇でも俺は落ち込んでるんだけどな!」男は鼻を鳴らした。

「機嫌までは治るまい。……どうかね? 気分転換に付き合おうではないか」夢魔は杯を傾ける仕草をする。

「嫌だね。あくせく働いた給料の大半を毟られ、その上お前に酒を空にされるなんて莫迦の極みじゃあないか」

「何も君の酒で杯を満たそうと言う訳では無い」

 夢魔は悪戯っぽく笑むと男の目前で拳を握る。

 眉間に皺を寄せた男は血管が浮き出た大きな拳を見詰める。

 夢魔は何事か呟くと掌を開いた。するとそこにはスコッチウィスキーが載っていた。



 幾年かが過ぎた。

 大学生の彼女も就職活動に専念する為にアルバイトを辞めた。男の同期はどんどん出世し、莫迦な男はいつまでも現場であくせく働いていた。

 得るものは無し、失うのは若さと金ばかり。序でに童貞も失えばいいのになぁ。

 そんな詰まらない事をパソコンデスクの前でぼぉっと想っていると夢魔に声を掛けられた。

「ぼんやりしているとあっという間に幕が降りるぞ?」

 男は振り返る事無く答える。

「死んだ方が頭もすっきりするさ。莫迦は死ぬまで治らないってね」

「ほう。ならいっそ死ぬかね?」

「それもいいかもな」

 男はふーっと長い溜息を漏らす。すると夢魔も溜息を漏らした。

「珍しいな。お前も溜め息だなんて」

 男はくるり振り返る。すると目前に女姿の夢魔が佇んでいた。薄衣で包まれた豊満な胸が視界一杯に広がる。おかしい。男は壁掛けの時計に視線を遣る。まだ出勤の時間ではない。それに女姿で声を掛けるとは珍しい。

「時間を間違えたか? それとも俺と同じく莫迦になったか?」男はししし、と巫山戯笑う。

 夢魔はぽつり呟く。

「……短い間だが世話になった」

 男は夢魔の灰色の隻眼を見詰める。

「……ひょっとして担当が変わるのか?」

「ああ。出世と言うやつだ」

「それは景気が良いな。俺はなかなか出世しないのによ」男は苦笑する。

「あくせく働いた甲斐あっての栄転だ。この地区の事情は足りた。故に地区を廃する運びとなった。壁のシミの通勤路も廃路になる。今日で君ともお別れだ」

「もうお前の揶揄いもご高説も聞けなくなるのか」男は腕を組む。

「寂しいかね?」

「いいや。清々する」男は悪戯っぽく笑んだ。

「そうか。それは良かった」

 夢魔は喉を小さく鳴らして笑む。しかし踵を返し魔界へ戻る気配は一向にない。

 男は眉を下げ笑う。

「餞別か? やらないぞ?」

「そんなケチを考えると想うかね?」

 ケチで悪かったな。眉根を寄せた男は考える。何を想って戻らないのだろうか。そもそも何故わざわざ別れの挨拶をしに来たのだろうか。女姿で。

 夢魔と男は見詰め合う。

 密かな息遣いにさえ揺れる豊かな胸、濡れた紅い唇をとっくり見詰めていると、きゅうんと男の股ぐらが熱を帯びる。

 瞬時に男の頬は上気する。夢魔はくすり、と笑む。

「姿を見られたのも何かの縁だ。折角だから体を使わせてやろうと想ってね。その年まで童貞なぞ具合が悪かろう。故に女の姿で挨拶に来たまでだ」

「お……俺をどうするつもりだ?」

「なに。君から採集したものを人間の女に注ぐ訳ではない。ただの戯れだ」夢魔は豊満な胸を寄せ、男にしなだれ掛かる。そしてつつうと指先で首筋を撫でる。

 得も知れぬハーブの香りと女の甘い体臭が男の鼻腔をくすぐる。頭をもたげた小倅に脈を感じ熱い息を吐きつつも男は夢魔を睨め付ける。夢魔は紅い唇の片端を微かに上げたかと想えば、桃色の舌で唇をちろりと濡らし淫靡に笑む。

 男は残されたちっぽけな理性で問う。

「何故俺を揶揄う?」

「面白いからに決まっているだろう」



 夢魔を抱いて以来、男は惚けて過ごした。

 今は無きシミの跡を見詰め過ごした。鯉のように開いた口同様、男の胸にもぽかんと穴が空いていた。

 押せば容易く返る弾力に富んだ柔肌、品があっても大胆な仕草、至る時に上げる切なくか細い鳴き声……そんな事をぼんやりと想い出して男は自らを慰めていた。莫迦なりに幸福に過ごしていた。

 しかしある日、不幸に見舞われた。

 小便をしようとトイレで小倅に手を添えた時だった。激しい痛みが稲妻の如く尿道を駆け抜けた。悶絶しかけた男は縮こまった小倅を見下ろす。赤く腫れた傘の周りや添えた手に黄色い膿みがべったり付いていた。

 あの野郎! 置き土産しやがったな! 道理で調子がいいと想った。こんな裏があったとは……!

 苦痛に表情を歪めた男は悪態を吐く。

「クソ悪魔! どうして俺を揶揄った!?」

 すると何処からか喉を小さく鳴らした忍び笑いが聞こえた。

 ──莫迦は死ぬまで治らない。面白いからに決まっているだろう。

                                                   了
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