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二章

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 あれはいつの事だったのか。昔のことはよく思い出せない。それは自分を護るためかもしれないし、それは本当に覚えていないからかもしれない。

 それでも、たまに脳裏をよぎる映像がある。それはおとぎ話みたいな、現実感の無いものだった。

 泣き出しそうな空模様。

 空を圧迫するように流れる暗雲を、不安そうに眺める幼い子供がいる。母親を真似て深緑の髪を伸ばしているせいで、それは一見可憐な少女のようだ。

 子供は振り返って小さく手を振る。

 その先にいる赤瞳の美丈夫は微笑みを返し、頭を下げた。

 それは子供にとって、王城の城門前で繰り返される楽しい日課の一つだった。

 先を行く母親は銀髪をなびかせる。そして子供に視線を向けることなく、王城内の人形を点検し始めた。他に同じような点検を行っている大人達がいて、それらに似た少年が三人、子供に話し掛けてくる。

 遊び仲間のようだ。子供は笑って、少年たちに付いていった。手を引かれ、ボールを片手に王城を出て行く。子供が遊ぶには十分な広さの敷地で何度目か、蹴り上げたボールが城門の外に飛び出した。

 笑いながら四人で追いかけて、蹴り上げて、追いかけて。

 ボールが転がっていったそこは、立派な邸宅が立ち並ぶ居住区だった。

 そして唐突に、何の前触れも無く悲劇は起きたのだ。上等な服を着込んだ大人が、少年たちを殴り、子供の長い髪を掴み上げる。そのまま暗い路地裏に引きずり込まれて、見えない力で服を切り刻まれた。

 覆い被さったその大人は、子供の股間に付いている象徴に驚いたようだったが、構わずニタリと笑い自らの服を脱ぎ出す。

 子供は本能的に悟ったのだろう、これ以上は取り返しの付かないことになると。

 そう、だからいつの間にか降ってきた雨と一緒に、涙ながらに叫んだのだ。母親に呼ぶなと言いつけられていた禁忌を。

 助けを求めただけだったのに。それは一緒に遊んでいた少年たちの名前だった。

 するとバチバチと光を発しながら、少年たちから力が四方八方に飛んだ。一方は溢れ出た魔力が、直接暴力の塊となって周辺の邸宅を破壊した。一方は自身に宿った魔術を暴走させ、その身と大人を燃やした。一方は喉を抑えて金切り声を上げ、鏡やガラス、脆い壁を叫び割った。

 地獄だった。子供の目の前はまさに地獄だった。自分がしでかしてしまった事を目の当たりに、無我夢中で“魔法のコトバ”を叫んだ。

 “たすけて、たすけていーらい”

 雨が降り注いで、映像はそこで途切れる。その後どうなったのかはわからない。

 ただ、その直後、子供は母を思って伸ばした髪をバッサリと切った。そして遊んでくれる人間が誰一人としていなくなった。石を投げられて、罵られた。畏怖の目で見られ、子供は本当の孤独を知った――。

※※※

 目を開けると、目の前は夕焼けで赤く染まっていた。無駄に瞬きを繰り返して、思考を巡らせようとする。

 何が、どうなったんだっけ。

 覚醒したばかりの意識で、自分の現状を把握しようと思った。

 寝室のベッドの上で、髪よし、顔よし、身体よし。布団をめくって、寝間着もちゃんと着ている。手のひらで触って、全てが綺麗になっていることがわかった。

 疲れも残っていない。あれだけの事をされたのに、前と同じくすっかり回復されているようだ。

「……何だか事後って感じがしないな」

 それは幾分心を楽にさせた。あの映像と一緒で、現実感の無い夢のようだと思えるから。

 上体を起こしてそのまま俯く。何だか何も考えられなかった。何だか、酷く傷ついていた。

 “大丈夫だよアルトス。私は君を傷つけない”

「嘘つき」

 思わず溢れた。何処かで期待していたのかも知れない。花の香りと、頬を撫でられたぬくもりは好ましかったから。

 今回のことで確信した。魔女の目的はこの身を弄ぶことだ。

 自分は、僅かでもこの状況を楽しんでいたのだろう。長年言葉を交わすのは従者と同僚、仕事の事務的なものだけ。魔女という新しい刺激に、心が踊らないはずがなかった。そして落胆している自分に気付く。

 見つけ出して、怒る理由と正体を突き止めて、和解出来れば。

 話し相手に、なれるかもと――。

 夕焼けが眩しくて目を瞑る。枕を掴んで抱き締めた。

 もう放っておいてくれ。人を弄ぶな。怒っているなら殴ってこい。石を投げろ。

 ……俺を変えないで。

 瞼の裏が赤く染まる中、ドアをノックする音が響く。

「アルトス様、失礼いたします」

 ドアが開く音がして、従者が寝室に入ってきたようだ。

「……アルトス様?」

 様子がおかしい事に気付いたのだろう。いや、ずっとおかしい事には気付いていたはずだ。でもこの従者は本当に優秀で、決して俺を傷つけない。

 きっとあの時手を止めたのも、触れれば俺が傷つくとわかったからだ。きっとそうだ。どれだけ、この心遣いに助けられてきたことか。腕に力を込めて、枕に顔をうずめる。

「イーライ、今日はもう夕飯はいらないや」

「――かしこまりました」

「あと明日は早いだろうから、いつもより早く寝る」

「はい」

「風呂には入る」

「直ぐに、準備いたします」

「あと、今日は誕生日だからさ。久し振りにお願いしたい事があるんだ」

「何なりと」

 淡々と、テンポ良く繰り返される言葉のキャッチボール。耳に優しく届く声音に、少しだけ元気が出た。

 顔を上げて、ベッドのそばに立つ従者を見上げる。

 すると夕焼けに染まった従者の瞳孔が、また収縮して固まった。まだ調子が悪いのだろうか。心配になる。

※※※

「照れるな。子供の頃はよく一緒に寝ていたのに」

 願ったのは、久し振りに一緒に寝ることだった。馬鹿みたいに、大の大人が二人でベッドに寝転がる。上着だけ脱いだ従者は、仰向けの俺にだけ布団を被せて、横向きに目を瞑った。

「私はいつでも、どの様にでも。御心のままに使ってください。それが私の幸福です」

「ははっ! ありがとうイーライ。俺も十分幸せなんだ。もうこれ以上も、これ以下も要らないんだ」

 同じように横向きになって、イーライと向き合うように目を瞑る。

「早くあいつを見つけて、呪いを解こう。そうしたらまた、いつもの日常に戻るんだ」

 そう、いつもの日常に。

「俺はこれ以上、変わりたくないんだ。誰にも、誰をも、思ったり悩んだり、したくないんだ」

 いつの間にか震えていたらしい身体を、イーライが優しく撫でてくれた。性的な香りが一切しないそれに、心の底から安堵する。

「ありがとうイーライ、ありがとう……」

 目を強く瞑って、身体を丸めて深呼吸した。

 そう、これで良いんだ。隣にはイーライがいて、俺はこのまま一人で、誰とも深く関わらず。これが幸せなんだと、そう思う。

※※※

 呼吸、脈拍、発汗、主の全てが正常値に戻ったことを確認して、従者は薄暗いベッドの上で目を開けた。

「――アルトス様、貴方様はお優しすぎるのです。理不尽な痛みに怒鳴り返すこともなく、人を傷付けることを恐れ、独り閉じ籠もることを選択なされた」

 主の寝息を聞きながら、従者は珍しく心情を吐露する。

「目には目を、歯には歯を。貴方様にはその権利があると、私は考えております」

 それは優しく主の背中を撫でて、幼少の頃を想起していた。可憐に笑う記録よりも、悲しそうに笑う記録が圧倒的に多い、幼い面影が目の前の青年と重なる。

 じっと見つめていると、不意に青年の目尻を辿って雫が零れ落ちた。従者はその頬に指先を這わせてそっと拭う。

「私を頼ってください。何なりと仰せ付けください」

 すると従者の赤瞳が爛々と輝き出す。

「マスターに厳命されてはいますが、どうとでも。貴方様が望むのであれば。魔女とも、君主貴族とも関係なく――」

 ――私はこの国の人間を殺して廻ります。

 従者としてあるまじき狂気は、幼子のように眠る青年に届くことはない。主がそれを望まないことを、これは知っているからだ。

 ただ、起動してからずっと、青年のそばで成長を見守ってきた守護者として。

 長年燻ってきた慰撫いぶしきれぬ怒りが、そこにはあった。
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