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二章

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 小鳥がさえずる。貴族に縁のない市民が住まう区画、そこは木製だったり石だったり煉瓦だったり、建てられた時代はまちまちだが、一般的な住宅が建ち並んでいる。

 早朝の――思いきり吸い込めば心地の良い爽快感が肺を満たしてくれるであろう――冷えた空気の中、舗装されていないデコボコ道を一人の少女が歩いていた。肩まで伸ばされた黒髪がサラサラと揺れ、球根の入った紙袋を抱える道のりは、少女の叔母の家まで続いている。

「ふんふふーん」

 少女にとって通い慣れた道だが、今日は何か特別良い事があったようだ。鼻歌を歌いながら無駄にくるくると回って、地味な紺色のスカートがひらひらと舞う。舞い終わると今度は楽しそうにステップを踏んだ。

「ふふ、えへへ!」

 そのまま低い柵を飛び越え入った裏庭の、呼び鈴を肘で押して軽快な金属音を鳴らす。

「叔母さーん! 花市場で球根買ってきたよー!」

 家の奥から聞き取れない返事がして、少女が鼻歌をワンフレーズ歌い終わる頃、古めかしい木製の勝手口から杖をついた老婆が出てきた。白髪をアップヘアにしたギンガムチェックのエプロン姿は、少女が物心ついた頃から変わらない。少し背中が丸くなって、杖をつく程度には足腰が弱ってきたようだが。

「なんだい、随分と機嫌が良さそうじゃないか」

 老婆は片眉を上げて顎に手をやる。そして杖で床を軽く突いた。

「そうか! 今日は例の日だったね。もしかしてアンタが言う男って、ナルコウスカが言ってた赤瞳の長身かい?」

「え、違うよ!」

 少女は裏庭に設置されている作業台の上に紙袋を置く。それに老婆が近付き、一つずつ取り出した球根の検品を始めた。

「もう! ナルちゃんまた男の人に声掛けられたの? 人妻なのに心配だなぁ。何処かチョロい雰囲気でも出てるのかもね」

 そう言いながら少女は庭の蛇口を捻り、桶に水を貯める。下を向いた拍子に黒髪が頬に流れ、耳にかけ直し、水を張った桶を作業台に移動させた。重かったのだろう、チャプンと音を立てて水滴が飛び散る。

「おやまあ、随分と球根選びが上手くなったねぇ。もうスイセン栽培に関してはアンタに任せて良さそうだ」

 老婆は検品を終えた球根を次々と桶へ放り込んでいく。そして手慣れた様子で丁寧に洗い始めた。少女も手伝うため横に並び、優しく球根についた土を洗い落としていく。

「ふふ、叔母さん聞いて! さっきとっても良いことがあったんだ」

「おや、なんだい?」

 叔母に向かって少女は年相応の可愛らしい微笑みを浮かべた。

「あの人に初めて話しかけられちゃった!」

「そりゃあ凄い! ちゃんと口がきけたんだねぇ」

 少女と老婆は早朝にも関わらず、声高に笑い合う。そして脇に置いてあったいくつもの空き瓶にリレー方式で水を張ると、その口に水気をぬぐい取った球根を置いていった。

「もう本当にびっくりしちゃった」

 少女はあの人との会話を思い出す。

 “ねえ、君。そのスイセンは君の? それとも売り物?”

 突然降って湧いたように、あの人は現れた。その手には白百合の花束がかかえられていて、深緑の髪と緑がかった茶色の瞳がもう本当に素敵で。

 “う、売り物です! すみません、黄色はもう手元になくて……、もう一輪必要でしたか?”

 “もう一輪?”

 驚きに見開かれたその切れ長の目元が本当に好きで。

 “――アルトス様、急ぎましょう”

 そういえば近くに立ってた人、帽子でよく見えなかったけど背は高くて瞳が赤かった気がする。

 少女は回想から現実に戻ると、唇に指を当てて考えた。

 確かにあの人もカッコよかったけど、何というか血が通っていないというか。こっちを見る目が異常に厳しかったというか。

 そこまで考えて少女は首をブンブンと横に振った。赤瞳の奥に闇が見えた気がして、背筋に悪寒が走ったからだ。妄想の赤瞳に心の中で勢いよく土下座する。

 すみません、私の勝手な妄言です!

「こら! 手が止まってるよ。早くおし!」

「はい!」

 叔母に叱られて作業を続けようとした少女だったが、手折たおられた気持ちのままでいたくなかったようだ。作業へのやる気を出すため、もう一度淡い気持ちに浸ろうとする。

 そんな完全に手が止まった少女を横目に、老婆はため息をついた。しかし今度は怒ることなく、眩しそうに目を細めるだけに留めた。それは年季の入った慈しみに溢れた表情である。

「あの人、アルトスさんって言うんだ……」

 きっと少女の黒曜石のような瞳が潤み、恋する乙女のそれだったからだろう。

「やっぱりカッコよかったなぁ……、“深緑の君”」

 少女は一人、頬を染めた。

※※※

 霊園の入り口に立った俺は、目の前の光景が信じられなかった。自分なりの精一杯、母のための白百合の花束を抱きしめる。だってそうだろう? こんなことあり得るはずが無いのだから。

 心臓が早鐘を打って全身に回る血液は、まるで毒のようにこの身をさいなむ。

 丘から吹き上がる風に、白百合と前髪が揺れた。母の墓前に立つそいつの髪も舞って、ハッキリとその横顔が見てとれる。

 声が出ない。だからせめて、震える指先でそいつを指した。

 イーライ見てくれ、あれはなんだ。

「……アルトス様?」

 従者は心配そうにこちらを覗き込んでくるだけで、そいつを見ようともしない。

 イーライ見てくれよ、騎士服を着込んだそいつは母さんの墓前に跪いて、黄色のスイセンをひと撫でするとそっと置いたんだ。

 ――あり得ない。

 ねえ、イーライ、見て。そいつはゆっくりと立ち上がって目を閉じ、祈りを捧げるように何かを呟いた。当然この耳には届かない。でもそいつは確かに、どうしてそいつが――“母さん”と唇を動かした。

 また吹き上がる風によって、そいつの舞い上がって。

 花屋の少女の言葉を思い出す。

 “もう一輪必要でしたか?”

 スローモーションのように、その緑がかった茶色の瞳をこちらに向けた。

 この手に抱いていたはずの汚れなき心は、いつの間にか地面に落ちている。

 ――だってそいつは、献花人は。

 俺だったのだから。
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