おじさんの恋

由佐さつき

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閑話休題 四十一歳 冬

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 猫は炬燵で丸くなる、とは歌にもなっているほど有名な冬の風物詩であるが、それは人も同じようなものだ。じんわりと沁みるような温かさの誘惑になど勝てるはずもなく、身も心も緩やかに、そして予想も出来ないくらい鮮やかに解放されてしまう。そこに入ったが最後、何人も抜け出せない魔窟である。
 ソファの前に置かれた丸型の低いテーブルは、十月も半ばの頃から炬燵布団が設置された。その炬燵布団に深く入り込む二人の男性にも歌と同じことが言え、今はどちらがコーヒーを淹れ直しに行くのかでじゃんけんを繰り広げている。
 四十を超えた男のすることではなかったが、たしなめてくれるような優しい存在は生憎とここにはいない。小さな子どものように元気よくじゃんけんをして、口惜しさに項垂れている姿はとてもじゃないが人に見せられるものではなかった。
「こら、三回負けたんだから早く行って」
「ちょお、五回や言うたやん」
「五回勝負、でしょ。ほら、さっさと行ってよ」
 温もりの中で絡め合っていた足を容赦なく蹴り上げた綾部は、唸る声もさらりと聞き流し、止めてあったゲームを再開させた。画面には繊細なグラフィックで描かれた風景が広がり、あたたかな風が吹く中をポピーの花が揺れている。
 あと数週間もすれば大学勤めの彼は繁忙期へと突入し、穏やかな気持ちでゲームに向かうことも出来なくなってしまう。束の間の休息期間中にクリアしてしまいたいと、逸る心は抑えられなかった。
 対して、思いきり足の甲を蹴られてしまった越谷にもようやく訪れた、仕事のことは完全に忘れられる休みである。
 主任として各現場のトップに立つ彼は出来るだけ自分は勿論、後ろに控えてくれている部下にも残業はさせたくないと定時上がりを徹底している。だが、クリスマス前後はそんなことも言っていられない。
 開発部としての納期はひと月ほど前に終わっていたが、営業や販売部に任せきりというわけにもいかない。日々荒んでいく職場で心身を削り、新作を発表し、購入者の笑顔を確認して、ようやく一仕事が終わったのだ。
 暖房もついているというのに、炬燵の温もりに焦がれてしまうのは二人とも変わらない。押し付け合いの末に負けてしまった越谷は、溜息をひとつ溢して立ち上がった。
 手にしていた小説に差し込んだ栞は三分の二を過ぎており、クライマックスに向かっていく今が一番気になるところだ。ひやりと這い上がってくる冷たさに、背中がひとりでに揺れる。
 靴下を履いていても忍び寄ってくる冷たさに、フローリングを歩く足取りが細かになる。ちょこちょこと小さな歩幅で遠ざかっていく後ろ姿を横目に見送って、モンスターと遭遇したゲーム画面に集中する。
 また夕方にもなっていない時間帯なのに、電気の点けていない室内は薄暗い。昼過ぎから少し雲は出てきていたが、まだ暗くなるには早すぎる。
 レースカーテンから透ける陽かりは淡く、まるでここだけが世界から切り離されてしまったかのようだった。真っ白い輝きにゲーム機から視線を持ち上げた綾部は、薄っぺらい透明さから垣間見える白さに意識が奪われる。
 リビングの一面を飾る窓は長身の越谷よりもずっと背が高く、大人が二人並んでも足りないくらいに広い。喧騒から隠すような無地のレースカーテンも、今は纏められた幾何学模様のカーテンも、世界を覆うには力不足であった。
 二人の暮らすこの部屋は、初めて喧嘩をした思い出深いあの場所とは違う。三十も半ばになった数年前、互いの勤務地から丁度半分ほどの立地に引っ越してきた。初めて二人で暮らした部屋は綾部の職場には近いものの、越谷の職場へは通勤で混み合うバスに乗らなければいけない。
 自分は先に社会人となり、通勤ラッシュにも残業の疲れにも慣れている。そう言って譲らない越谷に、ようやく親の扶養から外れた綾部は頷くしか出来なかった。
 頑張りが空回りして上手くいかない越谷と、気遣われるだけの自分に焦れる綾部と。すれ違って、喧嘩になって、そして仲直りをして。今では若かったな、と思い出話として笑っていられる小さなことが、あの部屋には詰まっている。
 引っ越してしまうのは惜しかったが、やはり越谷にばかり通勤の負担を掛けてしまうことが申し訳なくて、綾部から提案した。それに、隣に住んでいた二人よりも少し若いカップルに苦情を入れられてしまった。
 不動産屋にも、管理会社にも男性二人が同居する、ということは伝えている。正しい関係性を打ち明けることはしていないが、短期間の仮住まいだとか、よく泊まりに来る友人だとか、そういう嘘も言っていない。
 きちんと了承を取った上で部屋を借りていたのだが、引っ越して半年にも満たない隣のカップルは納得してくれなかった。管理会社がわざわざ説明にも行ってくれたらしいが、男同士で同居してるなんて気持ちが悪いと喚かれた。
 小さな生活音さえ許さず壁を叩いてくるのに、自分たちは深夜だろうが早朝だろうが大きな声で話す。執拗にチャイムを鳴らしては身に覚えのないいちゃもんをつけられ、他の住民にも身勝手な噂を広める。
 他にも苦情を漏らす人が出てきた辺りで管理会社から退去を促され、思い出の詰まった部屋から出ていくほかになくなってしまった。
 後味の悪い引っ越しにはなったが、二人の事情を察しているだろう管理会社は色々と協力してくれた。夫婦でやっている会社は家族経営で、不動産やで担当してくれた方から物件よりも先に会社を紹介されるほど良い人たちだった。
 今住んでいるマンションは別の管理会社になってしまったが、ご夫婦から二人は悪くないのだと説得され、初期費用が通常の半分程度に収まった。驚く越谷と綾部に元気でね、と悪霊退散の御守りが渡されたのには笑ってしまったが、今でもその御守りはリビングに飾られている。
 テレビの横にちょこんと置かれた御守りに目を向けて、綾部は堪えきれずに漏れてくる笑みをそのまま溢した。人の良いご夫婦の優しさに感動して泣きそうになっていたのに、大きく書かれた悪霊退散の文字を見てしまえば笑うしかない。
 どたばたと追いやられるように引っ越しを決めはしたが、妥協することなく二人ともが満足する部屋に契約出来た。それぞれのプライベートルームがあって、長身の越谷でも屈まなくていい高さのキッチン台が設置されている。
 それに、一番の気に入った点はベランダだった。今は淡い陽かりに包まれているベランダは三日分の洗濯物も余裕で干せてしまえるほど広く、その上で日向ぼっこ用のテーブルと椅子が置ける。
 どちらもそんなに大きなものではなく、テーブルはマグカップが二つ置けるくらいの大きさだし、椅子もカウンター用と書かれていた背凭れのない簡易的なもの。
 それでも、そこに座ってそれぞれの好きなことをしたり、ただぼんやりと外を眺めながらお茶を飲んだりする時間が好きだった。
 冬の時季は昼間でも足元から冷えてしまってしばらくは日向ぼっこも出来ていないが、また春が来れば揃った休みにベランダに出よう。綾部はそんなことを考えながら、飾った御守りからベランダへと視線を移す。
 今日は洗濯物を干していないし、視界を遮るレースカーテンに柄はない。それなのにちらちらと視界に映り込む影があって、なんだろうかと綾部は根を張っていた炬燵から這い出した。
 天気予報は晴れ時々曇り、最上階の西側角という最高の立地は、視界の遮るものがない。もこもこの靴下を履いていてもフローリングからは冷たさが伝わってきて、危険地帯のような覚束ない足取りで窓へと近づいた。
「なにぃ、結局翔平も出とるやん」
 かとり。マグカップと木材のぶつかる音がして、それからすぐに綾部の背中にはぬるい温度が広がっていく。
 綾部の何も詰まっていないような薄い腹に回された手のひらは大きくて、カーディガンのはだけた薄い体にはひどく心地好い。重なった綾部の背中と、越谷の胸と。心臓の音が共鳴するかのように交わり、蕩けて、深く沈み込んでいくようだった。
「雪、今年初めてじゃない?」
「ん? あぁ、ほんまやねぇ」
 押し入ってくる寒さからか、レースカーテンは重なり合った二人が丁度窓に映るくらいにしか開かれていない。だけれど、そこから広がったのはまるく形を歪めた柔らかな雪で、ゆっくりと、音も気配も掻き消して地上へと降り注いでいた。
 雨も雷もその激しさで世界を断絶してしまうというのに、雪はなにものも脅かさないと不可侵を主張してくる。雪はそこにあることも気付かせないように、ただ静かにその身を落とす。目を向けなければ気が付けない儚い存在に、二人は息を潜めて見守った。
「昔は雪やぁ言うてはしゃいどったけど、今は見るんで精いっぱいやなぁ」
「吸い込まれそうだもんね」
 静かに、ただ静かに。世界から色を、音を失くしていく冷たさに、綾部は腹に添えられた指先を擦った。短く切り揃えられた爪に、少しだけかさついた指の腹。突き出た節を辿って、水かきを二度、三度と擽った。
 ゆるりと動いたときにはもう遅くて、逃げるよりも先に二つの手のひらが重なった。一本一本、長さも太さも違う指が絡まって、マジックのような性急さで握り込まれてしまう。
 ぎゅうぎゅうに抱き込まれた綾部は指先ひとつさえも動かせなくなって、だけれどそれが不思議と穏やかな気持ちにさせた。
「吸い込まれても、二人一緒やで」
「それなら、楽しめそうだね」
 軽やかに往復する言葉に耳朶が、首筋が揺すられ、くすぐったさに二人は鼻奥だけで笑った。触れ合った部分が温かくて、フローリングの冷たさも次第に気にならなくなる。
 雪の降りしきる静けさに混じって、子どもの高く、楽しそうな笑い声が響いてくる。何を言っているのかまでは窓に遮られて分からないが、けらけらと底抜けな明るさはいくつも繋がっていく。
「ちょっと、羨ましなってしもた」
 ベランダに出ない限り走り回る子どもの姿は見えないが、それでも上擦った声だけで彼ら彼女らの駆ける様子が瞼に浮かぶ。重ねていく年齢に抗うことは出来ないが、それでも少しだけ、鼻先を赤く色付けて柔らかな白さに足跡を残す子どもを羨んでしまう。
 底冷えの酷い地域だとは言え、二人の住む内陸部ではあまり雪が降らない。降ったとしても深夜か早朝で、積もることも出来ずに地熱で溶けてしまうことがほとんどだ。
 空は明るいくせに止む気配のない雪に、見慣れない子どもたちのテンションは上がってしまうだろう。生まれてからずっと、四十一年をこの地で暮らす越谷でさえ、ちらちらと揺れ動きながら降ってくる雪に、ベランダの柵に積もって溶けない雪に、遊びたかったと孫ほどの子どもを羨んでしまうくらいだ。
 握り込まれた手のひらは気が付かない内に解けて、元気に走り回る子どもたちへの羨望か、幼心を揺り動かされてしまったことでの興奮か。結露の出来た窓に落書きを残す。
 児童書の挿絵にでもされそうな可愛らしい猫が、雪の水玉模様をつけて描かれる。猫の次は犬を、その次はうさぎを。どんどんと生まれていく小さな動物たちに、綾部は目尻を下げて笑った。
「買い物でも行く?」
 今日の夕飯は鍋にするのだと、越谷が朝から張り切っていたのを知っている。材料はすでに冷蔵庫の中で待ち構えており、急いで買い足さなければいけないものもない。こんな寒い日は引き籠るのだ、とゲームや読書が趣味の二人は意気込んでいたけれど、せっかくの雪に触れないのは勿体ない気持ちにもなる。
 それに、降り積もった真っ新な雪を踏み締める感触は、いくつになっても心を踊らせるものだ。硬いとも、柔らかいとも言えない心地は久しく感じていないもので、交わした視線の先で越谷は期待に瞳を輝かせた。
「ええの?」
「いいよ」
 綾部が頷き終わるのも待てずに、越谷は颯爽と寝室へと走り去ってしまった。残された綾部はその忙しなさに睫毛を震わせ、薄れていく背中の熱にカーディガンを引き寄せる。
 振り返った先には、変わらず静かに、ただ静かに、まるく歪んだ雪が降り続いていた。全てが違う形の結晶を作っているだなんて想像も出来ないまるい雪玉は、音を吸収させながら世界を白く塗り替えていく。
 きっと外は寒いだろう。コートに、マフラーに、あとは何を着込めばいいだろうか。手袋はきっと、すぐに剥ぎ取られてしまう。重なっていた手のひらの温もりを思い出して、綾部はまた、小さく笑った。
「翔くん! 早よ行こうやぁ」
 リビングに戻ってきた越谷はダウンジャケットを羽織っただけで、マフラーさえも巻いていなかった。これでは帰りに後悔するのだろうな、と苦く笑って、コートと二枚のマフラーを準備するために、綾部も寝室へと向かう。
 レースカーテンの重なり合った二人分の隙間は、開いたままになっている。だけれどそこにはもう、世界を失くしてしまう淋しさも、吸い込まれてしまう儚さもなく、ただ静かに雪が降り積もるだけだ。
 出逢った頃の二十数年前とは、色々なことが変わった。重ねた年月の分だけ歳を取り、世間は取り繕うかのようにマイノリティへの歩み寄りをする。四十一になっても慣れないことはあるし、二人の関係を親しい友人以外には打ち明けられない。
 だけれど、世界で二人きりなのだと嘆くほど世間知らずではない。認めてくれる制度も、祝福してくれる友人もいる。それを知っているから、躊躇いなく二人での生活を続けられていた。
「ほら、これも巻いて」
「お、ありがとうね」
 靴を履いて、鍵さえも持って待っている越谷の首に寝室から持ってきたマフラーを巻く。癖のある髪の毛が静電気に跳ねるが、綾部がそれを指摘してやることはない。
 履き慣れている革靴ではなく、二人とも今日は防水のスニーカーを履く。真っ白い雪の上に足跡を残しても、濡れて風邪を引かないようにと声掛けもなく自然とそれを選んでいた。
 玄関扉を開けると、ふわりと舞い落ちる雪が降り込んでくる。その冷たくも柔らかい塊に、二人はどちらからともなく手を繋いでいた。

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