光の群れ星

由佐さつき

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本編

三、

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 ゴールデンウィークも後半に差し掛かった五月五日、私は昨日と何ひとつ代わり映えのしない服装ですばるさんの詩を見に来ていた。明日もカレンダーとしては祝日になるけれど、すばるさんの詩は今日を最後にこのスペースから取り払われる。こどもの日の今日が、今回の展示の最終日なのだ。
 他の作家がどういう風に活動しているのか私は知らないが、すばるさんの場合、壁やパーテーションを飾っているいくつもの作品が販売に回されることはない。大小様々な形で印字されている詩は、会期が終わると生み手であるすばるさんが全て回収していく。
 たまたま同じ時間にいた女性客がどうしてだ、と受付のスタッフに尋ねているところに便乗して理由を聞いたことがある。曰く、額装しているわけでもない、数百円で出来上がったものに値段を付ける気にはなれない、と。
 詩集はプロの方にデザインを依頼して印刷所で製本しているし、ポストカードもすばるさん本人が慣れないながらにアプリを使って枠組みから紙の質感まで拘って作っている。本人が話していたことではないのだが、何度も一緒に展示している作家が企画展のときに漏らしていたのを聞いていた。
 だが、どんなテーマであっても展示されている詩は真っ白い紙に文字が印刷されただけのシンプルなもの。展示会によっての違いなんて、書体やフォントの大きさが変わっているときもあるかな、くらいだ。
 そんな変化しかない、ただの文字が印刷された大小の紙を販売するのは、すばるさんの中では違うと結論付けられた。そう教えてくださった受付の方の言葉を聞いて、女性客は少しだけ粘るような姿勢を見せる。その方は私も個展や合同展が企画されるたびに見掛けて覚えていたから、余程熱心にすばるを応援しているファンの一人なのだろう。
 必死さが僅かに覗く女性の表情に何を思ったのか、瞳の奥を潰す疲労を黒縁眼鏡で上手く隠しながら、受付のスタッフは曖昧に笑みの形を作った。女性もそんな暖簾に腕押しの様子を見て、渋々ながら諦めてくれたようだった。
 私も同じ空間でひっそりとそのやりとりを聞きながら、残念なような、嬉しいような。複雑に結んだ感情が胸中に宿る。
 グッズなら全種類揃えることも出来るが、展示された作品を余すことなく回収するのはきっと不可能だろう。一人が買い占めてしまうと他のお客さんが不満を抱くだろうし、スタッフやすばるさんもそれは望んでいないかもしれない。
 すばるさんは私のために言葉をかき集め、ひとつの詩という形で届けてくれているのだとは分かっている。時間を掛けて丁寧に、神経質に思えるほど繊細に、すばるさんは私のために言葉を綴ってくれている。そんなものは出逢ったその場で理解出来ているが、詩人として立つすばるさんの活動を邪魔したいわけではない。
 詩人として活動するためには、グッズが売れたり入場者が多くなったりと、第三者の応援がたくさん必要になってくるはずだ。スポンサーとして後ろ盾になってくれる大金持ちや企業があればまた変わってくるのかもしれないが、私には口惜しいことにそこまでの財力がない。
 私一人では詩人としてのすばるさんを支えきることは、誠に遺憾ながらも現実的に考えて不可能なのだ。だったら、私は出来る範囲の部分で応援しつつも、他のすばるさんを応援するファンの方と協力するしかない。
 受付のスタッフに尋ねた女性客は、展示最終日の今日も来ていた。何度もパーテーションの中と外を行き来してすばるさんの世界を楽しんでいたが、お昼を少し過ぎた頃に帰っていく。話したこともない彼女からの視線を感じた気もしたが、顔を向けたところで長い髪を垂らした背中がガラス扉の向こうに溶けていくのを見送るだけになってしまった。
 すばるさんの個展は会社勤めの私にはありがたいことに、毎年ゴールデンウィークに開催され、初日も最終日も祝日に設定されている。それはもしかしたら、すばるさん本人も数年前までは兼業作家だったことに起因するのかもしれないが、専業になった今もその習慣を続けてくれていることに感謝の気持ちが募る。
 だから、私はすばるさんに出逢った次の年の個展から変わらず、初日と最終日は時間いっぱいを此処で過ごすと決めている。会場時間の十一時前に来て並び、最終日の今日は閉場の十五時までじっくりとすばるさんの言葉を堪能する。スペースの中が人で混雑してきたら昼ご飯を食べるという名目で退室したりもするが、基本はずっと中でいさせてもらっている。
 今日は一番にパーテーションの中の作品を順番通りに眺め、お昼に一度外に出て戻ってからは順番もばらばらに様々な順番ですばるさんの言葉を受け止めていた。今は逆回りに時間を遡り、短い燕の詩に戻ってきたところだ。
 会場内にはまだ何人も人はいるが、丁度パーテーションの中は私だけしかいない。
 連作になっているこの中の詩は、燕の死をきっかけに明るく、たくましくなっていくのが特徴的だ。時間がテーマになっている連作で、命の終わりから始まっているのがすばるさんらしいとも、すばるさんらしくないとも言える。
 だが、命は終わるからこそ始まる。私はずっと意味もなく生きてきたが、すばるさんと出逢った瞬間に今度はきちんと、正しい形でこの世に生を受けた。すばるさんと出逢うために二十六年間を死んだまま生きていたのだと思うと、燕の死には共感することしかない。
 燕の命が落ちて、そうしてその命がまた新しく始まった。この紡がれている燕は私で、すばるさんは私の形をこうして捉えてくれたのだ。
 頬を伝っていくぬくもりが、まるで降り積もる硬い雪のように、地面の下で根を張る竹のように、強く私に知らしめてくる。
 すばるさんが私にとっての星であることを。数年前のあの日この場所で私を生まれさせてくれたことを。
 静かに流れていく涙を、今は忘れずに持ち歩いているハンカチで拭ってパーテーションから出る。五月の陽射しは随分と長くなっていて、十四時も半分以上を過ぎた今でも橙色とは程遠い明るさで辺りを照らしていた。狭い路地のあいだにあるこのスペースの陽当たりは良くないが、微かに差し込んでくる白っぽい陽かりが眩しい。
 物販コーナーで見本用の詩集を開いて楽しげな声を潜めている年配のご夫婦は、この近くでハンバーグが美味しい喫茶店を営むお二人だ。ゴールデンウィークに限ってほぼ毎日のように通う私を不思議に思い、話し掛けてくれたのが三年前。そこですばるさんのことを話してみたら、お二人は興味を持ってくださって、隙間を見つけてはこうして毎年来てくれる。
 プライベートだから、と会場で会ってもお二人が私に話し掛けてくることも、私が二人に近寄っていくこともない。ただ、こうして会場で顔を合わせたら小さく会釈をするだけ。それ以上のことは何もしないが、お二人もすばるさんのことを好きになってくれたのが分かって嬉しかった。
 今回もお二人はパッケージされた詩集を手に取り、受付で支払いを済ませてすぐに仕事へと戻っていく。ふと視線があったご婦人にお辞儀をし、それに対しての返礼もいただいて、私たちは別々の時間へと進む。
 すばるの詩にも一期一会を表したものがあったな、と物販コーナー近くに飾られた詩を眺めようと奥に向かった。老夫婦と入れ違いに入ってきた男性が、受付で入場料の説明を受けているのが視界にちらつく。
「なんでこんなのがウケてんの?」
 目当ての詩を前に少しだけ目線を持ち上げていると、空気を切り裂くようにたった一言が聞こえてきた。男の低い声が嘲笑の形に歪んでいて、距離が中途半端に空いているせいか酷くこもっている。
 耳から入ってそのまま脳みそを通らずに抜けていく言葉は、意味のある日本語になんて到底思えなかった。
 いや、日本語だと認識することも出来ていない。私の身体を素通りしていく音に、気が付いたときには反射で振り返っていた。
 二人組の男性が、入ってすぐの作品を見上げて笑っている。弧を描くように持ち上がった口端は醜くて、浮かんだ笑窪だけがやけにはっきりと見えた。
「さあ?頭悪いからじゃね?」
 わざとしく語尾を跳ね上げさせ、周りへの配慮もなく大きな声で交わされる言葉は白を基調とした空間に響く。無遠慮な男たちの声は狭い空間に木霊して、受付で談笑していた黒縁眼鏡の男性とお客さんの中年女性も二人組へと視線を向けていた。
 私と入れ替わるようにパーテーションの中へと入っていった若い男女の二人組が、不安そうに肩を寄せ合って隙間から顔を覗かせている。五対の視線が注がれているのに鈍感にも気が付いていないのか、それともそんなものは関係ないと気にしていないのか、二人の鼻に掛かった声は変わらず私たちに放たれた。
「お綺麗な言葉並べてるだけで、意味なんてねぇだろこんなもん」
「適当に書いた文章で食えるんだから、作家なんて楽だよなぁ」
 げらげらと品も無く笑い声を上げる二人に、ぐっと眉間の真ん中に寄った皺が深く刻まれて痛い。
 好きも嫌いもなく、友人も恋人も勝手に出来て勝手にいなくなる今までの人生では生まれなかった、明瞭な怒りの感情が腹の奥でぐるりと渦を巻いた。
 気まぐれのようにしか動かさないSNSのおかげでネット上の認知度は低いかもしれないが、展示される作品数も毎年必ず一冊は製本される詩集の分厚さも、現代詩人の中でトップクラスに入るほどだという。もしもホームページ等に作品が出されるようになれば、それは一日一回の更新では到底足りない。
 すばるさんの経歴や過去作を調べると自然にぶち当たるのが、多すぎる未掲載作品に嘆くという作業だ。
 一年の総まとめとして個人展の作品集とは別の詩集が出た年はまだいい。テーマを定めて纏められた個展用の詩集には掲載されていない、ネット上にも発表されていない詩が載るのだから、その年のすばるさんはなんとか網羅することが出来る。
 だが、総まとめの詩集が出ない年もあるのだから、その年はもう地獄を味わうしかない。すばるさんは展示会や詩集に掲載する以外にも、日常の出来事として息をするように詩を詠む側の人間だ。生活の中に当たり前にある習慣が、今はそのときじゃないと顔を出さないときなどない。
 表に出ない詩も含めて年間で何百と詠んでいるすばるさんに対して、「適当」という言葉が当てられる意味が分からない。
 何千何万とある言葉の砂漠から、たったひとつの単語を見つけ出すのがどれだけ大変か。同じ意味でも音が違うと全く異なる響きになるからと、見つけ出してもこれは違うと放り出すこともあるだろう。
 そんな果てのないことを毎日、毎秒繰り返している作家を前にして、楽な仕事とは一体何を見て喋っているのだろうか。ぐつぐつと腑は煮えくり返っているのに、頭の芯は氷に浸けたみたいに冷えていた。
「お前もやったら?えーと、愛してるー、とかなんとか書いてさぁ」
 また身勝手に響いた笑い声に、受付の男性がそっと動くのを視界の端で見つける。
 好きだ苦手だと言い合うのは受け取る側の自由だし、その言葉の裏に隠された意味を論ずるのも良いだろう。けれど、ただ一方的な悪感情をわざと撒き散らすのは違う。
 詩の個展なのだから、此処には詩が好きだったり書いたりする人間か、すばるさん自身の詩に惚れ込んだ人間か、通りかかったのは偶然でも興味のある人間か。九割以上の人間は、この三つのうちのどれかに当て嵌まるだろう。私も休日は長時間滞在させていただくが、同じようにすばるさんの詩に囲まれたこの空間で癒され、生きる活力をもらって帰ろうと長く足を止める人もいる。
 合同展ではごく稀に他作家を落として自分の応援している作家を上げるようなファンもいるが、個人展は比較的治安も良く時間の経過も穏やかだ。すばるさんはその色が顕著で、本人の在廊や顔出しのイベントもないから受け取る側は自分のペースでゆったりと時間を過ごすことが出来る。
 空気が凍りついて、隙間から顔を出していた二人組は今にも泣いてしまいそうになっている。見掛けたことのない顔だが、既に涙を滲ませている女性は本当に楽しみにしてきたのだろう。小さな両手に握った案内用のポストカードは、力を込め過ぎて皺が寄っている。
「作家なんて、ちやほやされたい下心でやってるだけだろ」
 嘲るだけの笑みを含ませて放り出された言葉に、はっきりとした悪口だと判断した脳が瞬間的に爆発する。
 物事にも他人にも負の感情を抱いたことのない心臓はそれだけでぎゅっと絞められて、耳のすぐ近くで泣き喚く鼓動が五月蝿い。
 何も知らないのに、何にも知らないのに、どうしてそんな感想が出てくるのだろうか。知らないからこそ、分かろうとしないからこそ、そんなことが平気で言えるのだろうか。
 無意識のうちに握り締めていた指先が、手のひらに強く爪痕を残す。それでも痛いと思えないのは、きっとそれ以上に怒りが全身を巡って熱くたぎっているからだ。
 他人にも、両親や恋人にも、善悪関係なく強い感情を抱いたのは初めてで、この気持ち悪いほどの熱をどうにかする術を私は知らない。
 握り締めて白くなった両手もそのままに、ふらりと右足が一歩前に出る。その行き先がどこに向かうのか判別がつかないまま二歩目を出そうとして、そっと優しく肩に乗った重さで我に帰った。
「次回の参考にさせていただきますので、よろしければどこが悪かったなど、詳しく教えていただけませんか?」
 私を背中に庇うような形で、すいすいと迷いなく二人組に近寄って行ったのは、初めて見掛ける男性だった。いつの間に入ってきたのか、さっきまでは確かにいなかったはずの男性は、右腕にスタッフと書かれた腕章をつけている。
 すばるさんの個展で黒縁眼鏡の男性以外にスタッフを見掛けたのは、出逢ったあの日にポケットティッシュを差し出してくれた方以来だ。会期がそんなに長くはないし、主催の人かこのスペースの管理人か、眼鏡の方がずっと一人でやっているのだと勝手に思っていた。
 だが、背中を向けられていて顔は分からないが、黒い髪の毛を短く揃えている男性は、どこか慣れた調子で二人組へと近付いていく。迷いのない足取りには力強さがあるけれど、二人に放たれた声色にはどこか不穏さが含まれているように思えた。
「……誰だよ」
「展示会の一スタッフです。ほら、これが証明です」
 すばるさんを恨んでいるのではないかと思えるほどの口調で話していた笑窪の男が、不機嫌を全面に貼り付けて男性を見返している。ほとんど同じくらいの身長をした男性の背中越しに私も目が合ってしまって、さっきまで浮かべていた不快感や怒りがすっと凪いでいくのが分かった。
 暴言を吐き出した男に対する苛立ちが無くなったわけではないが、元来怒ったことなどない私の感情だ。例え腑が煮えくり返ったとしても、その感情をいつまでも持続させることが出来ないのだろう。
「あと数分で閉場の時間になってしまいますので、近くの喫茶店でお話をお伺いしてもよろしいですか?勿論、コーヒー代は僕がお支払いしますので」
 声の調子だけを聞くと、出掛ける前に楽しみで仕方がないと心弾ませている小さな子どものようだ。何がそんなに楽しいのか甚だ疑問だが、それは周りで見ている他の四人も同じらしい。
 ほんの数分前までは、好きなものを貶される不快感と二人組の粗雑な様子に恐れを抱いているみんなだったが、今は突然現れて喜色を隠しもしない男性に驚いている。受付のスタッフも止めるに止められないのか、半分ほどにまで距離を詰めたところで立ち止まってしまった。
 おそらく、飛び出していった男性以外の全員の頭上にクエスチョンマークが浮かんでいることだろう。
 この人は誰なのだろうか、この状況は収まるのだろうか、どうして二人組はわざわざ入場料を支払ってまで貶しに来たのだろうか。
 固唾を飲んで見守る中、先に根を上げたのは彫り込んだ笑窪を平にならした男だった。ちっと場違いなほどに軽やかな舌打ちを残し、混沌としたこの空間に背中を向ける。もう一人も不満そうにはしていたが残るつもりはないらしく、足早に去っていく男を小走りに追いかけていった。
 百センチほどの低いガラス扉を中腰でくぐっていく後ろ姿はなんとも惨めに見えてしまったが、振り返りもしない二人の男にそっと息を吐き出した。同時に三つほどの溜息が木霊して、歪なカルテットを生む。
 黒縁眼鏡の男性が、近くにいた中年の女性とパーテーションから半身を出した二人組にそれぞれ頭を下げている。私は飛び出してきた男性の背中に未だ隠されていて、変わらない位置にある後頭部をじっと見つめるしか出来ない。
 スタッフと書かれた腕章をつけてはいても、得体の知れない男性に不信感が募る。ずっと受付をしている方が何も言わないのだから、関係者であることに間違いはないのだろう。
 理不尽で迷惑な客を撃退した手腕は素晴らしいが、だけれど目の前の男性が口にしていた言葉が喉奥に引っかかる。そのまま流してもいいような気もするが、それでも小骨が刺さったかのような違和感が拭えない。ぐるぐると残る気持ち悪さに小首を傾げていると、私の視線に気が付いたのか、振り返った男性と真正面から視線がぶつかってしまった。
「どうかされましたか?」
 同じくらいの身長をした男性は、三重にも四重にもなっている目をしていた。幾重に連なった瞼は一見すると重たく見えるのに、丸く大きな瞳がそのイメージを払拭している。くっきりとした涙袋も、勝気に山を描いた眉も、目鼻立ちの整った造形に拍車を立てる。
 素直に格好良いと思ってしまう男らしい顔立ちの男性だったが、緩やかに持ち上がった口端のおかげで近寄りがたさからは無縁の親しみを覚える。私はもっと印象に残りづらい顔をしているはずだから、男性の目立つ造形に自然と目が惹かれた。
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「伝える必要はありません。あんなもの、意見でも感想でも何でもない。ただの暴言です」
 自分が思うよりもずっと厳しい言い方になってしまったのか、目の前の男性は下瞼を押し上げて意地悪く笑っていた目元を緩め、その大きな瞳をぐっと開いて見せる。受付の男性や他のお客さんも私の声が聞こえてしまったのか、雑談に入りかかっていた会話がぴたりとやむ。
 場の空気がぴたりと止まってしまったのを自覚して、これでは先ほどの二人組と同じだと頭を抱えたくなる。周りには今日で見納めになってしまうすばるさんの作品があるのに、みんなすばるさんの詩が読みたくて、すばるさんの世界に浸りたくてこの場所にいるのに。
 だけれど、すばるさんに伝えるのだと言う彼の行動を止める義務が私にはある。批評と呼ぶにはあまりにもお粗末な、ただあの男の不平不満を煮詰めたような身勝手な発言は、ただひたむきに言葉と向き合って綴っているすばるさんに伝えるべきではない。
 どうして彼がそんなことをしようとしているのか、私にはさっぱり分からなかった。まだ幼い、小学生の頃なんかはクラスの出来事を先生や保護者に告げ口する子も周りにはいたが、今はその状況ともまた違う。
「でも、時には否定も必要じゃないかな?耳障りの良い言葉だけだと、書き手が天狗になるだけだよ」
 驚いた表情を見せていた男性は、いつの間にか数分前と同じ、狐によく似た意地の悪い笑い方をしていた。にっこりと、にんまりとした笑い方は文字通りの形をしていて、器用なものだと思わず感心してしまいそうになる。
 天狗になるだなんて、仮にもスタッフ証を持っている人が何を言っているのだろうか。もしすばるさんが賞賛の声を求めていたら、すごいすごいと持て囃されることを望んでいたら、もっと精力的にSNSを活用しているはずだ。
 合同展で他の作家が名札を胸につけているのと同じように、顔を出してファンの方と交流する機会を持たないのもその証拠だ。直接会って言葉を交わしている作家が自己顕示欲に駆られてのものばかりだと思っているわけではないが、すばるさんは頑ななまでに応援している人と会おうとしない。
 すばるさんはただ、果てのない大海原から、光り輝く星々の中からたったひとつ。すばるさんの願い、追い求める言葉を拾えたらそれでいいのだ。
 すばるさんにとっては言葉を紡ぐことこそが大切で、詩人になったのは結果論でしかない。詩があったから詩人になっただけで、詩人になりたかったわけではないだろう。
 この人は、そんなことも分からないのか。スタッフとしてすばるさんを支える立場であるくせに、どうしてすばるさんの気持ちが分からない。
「すばるさんが、他人から配られる言葉を気にすると思いますか?」
 分からないのならばそれでいい。スタッフといっても所詮はその程度で、それ以上になれることはないのだ。
 すばるさんのことを何も理解していないのにスタッフが出来るのかと、悲しみと淋しさが同時に襲いかかってくる。すばるさんが思うように、願う通りに言葉を集めていられるならそれでいいが、少しでもそれが妨げられてしまうのなら、たった一人きりでいてほしい。
 そんな、応援している人間としてあるまじきことを考えてしまって、罪悪感に逸らしてしまった視線を持ち上げる。
 すばるさんのことを何も分かっていない彼と、すばるさんの変わらない言葉への姿勢を思うあまりに孤独を願ってしまった私と。どちらも自分勝手で、結局はあの去っていった二人組と変わらない、と奥歯を噛み締める。
 後悔ばかりが胸に迫ってきて、すばるさんの空間を最後の最後で踏みにじってしまったと苦しい。自分勝手に発言してしまったことを彼に謝り、固唾を飲んで見守っている周りの方たちにも頭を下げて、さっさとこの場を去ろう。そうすれば来たばかりの若い二人組も少しはすばるさんの詩を眺められるだろう。
 そう思ったのに、前に向けた視線がびくりと震えた。全身に余計な力が入り、背中をいやに冷たい汗が滑る。蛇に睨まれた蛙というのは、まさにこういう気持ちで固まっているのだと、知りたくもない知識を得てしまった。
 目の前の男が、ひどく楽しそうに笑っていた。子どもが興奮を抑えられないみたいに、頬を真っ赤に染めてにこにこと無邪気に笑っている。先程まで浮かべていたにんまりと意地の悪さを隠しきれていない笑みとは全く違う、怖いくらいに純粋で真っ直ぐな笑い方だった。
 私の正面で固定された瞳から慮って、彼の琴線に触れたのは間違いなく私の発言だ。だけれど、その何がここまで彼を興奮させたのか分からなくて、叫んでしまわないようにぐっと腹の底に力を込める。
「ありがとう。やっぱり、君だけだね」
 表情とは不釣り合いなほどに落ち着いた声が、静かに柔らかく私たちのあいだに溢れる。真っ白い陽射しが、美術館に飾られている絵画のような放物線を描いて入ってきた。
 どうしてお礼を告げられたのか、君だけだという科白に隠された意図が何なのか。考えようと思っても、見事なまでに千切れて元の形に戻すことも出来ない。
 力を込めた腹の底で、何とも形容し難い感情が熱を上げる。疑問を持とうと思っても上手く言葉にはならないから、もう会うこともないと諦める方が早いだろう。それくらいに、男性の見せる表情は理解出来なくて、いっそ逃げてしまいたかった。
 大学生のときに買った安い腕時計を確認すると、もうすでに閉場の十五時は過ぎていた。黒縁眼鏡の男性は後味が悪いから、と延長を申し出てくれたが、私は空気も悪くしてしまったし、ひと足さきに帰ることに決める。
 物販で買い足すものもないし、じっとこちらを凝視してくる彼の真意は分からない。聞いても答えてくれる確証はなく、後ろ髪を引かれても退散してしまった方が自分のためにもなりそうだ。最後にすばるさんの作品を堪能し尽くすことは出来なかったが、帰宅して飾ったポストカードを眺めて過ごそう。
 ぐるぐると頭の中だけで結論を出し、無邪気に楽しがる子どもから視線を剥がす。何に対してそんなにも興奮したのかは予想もつかないが、立ち去ろうとしている私を引き止める気はなさそうで安心した。
 目の前のスタッフなのかも正しくは判別出来ない男性ではなく、受付台の前でこちらの様子を伺っていた黒縁眼鏡の男性にお辞儀をし、私は一度ぐるりとすばるさんの作品全てに視線を巡らせてからガラス扉に向かう。
 出入り口を勘違いしたあの日が遠い昔のようにも、昨日のことのようにも思える。
 筋肉の付きづらい薄っぺらい身体を折り畳んでガラス扉をくぐろうとしたその瞬間、手を伸ばせば届く距離にまで近寄ってきた正体不明の男性が、ひらりと手のひらをこちらに見せて振りながらにこやかに微笑んでいた。
「またね」
 たったの三文字。使い古された別れの挨拶であるはずだが、私には言葉通り以外の意味も込められている気がして、反応すべきかどうかを迷ってしまう。それでも、見送ってくれている人を真っ向から無視する気にもなれなくて、私は悩んだ末に会釈だけを返した。
 スタッフだから、またねと次を期待するような言い方をしたのだろうか。今年は二年振りに合同展も決まっていて、また数ヶ月も我慢すれば壁に飾られたすばるさんの作品を眺めることが出来る。
 まだテーマは決まっていないし、期間や場所も知らされていない。それでもすばるさんの言葉を読める未来が待っていることが楽しみで、自然と口端が持ち上がってしまう。
 理不尽な嘲笑や雑言と同じだけ、私の言葉や存在もすばるさん本人には届いてほしくない。私はただひっそりと、すばるさんが私のために探し出してくれた言葉を受け取って、すばるさんの活動を応援していく。私に出来ることはそれくらいで、それ以上のことは何も望まない。
 早かったら晩夏にはすばるさんの新作が拝めるのだ、明後日から始まるいつもと変わらない仕事もこなしていけるだろう。理由は分からないがかけられた三文字の言葉に未来を想像して、私は真っ直ぐに帰路へと着く。
 その背中に突き刺さっている熱く燃え爛れた視線には、ついぞ気付くことはなかった。

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