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本編
四、
しおりを挟む個展開催の時点で告知されていた合同展は、五年前と三年前にも同じメンバーで行われたものの第三弾だ。
参加している水彩画家の関係者に印刷会社の人がいるらしく、展示されている作品も物販コーナーに並んでいるグッズも、紙やインクにこだわった特殊で綺麗なものが多い。
毎回主催者や参加者はもちろん、協力してくださっている企業も同じだからか、数年越しの開催でも統一された雰囲気と完成度の高さに圧倒されてしまう。変わらないものと、変わっていくもの。その違いに、今年もまた飽きずに驚いてしまうのだろう。
初めて拝見した五年前は私もまだすばるさんと出逢って間もない頃で、印刷技術やデザイン性の素晴らしさに気付くことが出来なかった。三年前はようやくその尻尾でも何となく気付けて、すばるさんの詩を個展とはまた違う角度で楽しむことが出来た。今年はもっと気付けるものが多いだろうと、発表されたときからずっと楽しみにしていた。
だけれど、気まぐれのようにしか動かないSNSでテーマが告知されてからは仕事にも支障が出てしまうくらい、分かりやすく動揺していた。
普段はしないようなミスをして隣の席の同期に心配されてしまったり、折角差し入れてくれた上司からのコーヒーを零してしまって迷惑を掛けてしまったり、いつもは先に帰る強制飲み会の二次会にぼんやりしたまま参加してみんなを驚かせてしまったり。
この数週間を思い返しても、私の行動は可笑しいどころの騒ぎではない。一つひとつを思い出してしまうと恥ずかしさに頭が沸騰してしまい、気を遣ってくれている周囲の反応に申し訳なさを募らせる。
すばるさんに出逢ってからも、こんな風に感情が掻き乱されて日常生活がままならなくなることはなかった。平穏で浮き沈みのない毎日に疲れてしまってもすばるさんの詩集やポストカードを見れば生きようと思えるし、趣味も好き嫌いもない自分に嫌気がさすこともない。こんなにも丁寧に私のことを救ってくれるすばるさんに感謝こそすれ、待ってくれと遠ざけようとするのは論外だ。
それなのに、今回はすばるさんに出逢ってから初めて、すばるさんの拾い集めた言葉の数々から逃げた。すばるさんが選び、ひとつの流れとして組み立てた詩を読むことから目を逸らし、ずっと楽しみに待っていた合同展に行くことさえ躊躇ってしまう。
理由はただひとつ、今回のテーマが今までにないものだったからだ。見たことのないすばるさんだから、とそんな勝手な言い分を押し付けたいわけでも、初めて見るかもしれないすばるさんに期待していないわけでもない。
すばるさんの集めた言葉はひとつも聞き漏らしたくなんてないのに、私の全てを壊さんばかりに反抗してくる気持ちがある。
「恋をした」、それが今回のテーマだった。すばるさんの拾い集めた言葉は現代詩に分類されているが、恋に関する感情や情景を綴ったものがなかったわけではない。同種族間の恋愛模様に限らず、無生物を愛する女性や雲が空に恋い焦がれているようなものもあった。
それに、すばるさんだって日本語を操る一人の人間だ。誰かに、もしくは何かに恋心を抱かなかったことがないとは思えない。あれほどに胸が苦しく、だけれど嬉しく幸せになれるような言葉を見つけられるのだから、すばるさんにだって恋人がいてもおかしくなどない。
頭でも心でもそんなこと分かるのに、すばるさんだけは違うと言ってしまいそうな自分がいた。
どんなテーマが掲げられていても、どんな世界観で綴られていても、すばるさんの詩は丁寧で、繊細で、美しくて。私の生きるこの地球上の出来事だとは理解しているのに、微妙にズレた軸を覗いているような心地にもさせてくる。
すばるさんは唯一無二の存在で、すばるさんのいる場所に介入することは許されない。すばるさんを孤独に思いたいわけではないはずなのに、私にはすばるさんが誰かを好きになったり、誰かを隣に置いたりする想像が欠片も出来なかった。
だから、私たちと同じようにすばるさんの「恋をした」瞬間なんて聞きたくない。誰かを思ったり、誰かと好き合ったり、そんな経験から拾い集められたかもしれない言葉を読む勇気が、情けないことになかなか湧いてこなかった。
すばるさんの言葉は余すことなく受け取りたいけれど、今回のテーマは素直に受け入れられる自信がない。行かないなんて選択肢は最初から準備はされていないくせして、今もこうして展示会場のすぐ近くを無意味に歩いて必死に抗っている。
個展でも合同展でも、すばるさんの詩を真っ先に読みたいと初日の朝イチに行っている。開場五分前には必ず到着しているようにして、そわそわと落ち着きのなくなる心臓を抑えて待つ。その時間さえも楽しみのひとつであるというのに、会場が見えては引き返し、嬉しそうに頬を染めて出てきた人を見ては近付きを繰り返している。
初日は開場時間が十三時と少し遅く設定されていたが、今はもう十六時を超えていた。
九月も終わりに迫ってきた今は夕暮れがだんだんと早くなり、もう既に辺りは橙色の陽射しに染められている。ゴールデンウィークの個展は十八時を過ぎてもここまで色の濃い夕焼けは見えなかったから、時間の流れを実感して宙を眺めてしまう。
いつまでもここで油を売っているわけにはいかないし、受け取るのが怖いからといつまでも逃げ続けることは出来ない。どんなに気が進まないテーマでも、すばるさんの詩を読まないなんてことは天地がひっくり返っても起きてはならないこと。目の前に立ってどう感じるかは今の私にはまだ分からないが、覚悟を決めて行くしかない。
及び腰になるのをどうにか堪え、三十秒以上の深呼吸をしてから会場の扉を押す。今回の展示場所は初めて伺うところで、高架下にある二階建てのスペースを借りていた。合同展用に五年前から開設されていたSNSで中の写真がアップされていたが、木材のあたたかみが基調になっている広い一軒家のようだった。
シャッターの上がった建物からは、クリーム色の柔らかな灯りが漏れている。ざわざわと人の話し声も聞こえてきて、中を見なくとも盛況な様子が伺えた。
今回のような合同展や企画展などに参加するときのすばるさんは、日時や場所の告知以外は事前に何も教えてくれないから、余計に緊張してしまうのだろう。扉を押す指先が震えていて、ばくばくと耳元で鳴る心臓が五月蝿い。
開け放たれた内扉の前で最後にもう一度だけ深く新鮮な空気を吸い込んで、腹の底まで浸透させてから足を踏み入れる。この合同展はいつも入場無料で、その代わり全作家の作品をひとつにまとめた冊子が少しお高い値段設定になっていた。
受付で先にアンケート用紙をいただき、私は真っ先にすばるさんの作品へと向かう。一番手前に展示されているのは水彩画家の額装された大きな作品だが、絵の良し悪しも分からなければ興味もないので横目に通り過ぎるだけで終わる。
すばるさんの作品は、二階の窓際に展示されていた。西向きに設置された窓から差し込む橙色に染まることも、隙間から流れ込む風に靡くこともなく鎮座するすばるさんの詩は、長めのものが四つ並んでいた。東西南北でそれぞれ区切られた作品はどれもタイトルがつけられていて、その特別感に胸がぎゅっと締め付けられる。
俳句の形をした短い詩から、千文字を超えるショートストーリーみたいな長さの詩まで。すばるさんの集めた言葉はその時々で長さを変えるが、タイトルが付いているものの方が圧倒的に少ない。二百ページ以上の詩集でようやくひとつある程度なのに、些細なところまでいつもと違っている。
個展では絶対につけないような一風変わったテーマだからか、アプローチの仕方を普段通りにはせず、新しい発見と出逢いを提供してくれている。プロとして私たちを楽しませる趣向に嬉しく思う気持ちもあるが、それとは別に、どうしても今回は特別なのだと歯痒くなってしまう。
「恋をした」瞬間やきっかけに対してタイトルをつけているのだと思うと複雑な気持ちになるが、結局は読みたいが勝って真正面で立ち止まっていた。
丁度抜け目の時間帯だったのか、二階に上がってきている人の数はそれほど多くはない。これならゆったりとすばるさんの詩を堪能して、咀嚼して、受け止めて帰ることが出来るはず。そう思い直して、目線よりも高い位置に飾られた四つの詩に向かう。
一つひとつは繋がっていない、それぞれに独立した長い詩だ。北にあたる、一番上にあるものから言葉を辿る。初々しく甘酸っぱい恋の模様は、幼い可愛らしさに溢れて思わず微笑んでしまう。逆に、南にあたる一番下に置かれているのは心にぐさりと刺さる切なさが滲んでいた。
北、南、東、西。順番に手繰り寄せた四つの詩は、一貫して同じ感情はもたらさない。読むだけでその輝かしい光景が瞼の裏に刻まれて楽しくなったと思ったら、地の果てにまで吹き飛ばされて散り散りになった心を茫然と見つめている。私が立っている場所は光の溢れる木造建築の中なんかじゃなくて、凪いだ空気が頬に突き刺さる断崖絶壁なのではないだろうかと錯覚を起こしてしまうほどだ。
すばるさんの「恋をした」詩を読んでどうなるだろうかと不安になっていたが、そんな感情はただの杞憂に終わった。すばるさん個人の感情や経験ももしかしたら根底にあるのかもしれないが、受け取る側にそれを悟らせることは全くない。
どこまでも真っ直ぐで、純粋で、新しい感情がそこにある。瑞々しく天まで伸びた向日葵が咲き誇る明るさも、鬼の形相で涙を流しながら湿った地面を掘り進めるような心苦しさも、ふとした瞬間に差し出され、戸惑ううちに終わりを迎えてしまう。
不純物の入っていないそのままの感情が剥き出しで、これがどうだと論ずる気にもなれない。すばるさんの詩に初めて恐ろしさを感じて、だけれどそんな風に思えたことが嬉しかった。
二の足を踏んでしまった数分前の自分が恥ずかしくて、もっと早く来ていればよかったと後悔が襲ってくる。それでもやはり、神経質さすら覚えるほど緻密に組み立てられた言葉がそんな気持ちも取り払ってくれて、私はただ必死にすばるさんの言葉を追った。
溢れてくる涙をハンカチで抑え、左隣へとやって来た方にすばるさんの正面を譲ろうと右へ数歩ずれる。ざっとではあるが四つとも最後まで読んでいて、満足するまで読み込むのは一歩横にずれていても出来る。
すばるさんの言葉で泣いたのは何度目だろうかと数えるのも億劫になる程、毎回のように展示会場で年甲斐もなく泣いてしまっている気がする。三十も過ぎているのに、とハンカチを握っても、すばるさんには一生泣かせられて終わるのだろう。
「こんな糞みたいな詩で泣く奴とかいんのかよ、気色悪りぃ」
こんなこと今までには一切なかったのに、おじさんと呼ばれても仕方の無い年齢へと成長したのに。そう思いながらも今までの人生を思うと、こんなに感情を動かしてくれる存在はすばるさんだけで、後にも先にもすばるさん以上の人間が現れるとは思えない。
だったら周りになんだこいつは、と思われつつもこのままでいる方が健全だと開き直った気分でいると、私が避けて空いた正面に移動してきた誰かから突然声がかけられた。
いや、かけられたなんて生易しいものではない。投げ捨てられた言葉には悪意と嘲笑だけが詰まっていて、脳がその声を受け取りたくないと拒否している。矛先が自分じゃなければいいと警鐘を鳴らしながらも、無視出来ない禍々しさが隣から漂ってきた。
ゆっくりと視線を滑らせた先で、私の方へとしっかりと意識を向けてきた横顔に見覚えがある。数ヶ月前に通っていたすばるさんの個展で、何がしたいのかわざわざ入場料を支払って暴言を投げ捨てていた笑窪の男だ。今日は一人なのか、私とは反対側の隣にぽっかりと空間が出来ている。
ハンカチを握る指先が、急激に温度をなくしたのが分かった。あの日もどうしてこんな人が展示会場に来ているのか想像も出来なかったが、今日は確実に狙って来ているのだと分かるから余計理解に苦しんでしまう。
個展のときも雑言は吐き捨てられていたが、偶々機嫌が悪く、偶々会場の前を通り、当たり散らす先が求めてやってきたのだと解釈することも出来た。
だけれど、主催者も展示会場も違う、最寄り駅さえ何十分と離れているこの場所にいるということは、すばるさんに対して何か不満や憤りがあるのだ。
鏡で確認しなくても、自分の表情が強張っているのが分かる。気色が悪いと男は言い放っていたが、それはきっと私個人に向けられた悪意ではない。
ただ、すばるさんを悪く言いたいだけ。ただ、すばるさんの詩に暴言を吐きたいだけ。私は偶々隣にいて、巻き添えを喰らっているだけに過ぎない。
「お前、あの日もいた奴だよな?なんでこんな糞みたいな詩で泣けるわけ?」
壁に飾られた詩に向かっていた視線が、左右に振られてから私へと移る。吐き捨てられる言葉の強さとは別に、あまり大きくはない吊り目に宿っているのはどこまでも暗い、昏い感情だった。
どれだけ考えても、この男が何をしたいのかが分からない。SNSには偉ぶって批判したいがためにその対象を探している人間もいるらしいが、鬱憤を晴らすためだけにすばるさんを狙っているようには見えなかった。すばるさんを嫌う理由が確かにあって、その腹いせや逆恨みのためにやって来ているのではないだろうか。
そうは思っても許される行為ではないし、こちらが譲歩してやって理由を尋ねることもしたくない。理解出来ない相手への歩み寄りは、双方がただしんどい思いをするだけだと、仕事上の付き合いで充分すぎるほどに分かっている。
慮ってやることも、意思を汲んで勝手な言い分を聞いてやることもないが、絡まれてしまった時点でどうにかする必要がある。そうしないと男が納得するまで離してくれないだろうし、私も平穏にすばるさんの詩を楽しめない。
理解も譲歩も出来ない相手に、どうするべきかとぐるぐる思考を巡らせる。得意科目は理系だったけれど、現代文や小論文も決して苦手な方ではない。どうにかして穏便に、周りに迷惑を掛けることなく、この男の対処が出来ないだろうか、
あまり大きな声ではなかったおかげで、他の作品を見ている人には私たちのやりとりは見つかっていない。だが、それは同義に、運営スタッフの方の助太刀は望めないということでもある。
同意するのも嫌だし、かといって真っ向から否定すると火に油を注ぐ結果となるだろう。すばるさんの作品の前にいるのだから、すばるさんに迷惑を掛けないようにしつつ、この男がもう一生すばるさんの作品を読まないで済むように導くのはどうしたら良いのか。
考えても悩んでも分からなくて、私は冷えた指先でハンカチを握り締める。向けた視線もいつの間にか自分のつま先に落ちていて、どう頑張ってももう一度男へと向けることは叶わない。
「おい、聞いてんのかよ、なんとか言えって」
「それ以上は、警察を呼ばせてもらうね」
友だちと喧嘩をしたことも、両親に反抗したこともない。厄介ごとを起こしてまで主張するほどの自我がなかっただけなのだが、今初めてそのことを後悔した。相手の意見を汲んで対処することしかしてこなかったから、こういうときに何を言えばいいのか、どんなことをすればいいのかがさっぱりと分からない。
唯一私の人生に降り立った、好きという感情も何かに対する興味も湧かせてくれた人を、私は庇って守ることも出来ないのか。そんな思いに駆られて、すばるさんの詩を読んだときとは違う涙が溢れそうになった、その瞬間。
すっ、と私を囲うように前に飛び出して行った背中が見える。慌てて来てくれたのか、あまり変わらない身長のその人は、大きく肩を上下させて息を整えていた。
驚きに声を上げる前に、そのきちんと切り揃えられた黒髪の男性に見覚えがあった。数ヶ月前のあの日と同じ、スタッフと書かれた腕章をつけた正体の知れない男性だ。すばるさんの何も分かっていないのに、今回もこうして裏方として来ているらしい。
男も割って入ってきた男性の顔に思い当たったのか、口端を不気味に押し上げて見せる。浮かんだ笑窪はくっきりと彫り込まれているのに、歪んだ目元が余計に気持ち悪さを覚える。
「またお前かよ。うざってぇな」
不敵に笑っている男は、例えスタッフ腕章をつけていたとしても問題はないと思っている。何を根拠にそんな偉そうな態度を取れるのか疑問だが、身体の向きを変えて庇ってくれている男性と真正面から向き合った。
男と隣り合って声を掛けられたときは、まだ向こうも小声で喋っていて周りに気付かれることはなかった。だけれど、流石にもう注意は逸せないのか、他の作品を見ていた人たちから無遠慮な視線が浴びせられる。
割って入ってくれた男性はおそらく気付いているだろうけれど、にやけた様子を隠さない男は気付けていない。
「作家の批評なんて、」
「ただ喚き散らす人間は必要ない。さっさと出ていきな」
切り札でもあるかのように胸を張っている男が何かを言おうとして、だけれどそれは冷え切った男性の声にかき消されてしまった。
あまりにもはっきりと来場者を拒否する言葉に、背に庇われている私も、傍観者に徹している周りの人たちも驚いて息を飲む。
こんなにも厳しい言葉で線引きされると思っていなかったのか、男は緩めていた口端をそのままにぴたりと石のように固まってしまう。理解出来ないと少しずつ真ん中に寄せられていく眉間の皺に、私は男が暴れ出してしまうのではないかと心配になった。
初めてのテーマに二の足が踏んでなかなか来れなかった私が言えるものではないが、今回の合同展はすばるさんにとって新境地と言っても過言ではない。今までになかった類の詩は何度も繰り返し読みたいし、じっくりと堪能したあとは物販コーナーにも行きたい。他の作家を目当てにやって来たたくさんの人に読んで欲しくて、いつまでも私たちが作品の前に居続けるべきではないのだ。
まだこれからの時間にやるべきことは多いのに、男が暴れたらその時間が奪われてしまうかもしれない。下手を打てば、今日はこのまま閉場となってしまうことだってあり得る。そう思うと気が気じゃなくて、背中越しに対峙する二人の様子をじっと伺った。
「スタッフがんなこと言っていいのかよ、俺は客だろうが」
不気味に笑い続けていた男が、掃いて捨てたようにその表情を失くすのは正直に言って怖い。瞬きをしたその次には殴りかかってくるのではないかと、詰められて胸ぐらを掴まれるんじゃないかと、そればかりを想像してしまう。
だけれど、私を庇ってくれている男性はそんなこと気にも留めていないのか、やけに芝居がかった調子で左腕を真っ直ぐに階段に向かって伸ばす。つられてそちらに目線を向けると、個展で何度も見掛けた黒縁眼鏡の男性や高そうなスーツを着た五十代くらいの男性が数名で階段のそばに控えていた。
この男性が元々呼んでいたのか、それとも騒がしくなった二階が気になって来てくれたのか。
どちらの可能性もあるが、階段を登って野次馬に来る客も随分と増えてしまっている。あの日とは比べ物にならないくらいの騒ぎになっているのではないかと不安になるが、私に出来ることはないと二人の様子を見守った。
「あなたはファンでもお客様でもなんでもない。早く、お帰りください」
不遜な喋り方をしていた男性が、慇懃無礼なまでに丁寧な口調になる。それが何かしらの合図だったのか、黒縁眼鏡の男性がスーツ姿の大人を引き連れてこちらに寄ってきた。
「はぁ!?それで終われると思ってんのかよ!!」
近付いてくる数人の気配に分の悪さを悟ったのか、貼り付けていた不気味さを捨てて男性へと噛み付くように一歩を踏み出す。
ああこれは。勢いをつけて殴り掛かって来ることもあるだろうな、と身構えていると、庇ってくれていた男性の背中がこちらに寄ってくる。え、と思う頃にはもう、あまり変わらない身長の男性と木製の壁に挟まれ、押し潰されるような形になっていた。
ぎゅうぎゅうに潰してくる男性は動いてくれなくて、抵抗するような男の声だけが辺りに響く。あとはもうやって来た人たちの仕事なのか、むかつくだなんだと喚いて暴れている男に男性が何かを言うことも、下ろした左腕がもう一度持ち上がることもない。
二回目の対峙になった男性を睨みつけるのも、諦めずに暴言を吐くのも忘れずに喚く男は、何人もの大人に囲まれて引き摺られるようにして一階へと降りていく。興味津々といった形で静観していた周りの人間も、未だちらちらと視線は寄越すものの話しかけてくるようなことはなかった。
「あの……」
庇ってくれた男性は、引き摺られていく男が見えなくなっても私の前からは退いてくれない。それどころか、純粋に作品を見に来たお客さんが昇り降りしている階段をじっと見つめ、その視線を剥ぎ取ることも忘れて固まっている。
この人が助けに入ってくれなかったら、もっと騒ぎは大きくなっていただろう。もしかしたら私は男に怪我を負わされていたり、反対に私が殴ったりしていたかもしれない。そんな状況を助けてくれたのだからお礼を言いたいし、早くこの板挟みから抜け出したい。
それに、面白がるような視線が絶えず向かっている今この瞬間から逃げたいという気持ちもある。男性がじっと階段の方を睨みつけているからか、さっきの状況を知らない人たちからも視線を送られる。潰されている状態も相まって、非常に逃げ出したい。
そのどれもが、この男性が退いてくれなければ叶いそうにないと声を掛けてみるが、聞こえていないのか無視しているのか。男性が振り返ってくれることはない。
「あの!」
何度声を掛けても反応は返ってこず、私を押し潰している力が弱まることもない。身長差がそれほどないのもあって、鼻先にあたる短い髪の毛が擽ったい。軽く肩を揺らしても気付いていないのか、気にならないのか、男性の姿勢は一ミリと変わらなかった。
他人の注意を引く方法など知っているわけもなく、仕方なく着ている薄手のパーカーを少し引っ張ってみる。そうすると流石に気が付いてくれて、慌てたように勢いよく振り返った。
「怪我はないか?助けに入るのが遅くなってしまって申し訳ない。君に嫌な思いをさせてしまったね」
冷え切った声色をしていたさっきまでの姿はどこへ行ったのか、私へと向けるその瞳には優しさと労りだけが詰まっている。その温度差を至近距離で見てしまって、反射のように後ずさろうと下げた踵が壁に当たった。
男に絡まれてすぐに来てくれたのだから怪我なんてしていないが、慌てた様子の男性は頭のてっぺんからつま先まで、私の全てを確かめるように視線を動かす。
数ヶ月前に会ったときとも、理不尽に喚き散らす男を前にしたときとも違う対応に、私はお礼もお詫びもよそにただじっと男性を見つめるしか出来ない。どうしてそこまで心配してくれるのかも分からなくて、私の顔はさぞや呆けたものになっているだろう。
驚きと戸惑いに何も反応出来ない私を見て、何か問題があったと勘違いしてしまったのか。怪我の状態を目視していた男性は私の右手を掬い取り、さっさとすばるさんの展示前から立ち去ろうと動き出した。
急な男性の行動に、私は絡まりそうになる足を何とか左右別々に動かす。三十路を迎えて衰えてきた筋肉でも転ぶことはなかったが、心配そうにこちらを覗き込んでいた表情から一変。何を思っているのかも分からない無表情に、私は唸り声も上げられない。
どこに行くのだと質問を投げることも、ついていく必要はないとその掬い上げる手を振り払うことも出来ず、つれられるまま階段を降りる。意を決してすばるさんの新境地を受け取りに来たのに、このまま中途半端な形で出ていくしかないのだろうか。
一階まで降りてすぐにある出入り口から外に出されると、数メートル先で今も変わらずに男が何かしらを喚いていた。周りを囲んでいるスーツの男性が渋い顔を見せているが、邪魔をされて激昂している男はその表情の差分に気付くことはない。
「おい!待てよ、っおい、離せって!」
会場から出てきた男性を見つけ、押さえる数人の腕からもがき逃げようとする男に、私の身体は何とも情けないことに強張ってしまう。掴んだ手のひら越しにそれを感じ取ったのか、手を引く男性は今よりもさらに歩調を早くする。
そんなことをすれば男の機嫌がもっと悪くなるだけだと思うのに、男性の歩みに迷いはない。取り押さえてくれているスタッフもいるし、彼の仕事はもう終わったのだろうか。そんなまさか、とは思いつつ、前を歩く背中に問いかけることはどうしても出来なかった。
会場の前は人通りが少なく、暴れる男へと注目が集まっていたが、もうあと少しもすれば大通りへと出てしまう。休日とはいえ、今の時間帯は帰宅する人で溢れかえっているだろう。そんな中を手を繋いで颯爽と歩く勇気など、残念ながら私には存在していない。
男性に手を引かれ、喚く声も聞こえなくなってきた辺りで、私はようやく掴まれた手のひらを振り払うことが出来た。勝手にずんずんと進んでいた男性は我に返ったのか、なんだかひどく申し訳なさそうに眉尻を下げて私を見る。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「お礼だなんて。こちらがお詫びしなければいけないのに」
向かい合った形で、今度は両手を掬い上げられてしまう。いい年をした大人が何をしているのだと冷静に突っ込む頭の隅っこも、混乱が先に来てしまっては上手く避けることも出来ない。
「私は大丈夫ですので、あなたはお戻りください」
掬われ、握られた手の甲があたたかい。そう言えば、連れ出されたさっきも彼は私の手を強くは掴まなかった。まるで小さな子どもの手を取るかのような優しさで、いつでも振り払うことの出来る優しさだった。
呆気に取られていただけで、私はいつでもこの男性からも逃げることが出来たのだ。
「僕のせいで君が傷付いているのに。お礼もお詫びもさせてもらえないのは淋しいよ」
なんとか紡いだ言葉も、真っ向から返されてしまっては詰まってしまう。あの男に何か言われたところで、私が傷付くことは何もない。私がただ勝手にすばるさんを好きになって、勝手にすばるさんを応援しているだけ。そのことに何か言及されても、私の腹は痛くも痒くもない。
どうしてそんなことをわざわざ言いに来たのだろうか、と不思議に思っても、結局はそれだけだ。男の行動に理解が出来なくて言葉に詰まってしまったが、私自身が傷付いて黙っていたわけでもないのだから。
どう切り抜ければ穏便に済ますことが出来るだろうとそんなことは考えたが、あんな自分勝手な他人の一言でショックを受けるようなことは何もないはずだ。それをどう言えばこの人に伝わるだろうかと思考を巡らせようとして、ふと彼の言葉に違和感を覚えた。
あの日はすばるさんに雑言を伝えるかどうかのことで感じたものが、今度はすばるさん本人に関することで湧き上がってくる。なんだ、と考えるよりも先に口が動いていて、見渡すように逸らしていた視線を男性へと真っ直ぐに向ける。
「僕のこと……?」
自然と眉根が寄っていくのを感じたが、取り繕う気力はない。険しくなっていく自分の顔をそのまま放置して、手のひらを掬ったあたたかな男性を見上げる。
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僕の言葉という科白に、正しく呼ばれてしまった名前に、喉奥で息が詰まったのが分かった。ひゅ、と空気の抜ける音に、男性はにっこりと深く口端を持ち上げる。
SNSや詩集での顔出しも、展示会でのファンとの交流もなかったから知らなかった。知り得るはずがなかった。
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