光の群れ星

由佐さつき

文字の大きさ
12 / 13
本編

六、

しおりを挟む



 やっと、世界で一番欲しかったものが手に入った。僕には言葉さえあればいいと信じ込んでいた未来を変えてくれたたった一人が、今はこうして僕の腕の中で息をしてくれている。
 僕にとって、言葉は何よりも大切なものだった。きっかけなんてはっきりとしたものはなく、舌足らずにしか喋れない幼い頃から漠然と気付いていた。
 だからという訳でもないが、僕は随分とゆっくり喋る子どもだったと思う。声に出すときにはゆっくりと飲み込んで咀嚼して言葉を選ぶから、同級生からは面白くないと除け者にされる。悲しくて淋しくて泣いてしまったこともあるけれど、僕は僕の生き方を変えることは出来なかった。
 中学生に上がった頃からは、ゆったりとした性格なのだと解釈されるくらいで、昔みたいに除け者にされたり揶揄ったりはされなくなった。平和で、穏やかで、凹凸のない日々。同じくらいの子からしたらつまらない毎日かもしれないが、僕にはそんな日常が丁度よかった。
 そのくらいの時期から、僕は詩を書くようになった。僕にとって学校で習う毎日の勉強よりも、放課後や休日に友だちと遊ぶよりも、辞書を片手に言葉を探して拾い集めて、ひとつの形に整える方が楽しかったし、重要なことだった。
 知らない言葉を知って、幽霊みたいに迷っている言葉を拾って、僕なりの帰る場所を作ってあげる。誰かに褒められることでも、感謝されることでもない。自己満足だと分かっていても、僕は絶対にやめたくないと思った。
 好きでやっていることだから、趣味の範囲に収めておけばいい。詩人と名乗るようなプロになるつもりも、どこかに発表するつもりもない。感想が聞きたいと思うこともなくて、ノートに綴った言葉の波は僕だけの秘密になった。
 ある程度の勉強は苦にならないし、月に数度なら友だちと遊びに出掛けるのも楽しい。それでも僕にとっての一番は言葉をかき集めることで、大切だと抱えているのは出来上がった詩だけだ。
 誰にも内緒、僕だけの秘密。両親も担任の先生も知らない趣味は、高校生なってからも変わらずに続いていた。
 頭が良いわけでも、運動が出来るわけでもない。将来のことを考えると憂鬱になって、毎週のようにある模試の愚痴を言って、友だちと適度に遊んでいるような平々凡々な僕が、何か特別な存在になれるだなんて思ってもいない。
 大学には進学するつもりだけれどやりたいもないし、ただの会社員の親を継げるわけもない。どうしようかとあまり深くは考えず、でもなんとなくぐだぐだと考えてしまっていた帰り道。
 帰宅部の僕はその日、偶々一人で帰っていて、偶々ふらりと散歩したい気持ちになっていた。真っ直ぐ帰っても母親からは勉強しなさいと言われるだけだし、そんな小言を聞きながら言葉を探すのも嫌だし、じゃあ晩御飯の時間まで寄り道すればいいじゃないかと思い付いただけの時間だった。
 そうして普段は降りない、定期券内の知らない駅で降りて、重たそうなビジネス鞄を小脇に抱えたおじさんを横目に当てもなく歩いていた。惹かれた小道に入って、初めて見る喫茶店や雑貨屋をガラス越しに覗き、またふらふらと気ままに歩く。
 そろそろ道が分からなくなりそうだし引き返すか。
 そう思い始めたところで、ぽつんと浮かぶように灯りが見えた。クリーム色に赤を混ぜたみたいな不思議な色が視界に飛び込んできて、何も考えずに近寄っていった僕を待っていたのは、よく分からないスペースだった。
 高架下にある二階建ての木造建築は、一階だけしか電気が点いていなかった。大きく開いた扉からは囁くような小さな声が聞こえてきて、影から覗いてみると何かが展示されているように見える。
 何だろうかと目を細めたところで後ろから急に声が掛けられて、振り返ると黒縁眼鏡に黒いニット帽を被った男性がいた。
 その彼が、今でもずっと付き合いの続いている山下さんだ。あの頃はまだ大学生だった山下さんは本人も芸術大学の美術科に通う絵描きさんだったが、展示の企画や運営をする方が性に合っているような世話焼きで、山下さんがいなかったら僕はきっと詩人という肩書きを背負うこともなかっただろう。
 山下さんに声を掛けられて、建物の中に入ってみると展示されていたのはプロの卵らしい詩人の作品だった。
 僕は詩を書いているくせに授業以外で読んだことはなく、こうした展示会に来るのも初めてだ。書かれている内容も、それが誰だったのかももう覚えてはいないが、ひどくきらきらと光って見えたのだけははっきりと脳裏に残っている。
 壁いっぱいに飾られた作品を見て僕がどういう顔をしていたのか、山下さんは親戚のおじさんみたいにだらしなく笑っていた。にこにこと笑って見守られていることに思春期らしく恥ずかしさを感じたが、嫌になって出ていくということは出来なかった。
 それから、山下さんは自分が主催するのだという企画展に誘ってくれて、僕は初めて人前に自分が書いた詩を出した。僕は僕の思うように言葉を綴れたらそれで良かったが、見にきていた人が好きだと言ってくれたり、次も参加してほしいと望んでくれたりして、柄にもなくなんだか嬉しくなってしまう。
 高校生のうちは保護者の許しがないと駄目だと、誘ったくせに山下さんが厳しく言ってきた。面倒だから断る、という選択肢もあっただろうけれど、高校生の僕の頭にはそんなことかすりもしなかった。
 山下さんの言う通りに、僕は両親と囲む夕飯の席で聞いてみた。僕の趣味はバレてしまったけれど、勉強しなさいと口酸っぱく言ってくる母親も、口数の少ない厳格な父親も、周りに迷惑を掛けないようにとだけ言って放任してくれた。それがありがたくて、それからずっと山下さんにはお世話になっている。
 学生のうちは誘ってくれる合同展や企画展に参加して、僕だけの個展は大学卒業を記念して一度だけやるつもりだった。だけど、詩を書くことは呼吸をするのと同じくらい僕の中では当たり前で、毎日生まれる言葉の羅列に行き場を与えたくなってしまった。
 だから、出版社に就職しても、仕事が忙しくなって余裕がなくなっても、年に一回の個展は続けていた。趣味のひとつとして、お金は稼げなくてもいい。だけど見にきてくれる人がいて、誘ってくれる山下さんがいるうちは続けようと思っている。
 見にきてくれた人が好きだと言ってくれると嬉しいが、玄人ぶって批評されてもそれはそれで気にならない。そっか、と思うだけで、嫌だとか悲しいだとか感じたことは一度もない。
 僕が僕の主観で書いた詩が、その人には合わなかっただけ。それ以上でもそれ以下でもないと、悪評ばかりを書き殴ったアンケートを見下ろしながら山下さんに伝えた。山下さんは僕を心配して見せるかどうか迷ったらしいが、あっけらかんとした僕の態度に苦く笑っていた。
 好きだと思う人が読んでくれたらいい。それくらいにしか思っていなかったし、趣味なんだから僕は無理しない範囲で好きに書く。そんな風に考えていたのに、ある日、僕の人生はたった一人に変えられてしまった。
 六年前の個展に来てくれた、草臥れたスーツ姿のサラリーマン。年齢は僕と同じくらいで、さっぱりとした塩顔のイケメンだ。同年代の方が来るのはそう珍しいものでもないが、その人はちょっと心配になるくらい泣いていた。
 感動しました、涙が出ました。そんな感想を山下さん伝に聞くことはあったが、こんなにも人間臭さを剥き出しに泣いている人は初めて見た。
 静かに頬を伝っていく透明な雫が、何の変哲もない照明にあたって星のように煌めいている。星をテーマにした詩の中にいて、その人は一番に輝いていた。
 ああ、この人だ。この人だけが、僕の全てを分かってくれている。
 名前も、年齢も、どこの誰かも。臆面もなく泣いているその人のことは何も分からないのに、それだけは確かなこととして脳に刻まれた。大人のくせに公衆の面前で泣いている、と引いてしまいそうになったのに、次の瞬間にはもうこの人しかいないと本能が叫んでいた。
 持っていたポケットティッシュを渡して、空気を読んで立ち去ることが出来ない。きっと放っておいてほしいだろうその人に話し掛け、彼の言葉を待つ。偶々通りがかったと言うのに、まるで宝物のように落とされた言葉に心臓が撃ち抜かれてしまった。
「この方が私の星だったのだな、と」
 好きだと言われたら嬉しいと感じるけれど、だからと言ってそれ以上の何かが生まれるわけではない。ありがたいなと思っても、目の前で感謝の言葉を伝えたいなんて一度も思わなかった。
 彼だけが、特別だった。彼の言葉が僕の中に深く沈み、一等星よりもずっと眩しい星になる。此処にある星を生み出したのは、星々になるようにと飾りつけたのは僕であるはずなのに、この世界でたったひとつの星をもらってしまった。
 絶対にこの星が欲しい。そのためならなんだって出来ると、もう一度輝く星のような涙を溢す横顔に誓った。
 気まずくなったのか、帰ろうとする彼を出入り口まで見送って、そのまま山下さんの声も聞かずに追いかける。急に話し掛けたら驚かしてしまうだろうから、と後ろをついて歩けば、彼の住む家も名前も職場も特定してしまっていた。
 言葉の持つ成り立ちや意味を考えたり、それを組み立ててひとつの形に整えたりするのが好きで、僕はずっと詩を書き続けていた。山下さんに誘ってもらって企画展に作品を提出したり、ゴールデンウィークという素晴らしい時期に個展をさせてもらったりしているが、根源は僕のために詩を書いていた。
 読んでくれる方がいるのだと忘れているわけではなかったが、こうして僕の書く全てを受け止めているのは、あの人しかいない。あの人は僕の書きたかった言葉の奥を読み取って、そしてただ読み飛ばすだけじゃなくてその薄っぺらい身体に招き入れてくれている。
 僕は僕のためじゃなく、あの人のために言葉をかき集めているのだ。あの人が受け取ってくれるから、招き入れてくれるから、僕はずっと書き続けてこられたし、これからも書き続けたいと思えるのだ。
 彼は、理仁くんは、次の展示にも来てくれて、合同展にだけ置かれているアンケートにびっしりと僕の言葉の感想を書いてくれた。詩集やポストカードを買ってくれたり、自宅で僕のことをネットで調べたり、理仁くんの毎日にはいつだって僕がいる。
 このあいだの燕の詩だって、理仁くんが好きだと言ってくれたからポストカードにしたのだ。物販コーナーは初日にしかあまり寄ってくれないから気付いてくれるか不安だったけれど、理仁くんはちゃんと気が付いてくれたし、二枚も買っていってくれた。一枚をわざわざ専門店で見繕った額縁に入れてくれて、毎日眺めてくれているのを知っている。
 誰の感想も必要としていなかったのに、理仁くんからの言葉は欲しくて個展にもアンケートを置くようにした。一応は全部に目を通しているけれど、ファイリングして保管してあるのは理仁くんからの言葉だけだ。
 嬉しくて、幸せで、死んでもいいとさえ思えてきてしまう。
 死んだら理仁くんに言葉を紡げないから絶対に死なないけど、僕の幸せ絶頂度はそれくらいに達していて、よくある人生グラフのようにピークから落ちてくることはない。理仁くんが僕に逢いにきてくれたから、僕は世界で一番の幸せ者になった。
 僕にとって言葉が何よりも大切で、それは今も変わりないけれど、言葉と同じ高さに理仁くんがいる。言葉と理仁くんが僕のそばにあるのならば、僕はそれ以上に何も望まないし何も要らない。
 山下さんやその繋がりの方のおかげで、会社勤めを辞めても僕と理仁くんが食うに困らない収入はいただけている。趣味も特技も好き嫌いもなかった理仁くんには僕しかいないし、僕も言葉と理仁くんがいえばそれだけでいい。
 だから、理仁くんが僕のところに来てくれるのをずっと待っていた。
 山下さんや他の作家を通して、僕に会いたいと伝えてくる人は今までにもいた。だけど僕はいつもそれを断っていたし、山下さんもそれを分かって僕にそんな相談をしてくるようなことはない。僕が逢いたいと、視線を交わしたいと思うのは理仁くんだけで、理仁くん以外は必要ない。
 理仁くんが僕の情報を追いやすいようにSNSのアカウントを作って、理仁くんにだけ見つかるよう写真に自宅の位置情報をつけた。それでも、人にさえ興味関心を持てなかった理仁くんは僕にどうアプローチしたらいいか分からないらしく、なかなか僕のところまで来てくれない。
 だから、僕の方から理仁くんを出迎えることにした。準備は何年も前から万端にしていたし、あとは適当なきっかけを作ればいいだけ。理仁くんは僕のために怒って、僕のために傷付いてくれるだろうって分かっていたから、わざとあの男を仕向けた。
 少し前から問題視されていた男は、山下さんから理由も特徴も聞いていたから知っていた。あの男の彼女が僕のファンになって、会うたびに僕の話をしたりデート先が僕の展示だったりしたのが不満だったらしい。
 別にそんなことはどうでもいいが、随分と僕に対して殺気立っていたからこいつしかいないと思って、山下さんに嗜められないうちにと発破をかける。
 案の定引っかかってくれた男に、理仁くんはどんな風に怒ってくれるだろうか。どんな風に傷付き、項垂れてくれるだろうか。湧き上がってくるわくわくを心の底に隠して近付くと、理仁くんは僕に対しても苛立っていた。
 すばるのことを何も分かっていないんだな、と冷えた視線を向けてくる理仁くんに、僕はとうとう込み上げる興奮が抑えられなくて、ひどい顔を理仁くんに見せてしまった。すばるのことをこんなにも理解して、その上で全てを肯定して受け止めてくれるのは、理仁くんしかいない。
 やっぱり、僕には理仁くんしかしない。早く僕のところに来てほしい。
 何年も何年もずっと待っていて、ようやくこの瞬間、理仁くんが僕のところに来てくれた。僕の腕に囲われて上目遣いになっている理仁くんはどこを切り取っても可愛くて、格好つけていたいのににやけがどうにも隠せなかった。
「あ、そうだ。最初に来てくれたときに渡すつもりだったの、忘れてたな」
 真っ直ぐに見つめてくれる瞳は、もう既に心地良さしか含まれていない。自宅を知っていたことを僕に怒られるのかと不安そうにしていた理仁くんは、そんな瑣末なことで僕が怒らないって分かってくれたのだ。可愛くて可愛くて、にこりと微笑みかけると理仁くんもそっと笑ってくれた。
 その可愛さに頭を抱えそうになって、代わりのようにぎゅっと抱き締める力を強くする。このままずっと抱き締めていたいけれど、僕の言葉を受け入れてくれていた理仁くんに、僕からのプレゼントがあるのだ。
 言葉と、理仁くんと。
 僕が大切に思って、愛おしいと感じているものの全てが詰まったこの一冊を、理仁くんなら真正面から余すことなく全て受け入れてくれる。
 作業部屋兼寝室にしている部屋の机上に、文庫サイズの本が一冊置かれている。それは僕が理仁くんのためだけに作った、この世界にその一冊しかない詩集だ。普段は作らない小さいサイズ感は、理仁くんがポケットに入れて持ち歩きしやすいようにと考えて発注した。
 理仁くんはその大きさや表紙のデザインで、未発表のものだとちゃんと気付いてくれる。ほんの数分前までは今の状況についてこられず、強張って固まった表情をしていたのに、今は嬉しさや興奮が端々から滲み出てしまっている。
「理仁くんだけの一冊なんだから、慌てなくても逃げないよ」
 きらきらと瞳を輝かせている理仁くんに直接手渡して、僕もその感動をじっくりと味わう。
 今まで来てくれた展示会でも理仁くんには僕が販売物を直接渡したかったが、全員にしないならやめろと山下さんに止められていた。だから、六年前からずっとこの瞬間を夢に見ていたのだ。
 理仁くんは僕の様子を伺いつつ、耐えられないと言うように立ったまま詩集を捲る。緩んだ口元が可愛くてちょっかいをかけたい気持ちになるが、そんなこと理仁くんだけじゃなくて僕も許せないからちゃんと我慢する。理仁くんのために綴った言葉を理仁くんが受け止めてくれているのに、その邪魔をするなんて僕は僕でも許せない。
 表紙を捲って、挟んだ遊び紙の感触を楽しんで、目次の一つひとつにまで目を通して、それからようやくひとつめの詩を読み始める。
 ひとつめの詩は、目次にも出していない。僕たちが出逢うきっかけになった星の詩を、今の僕がセルフリメイクしたものだ。
 あの詩を書いたその瞬間、僕自身が何を考えていたのかまでは覚えていない。だけれど、誰の中にもある伽藍堂にたったひとつの星が輝いていたらいい。拾い集めた言葉のどれかひとつが、誰かの伽藍堂を埋める手助けになればいい。
 珍しく僕は僕以外の誰かを思って書いていて、だからこそそれを理仁くんが見つけてくれて何よりも嬉しかった。
 この詩があったからこそ、僕は何よりも輝く一等星を見つけられた。僕の中にも確かにあった伽藍堂は、あの日を境に消えている。それを、理仁くんに伝えたかった。
 理仁くんの邪魔にならないよう、正面でつぶさに観察しながらも触れるのも声を掛けるのも遠慮していると、きらきらと光り輝いていた理仁くんの瞳がぼろりと零れ落ちていく。
「り、理仁くん!?」
 理仁くんの薄茶色の瞳が失くなってしまったと、焦って伸ばした両手は、だけれど次々に落ちてくる透明の液体だけを拾った。光の反射で透明が茶色く見えていただけで、実際は理仁くんが子どもみたいにぼろぼろと大粒の涙を溢しただけだった。
 僕はただ伝い落ち続ける涙を両手のひらで受け止めるしか出来なくて、渡した詩集を閉じて抱き締める理仁くんをあたためてあげることも出来ない。
 大切な人が目の前で泣いているのに、僕は慌てふためくしかない。その涙は悲しいものじゃないと分かっていながらも彼に両手を伸ばすことがどうしても出来なくて、それがどうしようもなく口惜しい。
 ぐずぐずと鼻水を啜りながらも、理仁くんは泣き止んでくれない。展示のときにも思うことだが、一度泣き始めた理仁くんは何時間でも平気で泣いている。その綺麗な瞳が溶けてしまいそうで心配になるから泣き止んでほしいのに、僕に出来ることと言ったらあの日と同じようにティッシュを差し出すことくらいだ。
 僕は近くに置いてあったボックスからティッシュを数枚抜き取り、ほとほとと静かに涙を落とす理仁くんに差し出そうとして止める。
 瞼を閉じてしまった理仁くんには差し出しても見えないだろうし、渡しても握り締められて終わる気がする。
 だから、僕は濡れて冷たくなった頬にティッシュを当てて涙を拭ったり、真っ赤になった鼻にティッシュを添えて鼻水が垂れてこないようにしたりした。理仁くんは気付いても反応する余裕はないのか、詩集を抱き締めたまま瞼も開けてくれない。
 止まらない涙に、赤く腫れていく眦に、僕の心はぎゅっと締め付けられる。抱き締めてあげたいのに出来なくて、そんな情けない自分が口惜しくて、覚束ないまま唇が勝手に動く。
 何を喋るか考えて、咀嚼して、慎重を期して話すはずの僕が、自分の声を聞いて初めて何を喋っているのかを理解する。こんな経験は初めてだったけれど、ほとほとと泣き続ける理仁くんを見ているとそれを止める気にはなれなかった。
「……理仁くんがいたから、僕はこうして此処にいる。これまでも、これからも、ずっとずっと。いつまでもそれは変わらない。理仁くんも、変わらず僕のそばにいてくれる?」
 言葉を拾い集め続けているくせに、こんなときに限って上手く言葉が続かない。幼稚で拙い言葉ばかりを並べたて、それでも今の僕を最大限に示す。僕には言葉と理仁くんしかないから、飾らない言葉を使うときっと似たり寄ったりの組み合わせになってしまうだろう。
 見つめる先で、ゆっくりと伏せた瞼が持ち上がる。短い睫毛が涙でしとどに濡れていて、それがひどく甘そうに映った。
 きらきらと光り輝く薄茶色に、怯えや戸惑いは含まれていない。真っ直ぐに、どこまでも素直に僕を見つめてくれていて、その何よりも眩しくて美しい色にまた惚れてしまう。理仁くんには惹かれる部分しかなくて、このままじゃ僕の命はいくつあっても足りないような気持ちになる。
「私で、いいんですか?私には何もなくて、あなたの何かになれるとは到底思えません」
 ゆっくりとスローモーションで開いていく唇に何が言われるのかとわくわくしていたら、告げられた言葉の意味にぴたりと息が止まる。折角理仁くんが僕に言葉をくれたというのに、あまりの衝撃に全てを忘れ飛ばしてしまうところだった。
 何もないなんて、何かになれないなんて、どうしてそんなことを言うのだろうか。理仁くんはすばるの全部をちゃんと受け止めてくれているのに、どうしてそんなにも不安そうにしているのだろうか。
「理仁くんには、僕の代わりがいるの?」
「っ、そんなものいるわけがありません!私にはあなただけ、すばるさんだけ……!」
 僕の言葉に、薄茶色がまた透明の膜に覆われる。理仁くんには僕しかいないって分かってて聞いているのだから申し訳ない気持ちも湧いてくるが、でもそれ以上に悲しかった。
 僕にも理仁くんしかいないのに、どうして理仁くんは分かってくれないのか。知っているはずなのに、すばるの言葉を読んでいるはずなのに、どうして理仁くんはそんなにも所在なさげにしているのか。親しい人間がいなかったからとも思えるが、これからは僕がちゃんと教えていかなければいけない。
 僕にはずっと理仁くんだけだったのだと、彼がもう充分だと泣き喚くまで教えてあげなくちゃ。
「よかったぁ。……、それと一緒。僕にも、理仁くんしかいないよ」
 ほっと息を吐き出して、今度こそ理仁くんを抱き締める。理仁くんは驚いたように身体を強張らせたが、体温が馴染んでいく頃には慣れて肩の力を抜いてくれた。
 理仁くんのちょっと低い温度に、興奮で熱くなった僕の体温が混じっていく。このまま境目までなくなって、どこまでも溶けてしまえばいい。
「私も、……私も、ずっとすばるさんのそばにいたいです」
 ぎゅうぎゅうと抱き締めた腕の中で、もぞもぞと動いた理仁くんが俯かせていた顔を上げて僕を見る。
 きらきらの薄茶色に僕が映っているのが分かるほどの至近距離で、理仁くんが可愛くて嬉しいことを教えてくれた。身長は大して変わらないのに、上目遣いになってしまうのがずるい。
 理仁くんが僕のところまで来てくれるのを待っていたけれど、痺れを切らして本当に良かった。なんならもっと早くに理仁くんの想像以上の奥ゆかしさに気付いて迎えに行きたかった。大切で大好きな理仁くんを、一分でも一秒でも長く感じていたい。
 これまでは言葉を通してしか理仁くんを感じられなかったけれど、これからはずっとそばにいてくれる。理仁くんもそれを望んでくれているし、僕ももう一生、この世界から消えたあともずっと、彼の全てを手放す気はなかった。
 滲んでくる体温のあたたかさが、理仁くんも同じように思ってくれているのだと伝えてくる。相思相愛、一蓮托生。同じように思ってくれていることが嬉しくて、幸せで、だらしないほどに口端が緩むのが分かった。
「じゃあ、これからはすばるって呼んでね」
 興奮してにやけが収まらないまま、理仁くんの耳元で告げるときょとんと瞳を丸くした。理仁くんはすっきりとした一重瞼をしているけれど、丸く見開いたら少しだけ眼孔の彫りが見える。
 初めて見る溝が可愛らしくて、指先でなぞってみるけど理仁くんは嫌がる素振りも見せない。目が見えなくなったら僕の詩も読めなくなるのに、僕を信用してくれている事実に胸が熱くなる。
 理仁くんの全てが可愛くて、格好良くて、大好きで。ずっとこのまま見つめていたいけれど、今は早く名前を呼んでほしかった。
 僕は本名をそのまま作家名にしているけれど、本当は漢字が当てられている。音にすれば変わりはないけれど、理仁くんには作家名ではなく本名だと認識して呼んでほしい。
 言葉の意味を頑張って考えながら、何度も短い瞬きをする理仁くんは幼い子どものようにも、か弱い小動物のようにも見える。これからは僕がこの子を大切に扱って、何からも守れるのだと思うと背筋が伸びるしにやけが止まらない。
 にやにやと笑いっぱなしの僕を見つめながら言葉の意味を考えて、それでようやく思い至ったのだろう理仁くんの頬が真っ赤に染まる。それは次第に耳殻や鎖骨にまで広がっていって、全身が茹蛸のように赤く熱くなった。
 今までに恋人がいたこともあるのに、理仁くんは初心で照れ屋さんで可愛い。愛おしさが込み上げてきて額にキスをひとつ落とすと、理仁くんはもっと赤くなってしまった。
 早く呼んでほしいけれど、恥ずかしがって照れている理仁くんも可愛いからなんだっていい。昴と呼んでもらうのはこれからいつだって出来るのだし、今はこうして照れて真っ赤になっている理仁くんを堪能しよう。
 ようやく手に入れた、僕の理仁くん。理仁くんだけが僕を理解してくれる、僕だけの光。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

路地裏の王子様と秘密のカフェ ―10年ぶりに再会した親友はトップアイドルでした―

たら昆布
BL
大学生の千秋がバイト帰りの路地裏で助けたのは、今をときめくアイドル『GALAXY』のセンター、レオだった。 以来、レオは変装して千秋の働くカフェへ毎日通い詰めるようになる。 ​「千秋に会うと疲れなんて全部消えちゃうんだ」 トップアイドルとは思えないほど素直に懐いてくるレオに、千秋は戸惑いながらも多忙な彼を支えたいと願うようになる。 ​しかし、千秋はまだ知らない。 レオが10年前に「また絶対会おう」と約束して別れた泣き虫な親友の玲央本人だということに。

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

たとえ運命じゃなくても、僕は

mimi
BL
「僕は自分の気持ちを信じたい。 たとえ運命から背を背けようとも」 音楽大学に通うΩの青年・相田ひなた。 努力家の先輩αと、 運命の番だと告げられた天才α。 運命か、愛情か―― 選ぶのは、僕自身だ。 ※直接的な描写はありません。

若頭と小鳥

真木
BL
極悪人といわれる若頭、けれど義弟にだけは優しい。小さくて弱い義弟を構いたくて仕方ない義兄と、自信がなくて病弱な義弟の甘々な日々。

サラリーマン二人、酔いどれ同伴

BL
久しぶりの飲み会! 楽しむ佐万里(さまり)は後輩の迅蛇(じんだ)と翌朝ベッドの上で出会う。 「……え、やった?」 「やりましたね」 「あれ、俺は受け?攻め?」 「受けでしたね」 絶望する佐万里! しかし今週末も仕事終わりには飲み会だ! こうして佐万里は同じ過ちを繰り返すのだった……。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

捨てられた生贄オメガ、魔王城で極上の『巣作り』始めます!~不眠症の魔王様、私のクッションで爆睡して溺愛モードに突入~

水凪しおん
BL
「役立たずのオメガ」として冷遇され、血も涙もない魔王への生贄として捨てられたリノ。 死を覚悟して連れてこられた魔王城は、寒くて硬くて、居住性最悪のブラック環境だった!? 「こんなところで寝られるか!」 極限状態で発動したオメガ特有の『巣作り本能』と、神業レベルの裁縫スキルが火を噴く! ゴミ同然の布切れをフカフカのクッションに、冷たい石床を極上のラグマットにリフォーム。 すると、不眠症で常にイライラしていた魔王ザルドリスが、リノの作った「巣」のあまりの快適さに陥落してしまい……? 「……貴様、私を堕落させる気か」 (※いいえ、ただ快適に寝たいだけです) 殺されるどころか、魔王様に気に入られ、気付けば城中がリノの虜に。 捨てられた生贄オメガが、裁縫一つで魔王城を「世界一のマイホーム」に変える、ほのぼの逆転溺愛ファンタジー!

処理中です...