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エリック
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エリックは自分の母親、ミリー・アッシャーウッド夫人に疎まれていた。
いや、恐れている、といった方が正しかったかもしれない。母はいつもエリックを怯えた目で見てくるくせに、口元だけは無理に引きつった笑みを浮かべていた。
家では一定の距離を保って決して近づかないが、外では良き母親の役を演じるために過剰なまでにエリックを可愛がる仕草を見せる。
エリックの小さな肩を抱き寄せ、髪を撫で、慈愛に満ちた(と見せかけた)言葉を囁く。だが、その手はいつも震えていた。
そんな毎日が続き、十歳くらいの頃にはすでに、エリックは夫人に母親としての愛情をもらうことをすっかり諦めていた。
「今日は、奥様はご不在で?」
家庭教師のベンジャミンが聞いてきた。ちょうど帰るところだった彼は、家の主に挨拶をしようと思ったのだろう。父親が日中、屋敷にいることはまずないと、彼はよく知っていた。
「……母は、今の時間なら教会に行っているんじゃないかな?」
「そうですか」と、ベンジャミンは言った。彼は常に眉間に深い皺を寄せ、目つきが悪く、まるで怒っているような顔つきをしていた。エリックはその強面を全く気にしていなかったが、この男を苦手としている者は屋敷の使用人をはじめ多くいた。アッシャーウッド夫人もその一人だった。
「奥様は、本当に敬虔な信徒でいらっしゃいますね。お忙しいのに、こうも頻繁に教会で祈りを捧げられるとは」
教材を鞄に詰め終えると、ベンジャミンは「では、また水曜日に」と言って、寸分も狂いのない、しかし感情の読めないお辞儀をして帰っていた。
エリックは、その屈強な背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「ああ、そうだね、本当に……熱心だよねえ。素晴らしいよねえ」
その声には、言葉とは裏腹に侮蔑の色が浮かんでいた。
ベンジャミンに母親の話題を出され、なんだかむしゃくしゃしてきたエリックは裏手の湖に行った。気持ちがざわつく時、一人になりたい時はいつもここに来ていた。
その湖には、『異界へと続く入口』という古くからの伝承があった。そのせいか、エリック以外近づく者はほとんどいなかった。
深く深く潜って、キラキラと光る水面を眺めながら、ただ流れに身を任せて漂う。彼の頭上を小さな魚たちが優雅に泳いでいった。次第に何もかもどうでもよくなっていく。
―――――――母が教会を訪れる真の理由を、エリックは知っている。
ミリー・アッシャーウッド夫人は、この湖で魔物と交わり、エリックという不義の子を産んだ。
その事実は夫人の精神を蝕み始めていった。彼女は、定期的に告解室で、ブレイクの父親のカールトン牧師に罪の告白をすることで、精神の安定を保つようになっていったのだ。
エリックには、夫人の告白が手に取るように分かっていた。
***
告解室の暗がりでは、暗めの服を纏い、ベールのついた帽子を被っているミリー夫人が、いつものように罪を告白していた。
「牧師様……私は、恐ろしい罪を犯しました。あの湖で、私は……」
すすり泣き混じりの声で、ミリーは、夫の子ではないエリックの出生、そして、その子への抑えきれない恐怖心について語った。
「エリックは、私たち夫婦とは全く似ていないのです。
夫とも、私とも違う銀髪に色素の薄い緑の瞳。人間離れした整い過ぎた容姿。
どう見ても、私があの時出会った、湖のアレに瓜二つなのです。
それなのに、誰もあの子の出自を疑わない。
それどころか、あの子は周囲を魅了し、皆、あの子を可愛がる。夫も同じです。
――私だけが、あの子が恐ろしくてたまらないのです」
カールトン牧師は、ただ静かに耳を傾けていた。告解を受けることは、神との契約であり、何があっても口外することはできない。
「私は……死んでほしいと願ってしまうのです。魔物の力を受け継いだあの子が。
生まれるべきではなかったと思ってしまうのです。
どうかこの罪深い私をお許しください」
牧師がそれに対して、『主よ、この哀れな娘をお救いください』と祈りを捧げる。
それだけだったが、その繰り返しで彼女の精神は確かに安らぎを得ていた。
――――この秘密が、ある男に知られてしまうその日までは。
いや、恐れている、といった方が正しかったかもしれない。母はいつもエリックを怯えた目で見てくるくせに、口元だけは無理に引きつった笑みを浮かべていた。
家では一定の距離を保って決して近づかないが、外では良き母親の役を演じるために過剰なまでにエリックを可愛がる仕草を見せる。
エリックの小さな肩を抱き寄せ、髪を撫で、慈愛に満ちた(と見せかけた)言葉を囁く。だが、その手はいつも震えていた。
そんな毎日が続き、十歳くらいの頃にはすでに、エリックは夫人に母親としての愛情をもらうことをすっかり諦めていた。
「今日は、奥様はご不在で?」
家庭教師のベンジャミンが聞いてきた。ちょうど帰るところだった彼は、家の主に挨拶をしようと思ったのだろう。父親が日中、屋敷にいることはまずないと、彼はよく知っていた。
「……母は、今の時間なら教会に行っているんじゃないかな?」
「そうですか」と、ベンジャミンは言った。彼は常に眉間に深い皺を寄せ、目つきが悪く、まるで怒っているような顔つきをしていた。エリックはその強面を全く気にしていなかったが、この男を苦手としている者は屋敷の使用人をはじめ多くいた。アッシャーウッド夫人もその一人だった。
「奥様は、本当に敬虔な信徒でいらっしゃいますね。お忙しいのに、こうも頻繁に教会で祈りを捧げられるとは」
教材を鞄に詰め終えると、ベンジャミンは「では、また水曜日に」と言って、寸分も狂いのない、しかし感情の読めないお辞儀をして帰っていた。
エリックは、その屈強な背中を見送りながら、ぽつりと言った。
「ああ、そうだね、本当に……熱心だよねえ。素晴らしいよねえ」
その声には、言葉とは裏腹に侮蔑の色が浮かんでいた。
ベンジャミンに母親の話題を出され、なんだかむしゃくしゃしてきたエリックは裏手の湖に行った。気持ちがざわつく時、一人になりたい時はいつもここに来ていた。
その湖には、『異界へと続く入口』という古くからの伝承があった。そのせいか、エリック以外近づく者はほとんどいなかった。
深く深く潜って、キラキラと光る水面を眺めながら、ただ流れに身を任せて漂う。彼の頭上を小さな魚たちが優雅に泳いでいった。次第に何もかもどうでもよくなっていく。
―――――――母が教会を訪れる真の理由を、エリックは知っている。
ミリー・アッシャーウッド夫人は、この湖で魔物と交わり、エリックという不義の子を産んだ。
その事実は夫人の精神を蝕み始めていった。彼女は、定期的に告解室で、ブレイクの父親のカールトン牧師に罪の告白をすることで、精神の安定を保つようになっていったのだ。
エリックには、夫人の告白が手に取るように分かっていた。
***
告解室の暗がりでは、暗めの服を纏い、ベールのついた帽子を被っているミリー夫人が、いつものように罪を告白していた。
「牧師様……私は、恐ろしい罪を犯しました。あの湖で、私は……」
すすり泣き混じりの声で、ミリーは、夫の子ではないエリックの出生、そして、その子への抑えきれない恐怖心について語った。
「エリックは、私たち夫婦とは全く似ていないのです。
夫とも、私とも違う銀髪に色素の薄い緑の瞳。人間離れした整い過ぎた容姿。
どう見ても、私があの時出会った、湖のアレに瓜二つなのです。
それなのに、誰もあの子の出自を疑わない。
それどころか、あの子は周囲を魅了し、皆、あの子を可愛がる。夫も同じです。
――私だけが、あの子が恐ろしくてたまらないのです」
カールトン牧師は、ただ静かに耳を傾けていた。告解を受けることは、神との契約であり、何があっても口外することはできない。
「私は……死んでほしいと願ってしまうのです。魔物の力を受け継いだあの子が。
生まれるべきではなかったと思ってしまうのです。
どうかこの罪深い私をお許しください」
牧師がそれに対して、『主よ、この哀れな娘をお救いください』と祈りを捧げる。
それだけだったが、その繰り返しで彼女の精神は確かに安らぎを得ていた。
――――この秘密が、ある男に知られてしまうその日までは。
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