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フォンジーの苦悩 2 一の宮の絶叫
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フォンジーは、何が、とはいわなかったが……イエツにはそれが何を指しているのかはすぐにわかって口を結ぶ。
包みを見下ろすフォンジーは、何かを懐かしむような、あたたかなまなざし。
身分のそぐわないその交流をイエツはけして歓迎はしていないが……疲れはてているだろう主がはせる想いまでを、邪魔する気はない。
ただ沈黙した侍従の前で、フォンジーは丁寧に油紙を開いた。
青年の脳裏に思い出されるのは、いつだかに見た光景。
確かあれは、彼が最初にロアナの菓子を口にしたあとに、興味が湧いて再び二の宮の厨房を訪れたときのことだった。
普段、多くの使用人に囲まれ気ままな行動ができない彼にとっては、イエツの協力を得てこっそりフランツのところにいくのも、二の宮の厨房に立ち入るのさえも、ささやかだが冒険のようなもの。
そんな束の間の冒険先で見かけたのが、彼よりも少し年上の女の子。──ロアナだった。
彼女は昼下がりの光がさしこむ静かな厨房で、ひとりでもくもくと菓子を焼いていた。
興味をひかれたのは、その作業風景。
提供されるものを食べるばかりで、厨房になどほとんどこないフォンジーにとっては、製菓道具のひとつひとつが物珍しい。
彼にとっては何に使うのかすら想像もつかない道具をうまく操り、菓子を作り上げていくロアナは、まるで錬金術師のようだった。
作業の全体をきちんと把握しているのだろう。彼女は実に手慣れていて、無駄の感じられない動きは見ているととても楽しかった。
感嘆しつつこっそり眺めていると、しかし時を忘れて見入っているうちに、いつの間にか作業をひと段落させたらしいロアナはあっという間にその道具たちを片付けてしまった。
(──え……いつの間に?)
その見事な手際に驚き、楽しい光景が終わってしまったことを少し残念に思っていると。視線の先で、ロアナはふうっと息を吐いて気持ちよさそうに額の汗を手でぬぐった。
あのときの、満足げで幸せそうな表情は、今でもフォンジーの心に残っている。
それから彼女は、調理台のそばにあったイスをオーブンの前まで引き寄せて腰を下ろした。
……どうやら、そこで菓子が焼きあがるのを待つつもりらしい。
時折オーブンのほうをのぞきこむその顔は、おだやかな達成感と期待感に満ちていた。その目は明るくて、見ているフォンジーにまで、彼女のわくわくした気持ちが伝わってくるようで……。
その横顔を見つめた青年は、なんとなく思ったのだ。
(……いいなぁ)
王子としての生活は悪くないが窮屈だ。
物心ついたときから、当たり前のように日々母から課せられるものがあり、フォンジーはあまり自分で選んで何かをしたことはなかった。
幼児教育からのたまものか、ありがたいことになんでもある程度はこなせる器用さがあり、特に不満もなかったが……。
ただ、あんなふうにキラキラと瞳を輝かせられるようなものは、彼にはない。
フォンジーは、なんだかとてもその横顔にある充足感がうらやましかった。
(ぼくにも何か、あんなに夢中になれることがあったらな……)
おそらく、歳が近い、少し年上の娘であったことも影響したのだろう。フォンジーはすっかりその娘ロアナに、尊敬の念を抱いた。
話しかけてみたいなぁと思っていたのだが……。
厨房のなかは優しい甘い香りにつつまれていて、オーブンからはパチパチと薪が燃える音。
イスに座ったロアナはその音に耳を澄ませるように目をつむっいて──見ていると。その頭がじきにゆらゆらとふねをこぎはじめる。
疲れていたのだろうか。それともオーブンから伝わってくる温かさに誘われたのか……。
彼女は窓からさしこむ陽気のしたでうとうと。
これにはフォンジーもつい笑ってしまった。
つい今しがたまでの、てきぱきと頼もしいようすから一転。気の抜けた姿が、なんとも愉快で可愛らしくて。
「…………」
フォンジーの口の中で、サクッとクッキーが割れる軽い音。口の中には優しい甘さが広がった。
彼は菓子を口にすると、いつもあの時のロアナを思い出す。
ほんのり温まった心を感じて少し視線を上げたフォンジーは、ぽつりとつぶやいた。
「……ぼくは、もっと強くならなくちゃ……」
今はまだ、彼よりも母の権力の方が大きい。だから、今回ロアナにも迷惑をかけてしまった。
それなのに、今は母を抑え込むのも父やイアンガード頼み。──情けなかった。
だが、いずれは自分であの母を抑えこめるだけの力を持ちたい。
今回のことで彼は、母を放り出すことができないのならば、自分が母を助長させずうまく御せるだけの実力をつけなければ話にならないと痛感した。
そのためには、とフォンジーの顔が引き締まる。
「ぼくは、兄上たちにも負けてはいられないよね」
得たいものを得て、何かを守っていくには力が必要だ。
「殿下……」
手早く包みを閉じて立ち上がると、イエツが心配そうに彼を呼ぶ。
フォンジーは、そんな侍従に心配いらないというように微笑んだ。
「さ、部屋に帰ろう。明日も早──……」
い、と、青年が言いかけたとき。
静かな一の宮に、思いがけない大きな声が響き渡った。
──な……なぜ……何をなさ……るんですか………⁉
「⁉ え……な、なに……?」
けして近くはない場所からあげられたらしい、かすかに届いた悲壮な絶叫。
一瞬ギョッとして目を瞠ったフォンジーは、しかしすぐにハッとした。
「い、ま、の声……ロアナじゃなかった!?」
「は? え⁉ で、殿下⁉」
言うが早いか駆けだしたフォンジーに、イエツは慌ててその後を追う。
包みを見下ろすフォンジーは、何かを懐かしむような、あたたかなまなざし。
身分のそぐわないその交流をイエツはけして歓迎はしていないが……疲れはてているだろう主がはせる想いまでを、邪魔する気はない。
ただ沈黙した侍従の前で、フォンジーは丁寧に油紙を開いた。
青年の脳裏に思い出されるのは、いつだかに見た光景。
確かあれは、彼が最初にロアナの菓子を口にしたあとに、興味が湧いて再び二の宮の厨房を訪れたときのことだった。
普段、多くの使用人に囲まれ気ままな行動ができない彼にとっては、イエツの協力を得てこっそりフランツのところにいくのも、二の宮の厨房に立ち入るのさえも、ささやかだが冒険のようなもの。
そんな束の間の冒険先で見かけたのが、彼よりも少し年上の女の子。──ロアナだった。
彼女は昼下がりの光がさしこむ静かな厨房で、ひとりでもくもくと菓子を焼いていた。
興味をひかれたのは、その作業風景。
提供されるものを食べるばかりで、厨房になどほとんどこないフォンジーにとっては、製菓道具のひとつひとつが物珍しい。
彼にとっては何に使うのかすら想像もつかない道具をうまく操り、菓子を作り上げていくロアナは、まるで錬金術師のようだった。
作業の全体をきちんと把握しているのだろう。彼女は実に手慣れていて、無駄の感じられない動きは見ているととても楽しかった。
感嘆しつつこっそり眺めていると、しかし時を忘れて見入っているうちに、いつの間にか作業をひと段落させたらしいロアナはあっという間にその道具たちを片付けてしまった。
(──え……いつの間に?)
その見事な手際に驚き、楽しい光景が終わってしまったことを少し残念に思っていると。視線の先で、ロアナはふうっと息を吐いて気持ちよさそうに額の汗を手でぬぐった。
あのときの、満足げで幸せそうな表情は、今でもフォンジーの心に残っている。
それから彼女は、調理台のそばにあったイスをオーブンの前まで引き寄せて腰を下ろした。
……どうやら、そこで菓子が焼きあがるのを待つつもりらしい。
時折オーブンのほうをのぞきこむその顔は、おだやかな達成感と期待感に満ちていた。その目は明るくて、見ているフォンジーにまで、彼女のわくわくした気持ちが伝わってくるようで……。
その横顔を見つめた青年は、なんとなく思ったのだ。
(……いいなぁ)
王子としての生活は悪くないが窮屈だ。
物心ついたときから、当たり前のように日々母から課せられるものがあり、フォンジーはあまり自分で選んで何かをしたことはなかった。
幼児教育からのたまものか、ありがたいことになんでもある程度はこなせる器用さがあり、特に不満もなかったが……。
ただ、あんなふうにキラキラと瞳を輝かせられるようなものは、彼にはない。
フォンジーは、なんだかとてもその横顔にある充足感がうらやましかった。
(ぼくにも何か、あんなに夢中になれることがあったらな……)
おそらく、歳が近い、少し年上の娘であったことも影響したのだろう。フォンジーはすっかりその娘ロアナに、尊敬の念を抱いた。
話しかけてみたいなぁと思っていたのだが……。
厨房のなかは優しい甘い香りにつつまれていて、オーブンからはパチパチと薪が燃える音。
イスに座ったロアナはその音に耳を澄ませるように目をつむっいて──見ていると。その頭がじきにゆらゆらとふねをこぎはじめる。
疲れていたのだろうか。それともオーブンから伝わってくる温かさに誘われたのか……。
彼女は窓からさしこむ陽気のしたでうとうと。
これにはフォンジーもつい笑ってしまった。
つい今しがたまでの、てきぱきと頼もしいようすから一転。気の抜けた姿が、なんとも愉快で可愛らしくて。
「…………」
フォンジーの口の中で、サクッとクッキーが割れる軽い音。口の中には優しい甘さが広がった。
彼は菓子を口にすると、いつもあの時のロアナを思い出す。
ほんのり温まった心を感じて少し視線を上げたフォンジーは、ぽつりとつぶやいた。
「……ぼくは、もっと強くならなくちゃ……」
今はまだ、彼よりも母の権力の方が大きい。だから、今回ロアナにも迷惑をかけてしまった。
それなのに、今は母を抑え込むのも父やイアンガード頼み。──情けなかった。
だが、いずれは自分であの母を抑えこめるだけの力を持ちたい。
今回のことで彼は、母を放り出すことができないのならば、自分が母を助長させずうまく御せるだけの実力をつけなければ話にならないと痛感した。
そのためには、とフォンジーの顔が引き締まる。
「ぼくは、兄上たちにも負けてはいられないよね」
得たいものを得て、何かを守っていくには力が必要だ。
「殿下……」
手早く包みを閉じて立ち上がると、イエツが心配そうに彼を呼ぶ。
フォンジーは、そんな侍従に心配いらないというように微笑んだ。
「さ、部屋に帰ろう。明日も早──……」
い、と、青年が言いかけたとき。
静かな一の宮に、思いがけない大きな声が響き渡った。
──な……なぜ……何をなさ……るんですか………⁉
「⁉ え……な、なに……?」
けして近くはない場所からあげられたらしい、かすかに届いた悲壮な絶叫。
一瞬ギョッとして目を瞠ったフォンジーは、しかしすぐにハッとした。
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